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口を聞いてくれなくなった彼女
早くも、もう5日が過ぎた。
彼女が全く口を聞いてくれない。
違った。彼女、ではなくつい最近結婚したから妻だった。
彼女の指にキラリと光る指輪と、自分の指にあるものを見る。まだ結婚してさほど経っていないから傷も少ない。綺麗なものだ。
何が原因なのか見当もつかないが、相当に怒らせてしまったようだ。
まるで空気のような扱いに、心がポキンと音を立てる。
僕も何だか口を開く気にならなくて、ただただ時間が過ぎるのを待つ。
ここまで無視されるのは久しぶりで、少々堪えている。この歳になって無視されるなんて思ってもいなかった。
用意されたご飯も、1人分。
弁当も1人分。
好物が並んでいるだけに、悔しい気持ちで眺めていたら、眉間に力が入るのが分かった。
「いってきます」
「……」
一瞬目があって、驚いたような表情がこちらを見た。目を見開いた顔だったが、目が合ったのがちょっとだけ嬉しくて、つい頬が緩む。
「みよ、」
美代子、と彼女の名前を呼ぼうとするが、またふい、と顔を逸らされた。
地味に傷つく。
ムッと頬を膨らませて、一気に息を吐いた。
ぼんやりとしながら家を出たせいか、気がつくとあっという間に夕方になっていた。
少しばかり疲れているんだろうか。
飛び飛びの記憶は、曖昧で思い出すのは難しい。ぼんやりとしながら帰路に着く。
仕事終わりのカップルたちが、合流して居酒屋に入って行く。
腕を組み、楽しげに微笑み合う。
そういえば、最近は携帯ばかりのぞいて、お互い干渉しない生活が何となく続いていたな。
こういったコミュニケーションをいつからしなくなっただろうか。
隣をすれ違うカップルは、携帯の画面から漏れる青白い光に顔を照らされて歩いている。片方のイヤホンから聞こえる声はラジオだろうか。
生返事を繰り返すカップルの姿に、妙に親近感を覚えた。
「僕たちもそういえば、こんな感じだったかもな」
側から見ると随分奇妙な構図に、胸が痛くなった。彼女の、ここの店とかどう?と言う言葉に、んー、と繰り返される返事に口をへの字に曲げて肩を落とす姿は痛々しい。こんな風に見えているのか、僕たちは。
一緒にいるのに一緒に居るだけの存在に見えなくもない。
後悔後にたたず。
後の祭り。
覆水盆に返らず。
好きな人に無視されるのはきつい。
「ただいま」
「……」
相変わらずの無視に、ついに僕も腹が立ち始めた。何をしてしまったのか、今となってはわからないけれど、今日見た光景が頭をよぎる。
伝えなければ伝わらない事を、よく分かっているつもりだった。
何も分かっていなかった。
美代子に口を聞いて貰えず、ただモヤモヤする気持ちを味わった今、僕は自分の反省点がよくわかる。
「美代子、僕が悪かった。お願いだから口を聞いてくれないか?」
美代子は夕方の日が入り込んだだけの薄暗い部屋のダイニングテーブルで腰掛けて何かをぼんやりと見ている。
携帯でも見ているのかと思ったら、それはテーブルの上で画面は真っ暗だ。
「美代子……僕が、僕が悪かったよ。君がいつも携帯ばかり見ないでと言っていたのに、仕事もあるからって聞き流していた。反省している。だから……美代子?」
膝の上にある文庫本ほどの大きさのものを見ていた彼女が、ふと思い出したように立ち上がった。
僕と話す気になったのかと一瞬嬉しくなったけど、ふぃ、と反対方向に向いてどこかへ向かう。
そっちはリビングだ。
テレビとソファ、一般的なリビング、だったはずだ。はずなのに、何かクローゼットのようなものがドンとかなりのスペースを陣取っている。
デザインや間取りや感覚なんか無視した置き方に、異様に目立っている。
「なんだい?これは……」
「慶太……」
ぽたりと彼女の頬に光るものが流れた。
手に持っていたものにポタポタと落ちて、雫が飛ぶ。
「それは、僕の……写真?」
美代子の手に握られていたのは、僕の笑顔の写真が入った写真立てだった。
そっと、リビングに鎮座するクローゼットが開かれる。その中に、その写真立てをコトリ、と置いた美代子はその場に崩れ落ちた。
ハッとして駆け寄って抱きしめようと手を伸ばすと、スカッと彼女の体を通り抜けてから振った。
なんて事だ、僕は、僕は口を聞いてもらえなくなったんじゃない。
口が聞けなくなってしまったのか。
「……つまらない事で喧嘩しちゃって、変な意地張らずに早く謝ればよかった……」
ポツリと溢れた彼女の声に、ハッとした。
そうだった。僕も彼女も、話を聞いてるか、聞いてないか、そんな些細な喧嘩でつい言い合いになって。
僕が頭を冷やしに外に出て、それで。
暗い夜道、光るランプ、消えかかった街灯。
僕の目から溢れた涙は、行き場をなくして宙に消えた。
彼女は口を聞いてくれなかったんじゃないんだ。
1人分の食事。
1人分の弁当。
僕の好物。
湧き上がる涙は、妻に届くことはない。
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