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「あの、もう一杯いいですか?」
彼は空になったコーヒーカップを私に見せる。
「あっ、ただいま」
せかせかと席を立ち、私は彼からコーヒーカップを受け取った。
「ケーキ下げます……?」
いちごのホールケーキは、特に誰からも喜ばれることなく、テーブルの隅に追いやられている。
「はい。僕は桜でも見ておきます」
彼が頷いたのを見て、私はケーキの乗った大皿をひょいと持ち上げた。
厨房に行く直前に振り返ると、桜を眺める彼の小さな後ろ姿が見えた。
「このお店、実在しませんよ」
声を掛けたら、ワンテンポ遅れて、彼がゆっくりと振り返る。私は躊躇いながらも、小さく口を動かした。
「小さい頃、おしゃれカフェの店員さんになりたくて……ちょうどこんな感じの。でも、いまは普通に会社員だし、学生時代のバイトだって居酒屋でした。このお店は、私の夢の中にしか存在しない……叶えられてない私の未来のひとつです」
私が改めて店内を見渡すと、彼も真似して店内をぐるりと見渡していた。
「キラキラしてますね、未来」
しばらくして、彼が呟く。
「キラキラしてますかね? 未来」
そう呟きながら、踵を返す。
夢から醒める前に、彼に一杯のコーヒーを提供したい。
私は自然と早足になった。
* * *
夢から醒めれば、今日も変わらない朝がやってきて、色味のない日常がやってくるだろう。別ルートの未来に幻滅して、下を向いて歩く日もあるだろう。
それでも、歩かねば。
生きている人間に、季節は平等に巡ってくる。呼んでもないのに春がやってきて、望んでもないのに始まる。
それでも。
(了)
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