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(依頼人に)ほだされる
「申し訳ありません。ただいま新山は立て込んでおりまして、少々お待ちいただけますか」
初めて、おそらくは勇気を振り絞って来てくれた相談者には悪いと思うものの、新山は前のクライアントとの話が押しているようだ。なかなか相談室から出てこない。千聖は代わりに別の相談室へと招き入れ、謝罪に頭を下げた。すかさず三島がコーヒーを持って現れ、控えめにテーブルへ置いて去っていく。
「大丈夫です。……あの、あなたも弁護士さんなんですよね?」
法律事務所にいるからだろうが、それにしても「弁護士ですよね」と話しかけられるのは初めてだった。肥大した筋肉は、どうしても頭脳労働に適しているようには見えないらしいのに。
「はい。ですが田辺様のご希望が新山でしたので……。もしお急ぎであれば、本日は私がお話をうかがってもよろしいでしょうか? その場合は、のちに私から新山へと田辺様のお話をお伝えすることになります」
本当なら自分が担当を代わることもできるのに、千聖はあえて伏せた。指名依頼に出しゃばるのは良くない。ここ数年で学んだことだ。
「それでいいです。ちょっと、自分でもよくわからないことになっていて、話して整理したいというか……」
「承知いたしました」
千聖は正面に座って名刺を差し出す。ブラインド越しの陽光が差し込むなかで、お互いに簡単な自己紹介を終える。
依頼人は田辺貴之といった。離婚調停になっているが状況もよくわからず、とりあえず初回相談九十分は無料だというチラシを見て来たと言う。離婚調停で弁護士を利用するのは親権や慰謝料絡みが多いだけに千聖はその覚悟をしていたが、読みは完全に外れた。
「お話を整理させていただきますと……、奥様の浮気が原因で田辺様から離婚を申し出たものの、奥様が反対して調停中になっている、と。そしてご子息の親権は奥様が希望しておられ、田辺様もそこに異存はないと。……ただし、奥様から慰謝料と養育費を要求されており、浮気した側へ慰謝料を払うのは疑問なのと……ご子息とは、血が繋がっていない、と」
離婚を拒むのに親権は要求してくるし、浮気でできた子どもを自分の子だと言われ育ててきたのに、血縁がないと発覚した今も「戸籍上はあなたの子だ」と養育費を払うよう迫られていて、結婚前から二股をかけていたことを思えば、慰謝料をもらうべきなのはこちらなのではないかと思っている。少なくとも、慰謝料は払わなくていいだろうし、養育費は実の父親へ請求するものではないのだろうか。
そう語る田辺は、色素の薄い細い髪がふんわりと舞う薄幸の美青年然としたまだ若い男で、髪と同じく亜麻色に見える眉尻をわかりやすく下げて困惑していた。
「ご事情は概ねわかりました。それは、確かに戸惑いますよね」
筋違いもはなはだしい。見た目も幸薄そうなのに、何もここまで複雑な事情を抱えなくても、と千聖は思わず同情してしまった。溜め息をこらえる。線の細い顔立ちと細身の体は過去の自分を見ているようで、千聖は余計に同情心を煽られた。
――これがきっと、だめだった。
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