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あれから一カ月余りが経った。尋の元には、背の高い男からも、白いスーツの男からも、一切連絡は無かった。嘘みたいに静かな、普通の大学生としての生活が続いた。
「今日も連絡は無し・・か。」
尋は時折、携帯に着信がないかを見たが、やはり連絡は無かった。決して全てが無くなった訳ではない。組織の異分子が排除されただけで、再び落ち着けば、これまで通りに作業の連絡も入るだろうと、尋は思っていた。しかし、やけに静かだった。ワンの店にはあれから一度だけ顔を出したことはあったが、やはり白いスーツの男からは連絡は無いとのことだった。
「いってみるか・・。」
尋は長い間トラウマになっていたが、例の闇カジノのある場所にいってみた。建物の近くまで来たとき、尋は特に恐怖に震えることも無かった。自身に深手を負わせた連中が既に一掃されているのを知っていたからだろうか。一階のエレベーター付近に来たとき、
「あ。」
尋は声を上げた。例のマンションには既に別のテナントが入っているようだった。その後も、近所をうろついては時間を潰してみたが、それらし風体の人物が建物に入っていく様子は無かった。
「例の店は・・。」
尋は、自身が折檻を受ける切っ掛けとなった、女性達が集まる例の店にいってみた。
「此処もか。」
しかし、其処も既に空き店舗になっていた。全てが収まって、元通りになった訳では無さそうだった。何かを辿って、何が一体どうなったのかを探ろうにも、自身の請け負っている作業と、関わっている連中の世界が、それを殊更に拒んだ。互いに深入りし合わないことが、唯一のスタンスであり、生き残る術だった。仕方なく、尋はその場を立ち去り、元の生活に自身を埋没させた。それから一カ月、二カ月と、やはりどちらからも何の連絡も無かった。そして、三カ月目が過ぎようとしたある日、
「プルルルル。」
部屋で寛いでいる尋の携帯が鳴った。
「どっちだ?。」
尋は一呼吸すると、携帯の表示を見た。身に覚えのある番号だった。
「もしもし、尋です。」
「オレだ。久しぶりだな。」
白いスーツの男からだった。興奮と安堵が一気に訪れ、尋は言葉を失った。
「あ、あ、あの、」
「おう、どーした?。」
「いや、それはボクの方が・・、」
「はは。そーだったな。今晩、いけるか?。」
「はい。」
尋は強く返事をした。
「じゃあ、10時に迎えにいく。」
「はい。」
そういうと、男は携帯を切った。尋は願った。どうか、他に何も、用事も、作業の依頼も入らないことを。尋は兎角、彼に会いたかった。何がどうしたとか、そういうことでは無かった。ただただ、近く触れ合える人間を欲していた。やがて夜になり、尋は部屋を出ると、いつも彼が車を止める場所辺りにいった。しかし、約束の時間を過ぎても、彼は来なかった。そんなことは初めてだった。
「やはり、何か・・。」
尋がそう思いながら携帯を眺めていたとき、
「プルルルル。」
彼からの連絡が入った。
「はい。尋です。」
「オレだ。裏の路地にいる。」
「解りました。」
尋は、街灯が明るいその場所から、指示された裏通りに向かった。すると、其処にはダークブルーの外車が一台止まっていた。中には夜だというのにまっ黒なサングラスをかけた男が待っていた。尋は車に近付いていった。すると、窓が開き、
「よ。暫くだったな。」
濃いグレーのスーツを着た男が運転席に座っていた。尋は全てにおいて違和感を持ったが、
「はい。暫くです。」
と、再開の喜びが辛うじて先に立った。
「乗れ。飯いくぞ。」
「はい。」
尋が助手席に乗り込むと、車は発進した。車内のBGMは、やはりジャズだった。心地良いリズムは相変わらずだった。
「どうしてた?。」
男が口を開いた。
「はい。特に何も。」
「作業もか?。」
「はい。」
「そうか・・。」
男は僅かに言葉を交わすと、再び黙った。尋は急に聞いてみたいことで、気持ちが溢れそうになった。しかし、空白の三カ月の間に、どのようなことがあったのか全く解らなかった。何より、男の精神状態が如何なるものなのか、全く予測がつかなかった。それでも、
「あの、お元気でしたか?。」
辛うじて、それだけが聞けた。
「ああ。」
男は静かに微笑みながら、運転を続けた。それにしても、全てのトーンがシックだった。違和感の正体は、色か。尋は不意に聞いてみた。
「あの、車、換えたんですね。」
車だけでは無かったが、敢えて一つについてだけたずねた。
「ああ。あの色は、目に刺さる。」
そういうと、彼は胸元から煙草を出してくわえると、窓を少し開けて火を着けた。尋は直感した。あの時以来、恐らく、この人の中で何かが変わったんだと。そして、二人を乗せた車は、やがて見覚えのある場所に着いた。
「さ、いこうぜ。」
「はい。」
男はコインパーキングに車を止めると、二人で目的の場所に向かった。
「いらっしゃ・・、」
「よ!。」
カウンターからワンが鍋をほっぽり出して、駆け寄ってきた。
「あー!。元気だったかいー?。会いたかったよーっ!。」
ワンは男に抱きついた。店内にいた客達は呆然としていた。その傍らで、尋は二人の抱擁を見ながら、小さく頷いていた。
ワンは二人を二階へ誘うと、今いる客がいなくなるのを見計らって、店を閉店した。そして、様々な料理やビールを運んで来ると、
「さ、ゆっくりと食べてね。」
と、お膳の上に並べた。
「すまねえな。」
「すいません。」
ワンが二人にビールを注ぎ、ちょっとした宴席が始まった。
「で、あちらの方は、落ち着いたですか?。」
料理を取り分けながら、ワンがたずねた。
「ああ。規模が小さくなって、稼ぎ頭を失ったって感じだな。」
「じゃあ、今度はまた、アナタが盛り返す番ね!。」
勢いづけようと、ワンは男にそういった。しかし、
「ああ。」
と、男はあまり気乗りしない返事をした。その様子を、尋は食事をしながら、横目で見てた。
「ところで尋さん、アナタの方にも、彼らから連絡は来てるか?。」
話題を変えようと、ワンは尋にたずねた。
「いえ。あれ以来、何の連絡もありません。」
「そうかあ・・。いずれの組織も、立て直しには時間がかかるかあ・・。」
尋は、起きたことの重大さに、何をどうたずねていいか悩んだが、
「あの、立ち入った話になったら、すみません。一体、何がどうなっていたんですか?。」
と、余りに謎が多かったので、率直に聞いてみた。
「うん・・、これは後で分かったことなんですが、」
ワンが知り合いから得た情報について、語り始めた。
「大陸の組織は、至る所に勢力を伸ばそうとする。で、今回、掃除屋に目を付けてきたらしいです。尋さんに指示を出す、彼らね。で、手引きをチビがして、仲間を呼び込んで組織を大きくしようとした。さらに、仕事の依頼を増やそうと、話に乗ってくる連中をどんどんスカウトしたらしいです。」
「で、うちのモンに白羽の矢が立ったと。」
ワンの話に、男が割って入った。
「そのようです。手堅い組織だったのと、ノッポとアナタのクレバーさが、ヤツらにはどうしても邪魔だったようです。で、アナタの組織の連中に手を回して、アナタを排除しようとしたらしい。」
「でも、そうはならなかった。」
今度は、尋がワンの話に割って入った。
「たまたま・・だ。大抵のものは見て来た。だが、今回は流石に迂闊だった。何時寝首を掻かれてもおかしくねえ渡世と、覚悟はしてるつもりだったが、間一髪だった・・な。」
男がそういうと、
「どうやって、凌げたあるか?。」
ワンが生き残るに至った勝因をたずねた。すると、男はグラスを持ちながら、
「こいつのお陰よ。」
と、尋の方にグラスを傾けた。
「こいつが異変に気付いて、すぐに知らせてくれた。不意に段取りを変えるような、そんなヘマをやらかす連中じゃ無え。しかし、何処までが関与してるかが解らねえ以上、下手に動くと、こいつが危なかった。だから、ギリギリまで待った。まさか、ウチの若いモンまで取り込んでたとはなあ・・。」
「じゃあ、背の高い彼が白だと解って、連絡をしたんですか?。」
尋は、あの日のことを男に尋ねた。ワンも、その辺りの事情は聞かされていなかったので、聞き耳を立てた。
「いや。それは賭けだった。親爺が俺の話を聞いた時点で、あの人が白だというのは解った。だが、ノッポは謎だった。オレのいう段取り通りに動くかどうかは、次にオレが目覚めるまでは解らなかった。」
「目覚める・・って?。」
ワンは、尋にたずねた。尋は男の方を見た。そして、男が静かにコクリと頷くのを見て、尋は事のあらましをワンに話した。
「うーん、それは大それた駆けごとあるね。正に、命の賭けよ。もし、相手も腹を括った姿勢を示してたら、勝負は解らなかったね・・。」
ワンが相当に感心しながらそういうと、
「いや、勝負はすでについていた。だから、そうした。」
尋が、何か解った風なものいいをした。
「ほう。それは一体・・?。」
男は尋にたずねた。
「人を裏切って嵌めようとするようなら、腹は据わっていない。怖いから生き残ろうとした。だから、そのことがバレて追い込まれても、覚悟は出来ていない。それでボロが出る。」
ワンは口をあんぐりと開けて尋を見た。男はニヤリと微笑みながら、
「テメー、随分と成長したなあ。ははは。概ね、その通りだ。だが、現実は、ちょっと違うぜ。」
というと、グラスを仰いだ。そして、
「怖いものなんて何もねえなんて、嘘さ。あんなのに出くわしゃあ、オレだって怖えーさ。流石にちびりそうになったぜ。」
それを聞いて、ワンと尋は顔を見合わせて笑った。
「よし。何にしても、今日は勝利のお祝いね!。みんな、じゃんじゃん食べるあるよ!。」
そういうと、ワンは二人のグラスにビールを注ぎ、三人で乾杯すると、大いに盛り上がった。こんなに楽しいのは、どれぐらいぶりだろうと、尋は思い出そうとしてみたが、全く思い出せなかった。しかし、今、目の前には確かに楽しい光景がある。今を、このときを楽しもうと、尋は思った。
あまりに楽しかったからなのか、それとも、一連の緊張から解き放たれたからなのか、
「あれ?、寝てますね。」
「ええ。」
尋とワンは、男がうとうとと眠っているのに気付いた。これまで、そんな姿など微塵も見せなかったのが、今日は随分と穏やかな顔で寝入っていた。尋は出来るだけ音を立てないように、食べた器をワンに手渡した。ワンも男に気遣いながら、渡された器を一階まで運んでいった。そして、暫くすると、
「ん?。」
と、男が目を覚ました。
「寝ちまってたかな。はは。」
と、少し照れくさそうにしていたが
「ちょっと目え、覚ますかあ。」
そういうと、男は一階へ下りていった。入れ替わりにワンが上がってきて、
「あれ?。何処いったか?。」
とたずねた。
「あ。今さっき目覚めて、下りていきましたよ。」
「そうか・・。」
と、尋の言葉に、ワンは少し物憂げな表情で下りていった。尋も一階へ下りていくと、入り口から男が入ってきた。
「よし。いくか!。」
男は先ほどとは打って変わって、冴え渡った目をしていた。
「世話んなったな。」
そういうと、男はワンに代金を払おうとした。
「今日はとても嬉しい日だから、ワタシのおごりね。ね。」
ワンは男が差し出そうとした現金を、そのまま突き返した。
「そうか。すまねえな。」
「どうも、ご馳走様です。」
礼をいうと、尋と男は店を出た。
「あの、運転、代わりましょうか?。」
尋は道すがら、男に気を遣って申し出た。
「オメーだって飲んでたろ?。大丈夫だ。オレが転がす。」
そういうと、男はコインパーキングまで来ると、颯爽と運転席に乗り込んだ。そして尋が助手席に乗り込むと、いきなりカーステレオでアップテンポなジャズをかけ出した。
「あー!、こう来なくっちゃな!。」
来たときと違って、男はえらくご機嫌な様子だった。それが証拠に、珍しく鼻歌まで歌っていた。
「よう、この後、いくか?。」
そういって、男は右手の小指を立てて尋に見せた。
「いえ、今日はいいです。すみません。」
いつもなら、申し出を断ると叱責されたが、
「そうか。」
と、今日はさらりと流した。このとき、尋は少し不思議な違和感を感じた。
「ところでよ、例のお前が持って来た報酬、あれをノッポに渡しちまったろ?。」
「はい。」
「で、お前の返済分が、もう少し先延ばしにってなる所だったんだが、その辺りの経理をやってたヤツが消えちまったろ?。だから、もうチャラだ。オメーは晴れて自由の身だ。」
そういうと、男は窓を少し開けて、煙草を吸い始めた。突然のことだった。尋は思わず、呆然とした。
「あ、あの、それって・・、」
尋は聞き返そうとした。
「もう、ヤツを手伝わなくてもいいってことだ。オレからもノッポにはそう伝えてある。元はといえば、返済のための仕事だったからな。しかも、余計な危ない橋まで渡っちまって、それでも助かったんだ。好きにしていい。」
男の言葉は、尋には全然刺さらなかった。寧ろ、残酷にすら聞こえた。自身の居場所が、存在意義が、何より、生きることの動機を唯一感じられる程の刺激が、もう感じられなくなる。尋は慟哭しそうになった。
「どした?。」
異変に気付いた男がたずねた。尋は冷静を装うかのように、
「いえ、別に・・。」
とだけ、僅かに答えた。そして、随分間を置いて、
「あの、このままでは、だめなんですか?。」
尋はそう呟いた。途端に、男は尋の顔を見た。
「お前、何考えてんだ!。やっと此処まで来たんだろ!。日の当たる場所へ戻れる時が!。」
男は尋の発言を全力で否定しようとした。しかし、尋の表情に変化は無かった。寧ろ、未練に満ち溢れていた。
「お前、此処が、オレ達の居る所が、家みたいに思っちまってるようだな・・。」
急に優しい声で、男が喋った。
「・・・はい。いつも迎え入れてくれて、危ないときも、みんなで乗り切って。だから、何よりも頼れる絆みたいなものを感じて。」
それを聞いて、男は煙草をもみ消した。
「冷静に考えてみろ。オレはカタギじゃ無え。お前が手伝ってたことも、真っ当じゃ無え。ワンだって・・、」
そう男がいいかけたとき、
「ボクは、ボクがしてきたことは、真面(まとも)だとは思っていません。でも、そんな中にあって、唯一信じられるのが、アナタやワンさんでした。だから、だから・・、」
尋はそういうと、涙をにじませた。男は険しい表情で尋を見つめた。が、眉間に刻まれた皺が緩み、
「しょうが無えなあ・・。」
そういうと、尋の頭を軽くポンと叩いて、そして髪がくしゃくしゃになるぐらい撫でた。そして、
「確かに、あっちも、こっちも、急に人出がいなくなって、天手古舞いさ。現に、ノッポもオメーに作業を続けて欲しいと、オレにいってきた。オメー、それで、本当にいいのか?。」
男は尋を見つめた。尋は泣きながら、
「はい。」
といって、ニッコリと笑った。男は車の天井を仰ぐと、
「はーあ、まあ、色んなやつがいるもんだ。な。」
そういいながら、ややあきれ顔ながらも、男は幾分嬉しそうに運転を続けた。
その後、以前ほどでは無かったが、やや間を開けて背の高い男性からの連絡はあった。そして、これまで通りに、指示された病院で検体一人に麻酔を投与して倉庫まで運ぶという作業で落ち着いていた。注意を払いつつ、袋の中にイヤホンを忍ばせ、わざと浅い目の麻酔を施して、神が作業にかかる前に検体が目を覚まし、神と会話を交わすのを盗聴するという一連の行程も差し挟んではみたが、最早、以前ほどの緊張感や神が心変わりをするであろうというような期待感は抱けなかった。検体達がどんなに悲願しても、結局は神が淡々と制裁を下すという、一連の作業に一切の狂いは生じなかった。
「あれだけのことをやってのけるのなら、ま、当然か・・。」
尋は、あの夜の、神一人が数時間の間に七十人近い人間を処理する様子を見て以降、彼を止められるものは存在しないかも知れないと、そんな風に考えるようになった。しかし、
「未来永劫というものは、この世には存在しない。彼が、いや、自分も含めた我々が行っていることが悪であるならば、期せずして報いの時は必ず訪れる。」
その点に関して、尋に揺るぎは無かった。彼自身、悪行という認識は理屈の上では出来た。ただ、それを躊躇するだけの感受性が、自身の中には最早存在していないかも知れないことを、否定はしなかった。日常の、ほぼ全てにおいて、自身も神と同じく無機質でガラス玉の眼をしているであろうと思いながら。それでも、唯一、心安まる瞬間があった。
「いらっしゃい。」
「こんにちは。」
たまに通うワンの店、そして何気ない会話。いつも来る訳では無いが、例の男。彼らとの何気ない日常が、尋の息抜きになっていた。
「また、作業の連絡は来るか?。」
「はい。かなり間は空きますけど。」
尋は、いつも通り、炒飯と餃子を注文すると、ワンが手際良く調理し、直ぐさまカウンター席まで持って来た。
「うん。美味いです。」
ワンは、尋がモリモリと食べる様子を、いつもにこやかに眺めていた。
「あの、所で・・、」
と尋がいいかけたとき、
「うーん、多分、今日も来ないね。」
と、例の男のことだと察したワンが答えた。そして、その顔に、憂いが表れていた。尋はその様子を察して、
「やはり、あの日以降、何かあったんですかね?。」
と、何気にたずねた。
「うーん、ま、あの人にとっても、かなりキツかったとは思うね・・。どんなに修羅場を潜っても、心が折れる瞬間ってのは、突如として来るからね・・。あの人は気を張る商売だから、そういう姿は表には決して見せない。それだけに、ちょっと心配ね。」
ワンの言葉に、尋も概ね同じことを感じていた。虚勢を張ってこその世界。しかし、その裏側は想像以上に脆い。そういう自身の弱さと対峙し、そして、それを乗り越えることが出来た者にしか見られない、そんな景色があることを、尋は薄々気付いていた。尋以外に客が途絶えたとき、ワンはカウンターの中で洗い物をしながら、
「尋さん、アナタは強いね。本当に強い。」
と、しみじみといった。
「いえ、ボクなんか・・、」
尋がそういいかけたとき、
「いいかい?。本当の強さというものは、力の誇示じゃ無い。それは弱さの裏返しね。誰でも最初は怖い。過酷な状況になればなるほど、怖さは増すね。しかし、何人かは、その怖さと向き合いつつ、いずれ克復する。それはある意味、選ばれた者だけの特権ね。しかし、その先にあるのは・・、」
ワンはそういって、謙遜する尋にことばをかけた。しかし、今度は尋がワンの話を遮った。
「あの、ワンさんも、やはりそのような光景を?。」
ワンは洗い物の手を止め、水道の栓を閉めた。
「大陸は、露骨だったよ。荒々しくて、何より分かり易い。力こそが全て。自分達の掟を信とする者は仲間、それ以外は全て的。力負けすれば、直ぐさま排除。人は五万といる。アングラな社会で少々の人間がいなくなっても、ちっとも気付かれないね。そういうことを生業にするヤツもいたが、大抵は途中でいなくなる。ま、かくいうワタシも、其処からいなくなって、この国に流れ着いたね。今じゃ平和に、中華料理屋の主よ。」
そういうと、ワンはニコッとして、再び洗い物を続けた。すると、
「ガラガラガラ。」
ドアの開く音がした。
「いらっしゃ・・、ああ!。」
「よっ。」
白いスーツの男改め、グレーのスーツの男が現れた。
「こんばんわ。」
尋は嬉しそうに、立ち上がって挨拶をした。
「ビールくれ。」
「あいよ。」
男は尋の隣に座ると、サングラスを外した。
「はい、お待ち。」
ワンがカウンターにビールとグラスを置くと、男は自分で注いで、一気に飲み干した。
「ふーっ。美味え。」
男は一息着いた後、二人を見た。そして、明らかに窶れていた。二人はそのことに驚いていることを悟られまいと、普段の雰囲気を崩さぬように努めた。
「何か、ちょっとは食べとくかい?。」
ワンが男の体を気遣った。しかし、
「ああ、いい。ビールだって結構なカロリーだ。」
そういって、ワンの申し出を突っぱねた。
その後、三人は他愛も無い話を時折しながら、ただただその時間を寛いで過ごした。
「海、いかねえか?。」
男が突然、いい出した。
「え?、海・・ですか?。」
尋は聞き返した。
「ああ。」
「海かあ。いいねえ。よし!。今度、みんなで海いこう!。」
ワンが音頭を取って、早速海いきが決定した。尋は何故、突然男がそういいだしたのか不思議というよりは不安が過った。だからなのだろうか、ワンは敢えて何も聞かずに段取りを決めたようだった。
「じゃあ、この辺で引き上げるか。すまねえが、運転してくれねえか?。」
男は帰ろうとした際、尋にそう頼んだ。
「はい。」
尋はそういうと、ワンに挨拶をして男と店を出た。肩で風を切るように歩く様子はいつもと変わりは無かったが、やはり男の足取りには力が入ってないようだった。尋は男からキーを受け取ると、ダークブルーの外車の運転席に座った。男は助手席に座ると、気怠そうにシートにもたれた。尋は男を気遣いながら、ゆっくりと車を発進させた。カーステレオのスイッチを入れると、いつものように車内にジャズが流れた。男は窓を少し開けると、煙草を吸い始めた。
「オメー、いくつになった?。」
男が突然訪ねた。
「二十一です。」
「そうか。オレは十八でこの家業に入った。」
尋は必要最低限のこと以外は話さない間柄だと思っていたから、身の上話が飛び出すのは意外なことだった。しかし、あの日以降、状況が一変して、互いに心の隙間のようなものが出来たのは確かだった。それ故、何かそういうものを埋めたくなる気持ちが生じたとしても、それはそれで不思議は無いと、尋も思っていた。
「あの・・、やっぱり、そういうお話は、」
と尋がいいかけたとき、
「聞かねー方が、身のためだな。」
といって、男は話を遮った。しかし、すぐに男の方から話し始めた。
「きっかけなんて、様々よ。オレも家に寄りつかなくなって、気がつきゃ今の家業に片足突っ込んじまってたなあ。世の中の縁が途絶えた者ばかりが集まって、おんなじ境遇の者同士が互いを信用して生きてく。一旦、箍の外れた連中だ。怖い物なんて、何にも無しさ。オレ達のルールと結束が、オレ達を守る。我武者羅に上のいうこと聞いて、シノギを覚えて、漢を磨く。そうこうしてるうちに、若いモンが付いてきて、いっぱしの兄貴分になってく。何処でどう見捨てられたか知らなくとも、兄貴兄貴って慕ってくるヤツらを何とかしてやりてえ気持ちに変わりは無え。そうやって、一緒になって、ギリギリの所で生きてくんだ。そうやって、踏んだ場数だけ、絆も深まってく。なのによ・・、」
そういうと、男は急に突っ伏した。尋は直ぐさま異変に気付いた。
「大丈夫ですか?。」
尋が心配して声をかけたが、男は苦しそうに唸った。いや、噎び泣いていた。
「止めろ!。」
男の言葉に、尋は車を路肩に止めた。
「ちょっと待ってろ。」
そういうと、男は慌てて車から出ていって、姿が見えなくなった。尋も後を追うか迷ったが、彼の指示通り、運転席で彼か戻るのを待った。そして、五分ほどして、
「すまなかったな。」
と、先ほどの様子が嘘だったように、ケロッとした様子で男が戻ってきた。明らかに目がギラついていた。そして、ジャズのメロディーに合わせて、時折歌いさえした。
「いいか。この世界に入ったら、長寿なんて言葉はありやしねえ。パット咲いて、パッと散る。それが美学ってもんよ!。」
そういいながら、男はさらに上機嫌になっていった。このとき、尋には彼の豹変ぶりが何を物語っているのかを、自身に問い質すまでも無かった。寧ろ、この状況を、彼の生き様を、この目に焼き付けて置くべく、しっかりと見届けようという気持ちでいっぱいだった。
「よーし。このまま、お前の家までいけ。」
男のいう通りに、尋は自分の部屋の所まで車で向かった。そして、いつも彼が車を止める辺りに来ると、
「ご苦労だったな。後は自分で運転して帰るからよ。」
と、尋に席を替わるように促した。
「大丈夫ですか?。」
尋は心配してたずねたが、
「ああ、もうすっかり大丈夫だ。じゃあな。海、楽しみにしてるぜ。」
そういうと、男は車を発進させた。そして、窓を開けて、左手を振った。
「はい。必ず、海で!。」
尋は力を込めて返事をした。それは、自身の願いでもあった。これが、今日のこの瞬間が最後では無い、まだみんなと海へいくという後々の日が続くんだと、そんな風にいい聞かせていた。部屋に戻ろうとして階段を上がったとき、
「うっ、うっ。」
尋は突然泣き出した。何故か自然と涙が溢れた。今じゃ無い。泣くのは。そう遠く無い、もう少し先のとある日に、涙も涸れ果てた末の最後が訪れるであろうことは、尋にも予想は出来た。だから、そのときまで涙は取っておこうと、尋は思った。
その後数ヶ月は、嘘のように何も起こらなかった。尋は大学の学生実験と試験をこなし、退屈ながらも穏やかな日々を送っていた。かつては強烈な刺激に魅了された状況からは、もう自分は戻れないのでは無いかと覚悟さえしていたが、余りにも激しい組織内のごたごたに辟易していたのは事実だった。その頃に比べたら、今は本当に気心も知れた、深い絆で結ばれた仲間もいる。例えそれが何時まで続く間なのか分からないとしても。今の尋には、それだけで十分であった。学校が終わると、尋は時折ワンの店にいっては、食事をしながら語っていた。
「こんばんわ。」
「いらっしゃい。ああ、尋さん、どうぞ、奥へ。」
いつものように、尋はカウンターの奥に座ると、炒飯と餃子を注文した。
「今日も、来ないですかね。」
「うん。この前来たきり、来てないね。」
二人は男のことを案じてはいたが、それ以上は敢えて話さなかった。しかし、
「あ、でも、昨日連絡があって、今度の日曜辺りで、どうだって。」
「海の件ですか?。」
「その通り。」
それを聞いて、尋は喜んだ。
「はい。是非!。」
「ワタシの知り合いが、いいプライベートビーチを持ってるから、其処へいこう。食材と車はワタシが手配するから。ね。運転、頼むよ。」
「はい。」
尋はつい、浮き足立った。ワンの料理の美味しさもあったが、やはり三人が楽しく顔を合わすことが出来ると考えただけで、今はそれが最高の喜びであった。しかし、
「あの人・・。」
尋は憂いを見せて呟いた。男は明らかに健康を害しているようだった。
「ま、仕事柄、そういう物が手に入ってしまうからねえ・・。やめろといっても、無理な話あるね。それに、今度のことは、あの人にとっても大きすぎたからね・・。」
ワンも、男の状況は既に理解をしていたようだった。落ち込んでいたかと思えば、急にハイテンションになったり、食事は一切取らずに、冴え渡った目で何時までも語り続けたり。そして、会う度に痩せていく彼が、何に依存しているのかなど、全く想像に難くは無かった。
「でもね、尋さん。そういう物を断ち切って、再び元気になれた人間は、決して少なくは無いよ。ワタシ、どちらも沢山見て来た。我々側にいて、見守ってあげよう。ね。」
ワンはそういうと、力の籠もった眼差しで尋を見た。
「はい。」
尋も、力強く相づちを返した。
数日後、尋は朝からワンの店に向かった。店の前には既にバンが用意されていた。
「おはおう、尋さん。」
「おはようございます。」
二人は挨拶を交わしながら、調理器具と食材の入ったバッグを後部座席に積み込んだ。
「さ、出発ね!。」
ワンが掛け声を出して、尋が運転する車は発進した。
「暫く走ると、この辺りにバス停があるから。其処であの人をピックアップするね。」
と、カーナビの画面を見ながら、ワンが指示した。晴天の表通りを暫く走って路地に入ると、バス停のベンチに似つかわしくない白いスーツ姿の男が背もたれに持たれて煙草をくわえながら座っていた。
「おはようございます。」
「よう。」
男は以前のように、白いスーツを決め込んでいた。しかし、サングラスはしたままだった。そして、広い後部座席に乗り込むと、三人は海へ出発した。
「いい天気になったね。海日和ね。」
ワンも心なしか、楽しそうにいった。尋もにこやかに運転しながら、時折ワンと後部座席の男の様子を見た。
「ああ。だが、夜行性のオレにとっちゃあ、ちと眩し過ぎるがな。」
そういいながら、男は落ち着いた様子で車窓を眺めていた。車はそのまま南の方へひた走り、二時間もすると、目の前に一面の海が開けた。
「わー。」
尋は運転しながら、思わず声を上げた。青い海に白い砂浜は、南国さながらだった。ワンの指示通りに、そのまま海岸沿いを右に折れて走ると、如何にも高級そうな別荘が建ち並ぶ一角があった。
「ああ、その辺りで適当に止めるね。」
閑静な所に、一際大きくて白い建物があった。ワンと尋は荷物を担ぐと、その建物の横辺りを抜けて、砂浜に出た。
「うわー。誰もいませんね。」
「そりゃそうよ。此処いらのビーチは全部プライベートね。」
そういうと、ワンは少し木陰になっている所に荷物を下ろすと、三人分のパイプ椅子とテーブルを広げた。
「おお。いいじゃねーか。」
男は早速椅子に腰掛けると、海を眺めて感嘆した。
「はい。ビールね。で、尋さんはソフトドリンクね。」
ワンは二人に飲み物を渡すと、調理器具の設置にかかった。男は缶を開けると、渇きを癒やすように、一気にビールを飲み干した。
「ふーっ。美味えーなあ!。」
そういうと、男は立ちあがって、靴のまま砂浜に出ようとした。
「ああ、ちょっと待ってね。いいもの、あるから。」
そういうと、ワンはバッグからゴム草履を出して、男に手渡した。
「おう。すまねえな。やっぱ、海はこれだな!。」
男は嬉しそうに靴を脱いでゴム草履に履き替えた。
「じゃあ、ボクも。」
次いで、尋も靴からゴム草履に履き替えて、男の後を追った。二人はズボンの裾をまくし上げると、少し冷たい海にそろりそろりと入っていった。
「やっぱ、冷てーな。はは。」
男は嬉しそうに腰に手を当てながら、海越しの空を見上げた。
「懐かしいなあ・・。オレはよ、海の側にある小さな町で生まれたんだ。だからよ、潮風に当たって波を感じてると、何かこう、元に戻ったような気がしてよ。」
男は珍しく、身の上話を始めた。
「オメー、生まれは?。」
「ボクは山に囲まれた、小さな町です。だから、海は知らずに育ちました。」
「そうか。山になあ・・。オレは山は苦手だな。虫が多くていけねえ。」
二人は寄せてくる波を時折蹴散らしながら、楽しそうに話した。
「どう?。よかったら、ちょっと食材調達してね。」
そういうと、ワンが仕掛けの準備が終わった釣り竿と道具箱、そしてバケツを持ってきた。
「おう。久しぶりに、一丁やってみるか!。」
「はい。」
二人は投げ釣りを始めた。男は慣れた手つきで遠くまで仕掛けを飛ばしたが、尋はなかなか上手く投げることが出来なかった。
「どれ、貸してみな。此処をこーして、糸を指で押さえて、そのまま弧を描くように投げてみな。竿先が目標地点と重なるようなイメージでよ。」
男は丁寧に説明してくれた。その指示通りに尋が投げてみると、
「シュッ!。」
と、仕掛けは遠くまで飛んでいった。
「ホントだ。飛びますね!。」
「はは。だろ。」
そうこうしているうちに、男の竿が勢い良く撓って、ラインがどんどん出ていった。
「お!。こいつはデカいぞ!。」
男は竿を立てながら引っ張り、寝かせながらリールにラインを巻いた。如何にも手慣れた感じで、瞬く間に目の前辺りに大きな魚が引き寄せられた。
「バシャ、バシャ!。」
そして、男は竿を立てながら慎重にしゃがむと、サッと魚の尾の根元辺りを掴んで持ち上げた。
「ははは!。でっけーヒラメだ!。」
男はヒラメの口から手際良く針を外すと、
「おーい、ワン!、食材様のおなりだあ!。」
そういって、ワンを呼んだ。ワンは驚いた様子で駆け寄ってきて、
「おー!、これはデカいね!。刺身でも何でも最高ね!。」
そういいながら、二人で大喜びした。と、そのとき、
「あれ?、何か引いてる・・。」
尋の竿先が小刻みに揺れた。
「いいか。ゆっくり竿を立てて、寝かせながらリールを巻くんだ。ゆっくりだぞ。」
男の指示通り、尋は立てた竿を寝かせながら何度もリールを巻いた。すると、
「わー、魚だ。でも、何か小さいですね。」
尋は白く透き通るような魚を二匹釣り上げた。
「おお、キスじゃねーか!。こいつは美味えーんだぜ!。」
そういいながら、男はキスの口から針をサッと外し、バケツに放り込んだ。それから暫くの間、二人は釣りを続けた。一時間余りの間に、気付けばバケツがいっぱいになるほどのキスが釣れた。
「よーし。こんだけありゃ、十分だ。」
二人は釣り道具とバケツを持って、ワンの所へいくと、
「お、もう刺身の出来上がりか。」
テーブルには見事に捌かれて盛られたヒラメの造りが置かれていた。
「さて、火加減は丁度と。じゃ、キスにかかるか。」
ワンはバケツの中からキスを取り出すと、頭を落としてはらわたを丁寧に取った。そして、衣をまぶすと油の入った鍋にそれをサッと入れた。
「ジュワーっ。」
細かい衣が水玉のように周囲に散ると、僅かな時間でキスが揚がった。その脇で、用意してあった朴葉やナスに衣を付けながら、ワンは次々と揚げていった。
「さ、天ぷらの盛り合わせの完成ね!。」
テーブルには巨大なヒラメと、キスの天ぷらが堂々と鎮座した。ワンは最後に大根をさっとおろして、小さな器に盛って差し出した。
「塩でよし、天つゆでよし、新鮮だから何でもよしね!。」
ワンがそういうと、男は割り箸を割って、キスと一匹摘まむと、軽く塩をまぶして食べた。
「ほふほふ。熱ちーな、揚げたては。でも、美味えや。」
そういいながら、男はもう一匹食べた。その様子を、尋とワンは、ホットした様子で眺めていた。
「じゃ、ボクもいただきます。」
「ワタシもね。」
三人は気ままに食べ始めた。
「美味しい!。」
「うん。いけるね。」
ワンの天ぷらは秀逸だった。無駄なく薄く衣を纏ったキスは、火の通り加減が絶妙だった。噛むほどにキスの旨味が口の中に迸った。
「どれ。こいつもいってみるか。」
男はヒラメの身を一切れ取ると、少しだけ山葵を乗せて、それを身で丸めながら、僅かに醤油をつけて食べた。
「うん。美味い。」
それに釣られて、二人も造りを食べた。
「うわっ!。釣れたてだと、こんな味なんだ。」
尋は、たまに食べていた刺身とは比べものにならないことに驚いた。
「何でも新鮮な物は、甘みがあるからね。」
ワンも上機嫌で造りを食べた。すると、
「食材がいいと、食べても食べてもお腹が減るね。」
そういいながら、ワンは脇で焚いていた土鍋から米をよそうと、あっという間に塩結びを作った。男は丁寧な箸使いで天ぷらも造りも食べていたが、
「こいつは素手だな。」
そういうと、塩結びに齧り付いた。
「こりゃ、極楽だな。まるで!。」
男はあっという間に二つも食べた。尋もワンも、塩結びに齧り付いては天ぷらを交互に食べた。
「最高です。」
ワンは、何度も嬉しそうに頷いた。そして、モリモリと食べる男の様子を、目を細めて眺めていた。
食べて飲んで、それが終わると三人で昼寝をして。そんな風に気ままに過ごしながら、気付けば水平線の向こうはオレンジ色に染まり始めていた。男はサングラスをしたまま、何時までも夕闇が迫るのを眺めていた。
「この世の極楽だなあ。で、夕焼けの向こうには極楽浄土ってのがあるのかな・・。」
そういうと、煙草を吸い始めた。
「まあでも、オレたちゃ、どうやらあっちにはいけねえらしいけどよ。だからせいぜい、この世を楽しまなきゃな。」
その言葉を、尋とワンは、しみじみと聞いていた。男のいう通りである。決して人にはいえないことを、三人はやってきた。そして、そのことを抗うつもりも無く、寧ろ密かなる決意を持って受け入れている。そういう、痛みとも、諦めとも違う、互いにしか分かり合えない何かが、三人を結びつけていた。
「確か、日本の高僧だったかな。善人でも往生出来るのに、悪人はなおさら往生出来るはずだって話しがあったね。日頃から悪いことをしてるのを悔いてるからって、ね。」
ワンが博識なところ見せた。
「悔いて・・かあ。肩で風斬って街中歩いてたときは、そんなこと微塵にも思わなかったが、こうして人並みに楽しんで、お天道さん眺めてりゃ、ふとそんな気持ちが湧かなくも無えかな・・。」
男は立ちあがって、腰に手を当てて夕日と対峙していた。
「さて、ぼちぼち引き上げるか。」
男は振り返りながら、そういった。尋は、もう暫く、みんなとこうしていたい気分だったが、今のこの瞬間を、男は目に焼き付けておきたかったのだろうと思った。
「じゃ、最後に残ったので乾杯するね!。」
ワンが冷えた飲み物を持って来て、三人で乾杯した。すると、
「どした?。しけた面して?。」
と、男は尋の方に手を回しながらたずねた。
「明日は用事が無いから、出来れば夜も、もっと三人でこうしていたかったです。」
尋は正直にいった。すると、
「海はいい。本当に楽しかったぜ。だがよ、夜の海は寂しくていけねえ。海で死んだ魂が、何かこう、呼び寄せに来るような気がしてな。だから、潮時ってのがあるんだよ。」
そういいながら、男は尋の方を軽く揺すった。
「そうね。夜は死者の御霊の時間。我々は引き上げよう。そして、また来ればいいよ。ね。」
ワンの言葉に、尋はぐっときた。思わず涙をこぼしそうになるのを必死で堪えた。折角の励ましだったが、尋には解っていた。次はもう無い。男のいう潮時こそが、真実なんだと。そして、尋とワンは道具を片付けて、男は食べた後を丁寧に片付けた。そして、バンに乗り込むと、ワンが運転して海を後にした。男は窓を開けながら、潮風を何時までも楽しんでいるようだった。ワンはにこやかに運転し、尋はこの日のことを決して忘れないようにと、口を真一文字に結んで、正面を見つめていた。やがて、車はいつもの見慣れた風景の中を走っていた。
「ようし。この辺で止めてくれ。」
そういうと、男は街中で車を止めさせた。そして、下り際、
「ちょっと寄ってく所があるからよ。此処でいいや。ワン、尋、ありがとよ。楽しかったぜ。じゃあな。」
そういうと、男は右手の二本指を軽く額に当てて、別れの挨拶をした。終始、サングラスを外すことは無かった。ワンはにこやかに、そして、尋はどういう風な顔をしていいのか解らないまま、彼を見送った。
「さて、我々も戻るね。」
そういうと、ワンは再び車を発進させた。
「あの、ワンさん・・、」
「ん?。」
尋は、どう切り出していいのか解らなかった。男のことが心配でたまらなかった。しかし、何かをいって、どうなる訳でも無いことは、十分すぎるぐらい解っていた。すると、
「よく食べてたね。久しぶりの、ちゃんとした食事だったんだろうね。美味しそうに食べてくれて、よかったよ。でも、これが最後になるかも知れない。尋さん、そう思ってるね。確かにそうかも知れない。でも、誰にも終わりは必ず来る。それが何時になるかなんて、知る必要は無いよ。その時までを、我々は生きればいい。」
ワンの言葉に、我慢していたものが急に溢れ出た。尋は嗚咽した。何て奇妙で不可思議な人生を、我々は歩んでいるんだと。世間一般とは全く異なる、しかし、それでいて、やはり人間同士の繋がりを求めるんだと。例えそれが、どんなに刹那なものであったとしても。そういうものを、我々は与えられるがままに受け入れて生きるしかないのだと、尋はそう思った。
「さ、着いたよ。」
ワンは尋の部屋の近くにバンを止めた。
「すいません。どうも、有り難う御座いました。本当に楽しかったです。」
尋は泣きはらした目で、ワンにいった。
「また、何時でもおいで。待ってるよ。」
ワンは尋の方を優しくポンと叩くと、手を振って車を発進させた。
数日後、尋の元に訃報が届いた。ワンからの連絡で、男が亡くなったとのことだった。覚悟はしていた。しかし、その知らせを公園のベンチで聞いたとき、尋は数時間動くことが出来なかった。目の前では子供達が砂場で楽しそうに遊んでいた。こんな所で、大の大人が声を上げて泣くのはおかしいと、尋は思った。油断すれば堰を切ったように涙は溢れるだろう。しかし、ある種の感覚に頭のスイッチを傾けると、何の感情も湧いては来なかった。神だった。彼のことを考えると、例えどんなことが起きようとも、何とも感じない気がした。その日の夕方、尋はワンの店に向かった。店は臨時休業の札がかけられていた。
「こんばんわ。」
鍵はかかっていなかった。尋がドアを開けると、
「ああ。尋さん。どうぞ。」
尋をカウンター席へ誘うと、ワンはビールとグラスを二つ持ってきて横へ座った。そして、グラスにビールを注ぐと、
「献杯。」
そういって、二人はグラスを飲み干した。すると、
「昨日、連絡があってね。部屋で一人、ひっそりと亡くなっていたそうだよ。サングラスをかけたまま、大事そうにゴム草履を抱えてたって。随分穏やかな顔だったって・・。」
それを聞いて、尋は両手でグラスを握ったまま嗚咽した。あんなに楽しそうだったのに。もっと、何かしてあげられることが無かったか、尋は頭の中がグルグルと後悔でいっぱいだった。
「ワタシ、彼とは長い。彼がまだ駆け出しの頃、貿易の仕事で知り合った。無論、密輸のね。とっぽくて、切れ者で、見る見る頭角を現したよ。でも、決して傲らなかった。面倒見が良くって、下の者に常に目をかけてた。ワタシは彼とパートナーになって、危ない橋を幾つも渡ったが、絶対に仲間を裏切るような人じゃ無かった。あの世界じゃ、珍しいキャラだったね。」
そういうと、ワンもやり切れない表情になって、言葉が途切れた。
「一度、大陸で大きな取引があった。でも、内部の裏切りで、ワタシ、命取られそうになった。もうダメかと思ったその時、彼が盾になってワタシを助けてくれた。土手っ腹に二発食らって、でも、そのままやり返して、ワタシと彼は助かった。自分は不死身だっていってたね。それ以来、ワタシ、どんなことがあっても彼に付いていこう、彼を守ろうと決めた。なのに・・・。」
ワンの目にも涙が浮かんでいた。そして、もう一杯ビールを仰いだ。すると、
「御免。ワンさんの店は、こちらかな?。」
客が一人、訪ねて来た。
「あ、こんばんわ。」
尋はその人の顔を見るなり、一礼した。例の老人だった。男にとってはオヤジにあたる。
「ヤツが生前、大層世話になりました。葬儀は滞りなく済みましたので。」
そういうと、老人は深々と頭を下げた。尋とワンもお辞儀をした。
「すみませんが、ワタシも一杯、頂けますかな?。」
「あ、これは気がつきませんで。」
老人はワンにビールを注いでもらって、一気に飲み干した。
「ヤツは、いい子でした。昔に北の方でやんちゃしてたのを、ワタシが拾って、杯を渡しました。それ以降、ヤツは一心に組織のために尽くしてくれました。大所帯になって、シノギが上がったのも、ヤツのお陰です。」
老人は目を細めながら、彼のことを思い出しているようだった。
「しかし、ヤツのことを快く思って無かった者もおりました。ヤツは本当に出来た子でした。その分、下の者には慕われたが、上の者からは妬まれてたようです。ワシがそのことに、もう少し早く気付いてやれたら、こんなことには・・。」
そういうと、老人は肩を落として溜息を吐いた。
「ワシの不徳の致すところです。なのに、ヤツはそれさえも自分のせいだと、最後のけじめを、自分一人で引き受けた。結果、それは、かつての仲間を始末すること。それが、ヤツには耐えられなかった。ワシが負うべき責めを、子であるヤツが代わりに・・。どんなに詫びても、詫びきれるものじゃ御座いません。」
老人は目頭を押さえながら、黙り込んだ。そして、懐から何やら小さな包みを取り出した。それをカウンターの上に置くと、包みを開いた。
「ヤツの舎利です。葬儀を終えて火葬したが、骨の形はありませんでした。ま、ワシらの家業には、珍しくないことですが。墓には納めましたが、生前、世話になっていたアナタ達に、どうしても届けようと思いまして。ヤツは、終始、厳しい姿勢で臨んどりましたが、晩年は、アナタ達と過ごしてからは、何かこう、妙に穏やかに見えましてな。余程、幸せだったんだろうと思います。なので、もし宜しければ、是非・・。」
そういうと、老人は小瓶に入った舎利を差し出した。
「解りました。しかと、お受け取り致します。」
ワンはそういうと、両手で丁寧に小瓶を抱えた。
「さ、もう、しんどいのはお終いよ。ゆっくり休もうね。」
ワンは小瓶に優しく語りかけた。それを聞いて、尋は噎び泣いた。老人も、居たたまれないようだった。
「では、ワタシはこれで。」
そういうと、老人は深々と頭を下げて、店を後にした。
ドアを閉めると、ワンはビールを注いだ。
「何処から生まれて、そして、何処へいくのか。彼のような人の人生は、そのようなものよ。この世が、本の一時の仮初めの住まい。だからこそ、短く、ぱっと咲いてぱっと散る。彼らしい生き方だったね・・。」
そういうと、グラスを仰いだ。
「ボクも似たようなものです。出自の有無は関係無いです。あの人と出会えて、生きるというのはどういうことかを、強く、本当に強く感じることが出来ました。それだけで十分です。」
尋は残ったグラスを仰いだ。
「じゃあ、ボクはこれで。」
そういうと、尋は店を後にした。
「よかったら、またおいで。彼の話でもしよう。」
ワンは、優しく見送った。尋は帰りの道すがら、ワンの心遣いに感謝した。そして、
「さて、ボクもそろそろ、終わりにしようか・・。」
そう呟きながら、夜空を眺めた。星は微かに瞬いてはいたが、今にも消え入りそうだった。
数日後、尋は大学で講義に出ていた。特に気が入るでも無く、ただただボーっと板書を眺めながら、時を過ごしていた。周りには医師になるべく志を抱いた若者が真剣な表情でノートを取っていたが、尋にはそんなことは、最早どうでもよかった。ただただ、空虚感だけが彼の脳裏を支配していた。辛うじて、大学にいって、学食で命を繋ぐ程度の気力はあったが、ただそれだけだった。そして、今日も一人、学食の片隅でサンドウィッチを囓っていると、
「プルルルル。」
尋の携帯が鳴った。
「はい。尋です。」
「ワタシだ。」
背の高い男からの連絡だった。
「彼のことは、残念だった。」
珍しく、男は弔いの言葉を述べた。そういう感情すら持ち合わせていない連中だと思っていたので、尋にはその言葉が殊の外、意外に聞こえた。
「はい。ボクもです。」
「大丈夫か?。」
「はい。」
「では、今日の午後11時に、迎えにいく。」
そういうと、男は電話を切った。思えば、この作業をすることになったのは、亡くなった彼がいたからだった。彼が借金の返済に、尋を紹介したのが切っ掛けだった。そして今、彼はいない。彼の計らいで、この仕事から身を引くことも出来たが、尋は敢えて、そうはしなかった。彼との思い出とか、そういう感傷的なものでは無い、最後の最後に、自身が生きた証として、人間性を取り戻すことが出来るかどうか、それを確かめるための最後の作業。その時がいよいよ来ようとしている。彼は良心の呵責に耐えかねて、振り切っても振り切っても、振り切ることの出来ないものから逃れようと、オーバードーズで逝った。それは即ち、人間性である。そういうものが、自身の中にもあるのか。もし、そういうものがあったなら、自分は人間として死ねる。逆に、そういうものが無かったなら、そんなものを世に残してはいけない。これから尋が行おうとしていることは、自身がそのどちらの場合であったとしても、決断を下す事の出来る行為である。尋は帰宅すると、部屋の隅々を丁寧に掃除した。自身の生の証を、まるで拭い去るかのように。そして、全てが終わると、部屋の中で、ただただ静かに時間が来るのを待った。もう、目的とする行為以外、この世には何の未練も抱かなかった。いや、興味が湧かなかった。やがて、指示された時刻になると、尋は部屋を出て鍵を閉めた。そして、丁寧にドアノブを拭き取って、待ち合わせの場所に向かった。
「こんばんわ。」
尋は近くに止めてあった車に乗り込むと、挨拶をした。
「こんばんわ。大丈夫か?。」
「はい。」
「これが今日の検体だ。」
そういうと、背の高い男はいつも通り、顔写真の付いた書類を尋に手渡した。彼はもう既に、何度もその作業を行っていて、手慣れたものだった。着替えの医療着と作業着、そしてシリンジと麻酔薬、それに検体を入れる袋と台車をサッと確認すると、再び座り直して、助手席で揺られながら目的地に向かった。二人は押し黙ったまま、車に揺られていた。すると、
「亡くなった彼は生前、キミが抜けることを提案してきた。彼の遺言は今も有効ではあるが、どうする?。」
珍しく、男は作業以外のことを口にした。しかし、車は目的とする作業に向けて、ひた走っている。尋の心も、同様であった。
「いえ。このままお願いします。」
「解った。」
そういうと、二人は再び会話を交わさなくなった。やがて車は、とある病院の裏口辺りで止まった。尋は既に車内で医療着に着替えていて、後部座席から台車と袋を下ろすと、ポケットにシリンジを入れて、書類の図にあった通り、真っ直ぐに検体のいる部屋に向かった。そして、静かにドアを開けると、台車を室内に入れて、ドアを閉めた。部屋は個室だった。そして、ベッドで寝ている人物が写真と同一人物なのを確認すると、尋はシリンジに麻酔薬を注入して、検体の腕に注射した。
そして、いつも通り、尋は麻酔が効いているのを確認すると、検体を袋に詰めて、それを台車に載せると裏口まで運んだ。背の高い男の姿は既に無かった。尋は袋と台車を後部座席に積み込むと、いつも通りに埠頭の倉庫街まで車を走らせた。やがて、プラントのライトが煌々と辺りを照らす中、尋はいつも通りに倉庫の横に来ると車を止めた。そして、鍵のかかってない南京錠を開けて、袋を台車に乗せて倉庫内の机の上まで運んだ。いつも通りの段取りだった。ただし、今日はマイクは忍ばせていなかった。麻酔も、規定量十分に注射した。そのまま倉庫を出てしまえば、何事も無い、普段の指示通りの行動だった。しかし、尋は倉庫からは出ずに、パレットの裏の隠れて神が来るのを待った。右手に小さな紙袋を持って。そして、眠った検体以外まだ誰もいない倉庫の中で、尋は携帯を取り出して、とある録音を流した。
「オレだ。海、良かったな。オメーと知り合えて、楽しかったぜ。こっち側の人間でも無えのに、何か気心知れた舎弟みてーでよ。だが、ずっとこのままって訳にはいかねえからよ。」
生前、男が最後に尋に残したメッセージだった。
「オレも大概のことはやって来た。報いがいつ来ても不思議じゃ無え。ゴホッ。だがよ、覚悟は出来てるつもりだったが、あんなの見ちまったらよ・・。あれが、オレへの報いだったんだな。生き残ったとしても、生き地獄だ。オレたちゃ、自分の流儀で生きてるつもりだったが、所詮は人間よ。良心の呵責ってもんが、どうしても湧いちまう。そんなもの吹っ切ってと思ったが、どんなに逃げても、逃げ場は無え。だから、オレは逝く。もしオメーが、アイツみたいな化け物よろしく強えーんなら、何処までもアイツと作業を続けたらいい。だが、もし、オメーにも人間として、違和感を覚えるようなことがあるなら、こいつを残しておく。そいつを使った方がいいのか、そうで無い方がいいのか、もはやオレには解らん・・。ゴホッ。人を裁くのは、人じゃ無え。オレは最後のケジメを自分でつける。じゃあな。あの世があるなら、あっちで待ってるぜ。一緒に地獄でランデブーだ。あばよ。」
それを聞きながら、尋は紙袋の上に声を殺して涙を落とした。男は、最後の最後まで、尋のことを思っていた。例えそれが、自らの命を自らで決することになっても。と、その時、
「ギーッ。」
倉庫のドアが開いた。プラントの光りを背中に浴びながら、大柄の丸顔の男が右手の工具箱を携えて入ってきた。神だった。いつものように、神は机の上に工具箱を置くと、中から手術道具を取りだして、布の上に並べ始めた。そして、袋の紐を解いて、中から検体を取り出そうとしたとき、
「やあ。」
と、声をかける者があった。
「だ、誰?。」
「ボクだよ。尋だよ。」
神は目を見開いて、仰天した。
「な、何?。何で此処に人がいるの?。」
神は小刻みに震えだした。そして、机の上に並べられた道具の中から、飛びきり大きな刃物を手に取ると、尋に襲いかかろうとした。その時、
「パンッ!。」
衝撃音と共に、神の手首から血飛沫が上がった。尋は紙袋から小銃を取り出すと、神の手首を撃ち抜いたのだった。
「ギャーッ!。」
神は刃物を落としながら、打たれた手首を押さえて蹲った。尋は銃口を彼に向けたまま、
「キミ、傍君だよね?。ボクのこと、覚えてる?。尋だよ。昔一緒によく遊んだ。」
神に、そう語った。
「ひ・ろ・し?。」
神は手首を押さえて震えながら、名前を聞き返した。
「そう。尋。キミの額にある歯形の傷。キミが記者に頭突きをした時に出来た傷。あの時、ボクも一緒にいたよ。覚えてる?。」
「き・ず?。」
神はそういうと、指で額の傷を触った。すると、
「ボクは、神。あの人の指示通りにするんだ・・。」
と、気力を振り絞って、姿勢を立て直そうとした。
「違うよ。キミの名は傍。キミの家族が事件を起こして、ボクとキミは離ればなれになったんだ!。その時、キミはボクを守るために、記者をやっつけてくれたんだ。思い出して!。」
尋は必至に叫んだ。明らかに神は動揺していた。ガラス玉では無い、挙動不審な人間の目つきだった。黒目を左右に動かしながら、何かと抗っているのか、それとも、必至で思い出そうとしているのか。すると、神は両手で頭を抱えながら、
「アーッ!。解らない。アーッ、アーッ!。」
と、まるで発狂したかのように、大声で叫びながら頭を上下に振った。そして、検体の置いてある机に何度も頭を打ち付けた。
「ドカッ!。ドカッ!。ドカッ!。」
夥しい流血が、神の古傷辺りから流れ出した。すると突然、神の動きが止まった。そして、ゆっくりと顔を上げながら、
「尋・・・くん?。」
確かに神は、そう呼んだ。
「そうだよ!。尋だよ!。」
尋は頬に何かが伝わるのを感じた。そして、
「あの後、一体・・・、」
幼少の頃に別れたから以降のことを、尋はたずねてみた。
「ボク、ずっと一人だった。あの後、お母さんがいなくなって、ボク、ずっと一人だった。」
神は俯きながら、訥々と話し始めた。
「何が、あったの?。あの日。」
尋は傍に優しくたずねた。
「父さん、いけないことしたの。だから、捕まって帰って来れなくなった。母さんは毎日ボクを抱きしめて泣いてた。大丈夫だよ、大丈夫だよって。でも、母さんは、何もいわなくなって、ぼーっとするだけになっちゃった。外に出たら、記者がワーって来るから、ボク、母さんを守った。でも、母さんは何もしないで、ぼーっと上の方だけ見てた。それからしばらくして、母さんが出かけて、帰って来なくなった。ボク、お家に一人ぼっちになっちゃった。」
そういうと、傍は目に涙を浮かべて頭を抱えた。
「ヒクッ、ヒクッ。そしたら、誰かが入ってきて、ボクは記者が来たと思って、側にある鉛筆で、そいつの足を思いっきり突き刺したんだ。でも、その人、記者じゃ無かった。にっこり笑いながら刺さった鉛筆を抜いて、キミ、大変だったねって。おじさんと一緒に来るかいっていわれて、ボク、もう誰もいなかったから、そのおじさんに付いていったの。」
「そのおじさんって、誰?。」
「背の高いおじさん。今もキャンディーくれるの。」
尋の質問に少しずつ答えることで、傍は徐々に落ち着きを取り戻していった。
「おじさんに怪我させたのに、ボク。でも、おじさん、優しかった。食べる物も、寝るところも、全部用意してくれたの。学校にもいかせてくれたけど、みんなと上手くいかなかったから、すぐに辞めちゃった。で、代わりに、おじさんが色んな事を教えてくれたんだ。」
「色んな事って?。」
「道具の使い方。肉は、こうすれば上手く捌けるんだよとか、骨はこうすれば上手く砕けるんだよとか。内臓は、神経は・・・。」
傍は、人体解剖の手ほどきを徹底的に受けていた。いわば、英才教育の様相だった。
「何で人にこんなことするのって聞いたんだ。そしたら、おじさんは、この世には良くない人間が沢山いるから、そういうのをどんどん減らして、いい世の中にしていこうねって。だからボク、おじさんに褒められたくて、一生懸命覚えたんだ。」
尋は、傍の眼が恍惚の光りを微かに放っているのに気付いた。
「あ、そうだ。尋君にも、ボクの作業を見せてあげるね。」
そういうと、傍は検体の入った袋から眠っている検体を取り出そうとした。
「待って。今から何をするの?。」
「解体だよ。悪い人間の。」
「この人が悪い人だって、何で解るの?。」
尋の質問に、傍の眼が一気にガラス玉に変わった。
「だって、おじさんがいってたもん。此処に来るのは、みんな悪い人だって。」
何て罪な人間を作りだしてしまったんだと、尋は驚愕した。
「一つ聞いていい?。何でおじさんは、正しいの?。」
尋の言葉に、傍は言葉を詰まらせた。
「だって、おじさんはおじさんだから・・。」
「ねえ、傍君。此処に送られて来た人は、みんな眠ってた?。」
「・・・ううん。最初はみんな眠ってたけど、最近は目が覚める人ばかり。」
「じゃあ、おじさんに間違いが無いのなら、誰も起きたりなんかしないはずだよね?。おじさんは完璧だから。なのに、何故、起きる人が出て来だしたの?。」
尋はたたみかけた。
「それは・・・、それは・・・。」
傍は明らかに動揺していた。
「もう一つ聞くね。起きてキミに話をした人達は、人を殺めてたかい?。」
「・・・ううん。誰も。」
「じゃあ、その人達は、人は殺めて無いんだ。でもキミは、一体何人殺めたの?。誰も殺めないで恨みだけ買って此処に送られて来た人間と、数え切れない程の人を殺めた人間と、果たしてどっちの方が悪いのかな?。」
傍は震えて汗をかき出した。
「傍君。キミが裁きを下した人間は、確かに罪人だったかも知れないけど、その裁きを行ったキミは、罪人では無かったかい?。それとも、訳も分からずに、おじさんが正しくて、おじさんのいう通りに、キミも正しいって、本当にいえるかい?。」
尋の言葉を聞いて、傍の震えが止まった。
「ボクは・・・、正しくない。」
尋が行ったのは、明らかに説得ではあった。しかし、彼には何の確証も無かった。傍が、ほんの僅かでも正気を取り戻し、自身の良心と自身の行いとのギャップに震えることを。しかし、彼は微かではあっても、正気を取り戻した。稚拙な正義というものは、斯くも脆く、斯くも人を狂人たらしめんものなのかと。
「ねえ、尋くん。ボクはどうすればいいの・・・・?。」
傍は逆に尋にたずねた。
「間違ったことをすれば、正すんだよ。普通は。でも、ボクたちのしたことは、もう正すことは出来ないんだ。失われた命は、二度と元通りにはならない。そんな罪を、ボクたちは随分と重ねてきたんだよ。」
「ボクたち?。」
傍は疑問に思った。
「ボクたちって、どういう意味?。」
「此処に送られてくる検体を注射で眠らせて運んだのは、ボクなんだ。」
それを聞いて、傍は目を見開いた。
「キミが・・、やったの?。」
「全部じゃ無いけど、最近のは全てそうさ。」
尋は白状した。
「何でそんなことしたの?。」
傍は真っ直ぐに尋を見つめてたずねた。
「それはね、キミが、キミが行っていることがどういうことかを、キミに解らせるためだよ。死にゆく者達は、泣いて縋って、キミに懇願しただろ?。そのとき、キミはどうした?。」
尋はパレットの陰で見ていたことを、彼に思い出させようとした。
「みんな、殺った。」
「そう。キミは例外なく、全て殺った。誰一人救うこと無く。で、その時は、どんな気分だった?。」
尋は一番聞きたかった、核心部分をたずねた。傍は少し考えて、
「指示通り、作業した。ただそれだけ。」
「そこに何の躊躇も無かったんだね?。」
「・・・うん。多分。」
「じゃあ、キミには善悪を判断する能力は、完全に機能停止していた訳だ。そして、何も考える事無く、罪だけが行われた。」
「じゃあ、あのとき、悪いことをしたって思えばよかったの?。」
尋の言葉に、傍は自身が喪失状態にあることを次第に理解し出した。
「いや、もうそれは出来ない。あの時も、出来なかったからね。そういうことを判断出来る、心で感じる、それが人間性ってもんだよ。」
「人間性・・・。」
「そう。人間性。でも、キミは何て呼ばれている?。」
尋は、傍のアイデンティティーが何処にあるのかを探った。
「・・・神。そう呼ばれてる。」
「そう。神。それは、人間かい?。」
「ううん、違う。人間じゃ無い。だから神。」
「神とは、人間の運命を決定する存在。キミは本当に、そうかい?。死ぬか生きるかを采配して、生かすべき人間を助けたかい?。」
「・・・ううん。」
傍は首を横に振った。
「じゃあ、キミが行ったのは、采配でも裁きでも無く、ただただ人を死に追いやるという行為のみ。だね?。」
「・・・そうだ。」
「それは、死神というんだよ。そうでなければ、この世では狂気というんだ。」
「死神・・・。狂気・・・。ボクは頭がおかしい、疎まれるだけの存在ってこと?。」
傍は次第に、自身のあり方を朧気ながらも、客観的に認識し出した。
「振る舞いは、そして、もしその行為を他人に知られたら、評価はそうだったろうね。でも、キミにはあの背の高い男がいた。彼だけが、キミの心の拠り所だった。彼の指示なら、キミは何だってした。そして、彼は残念ながら、正しいとはどういうことかを、ついぞ、キミには教えなかった。だから、キミは淡々と人を殺め続けた。それが今のキミだよ。傍。」
尋の言葉を聞いて、傍は再び小刻みに震えだした。全ての倫理も人間性も、押し殺されていたからこそ行えた、神としての自身と、尋によって心の領域が開放された自身とが、確実に今、傍の中で葛藤し合っていた。そして、
「尋・・君。ボク、何だか苦しいよ・・・。」
傍は喉に手を当てて、息苦しそうにした。パニックを起こしていた。いよいよ、自責の念が発露しだしたのを見て、尋はさらに言葉を続けた。
「そうだよ。苦しいよ。ボクもさ。でも、それが報いってヤツだよ。ボクたちはかつて、偶然知り合った。そして、何の因果か、ボクたちは再びこんな形で出会った。でも、その時には、もうボクたちは決して後戻りの出来ない、罪深い領域まで来てしまってた。だから、ボクたちが最後に出来るのは、この醜悪な行為を自らの手で止めることだけさ。」
尋は、いよいよ時が来たことを、傍に伝えた。
「・・・時?。なんの時?。」
「ボクたちの全てを終わらせる。その時が。」
傍は、尋の言葉を聞いて、再び尋を凝視した。
「それって、ボクたちが死ぬってこと?。」
「そうさ。その時が来たんだよ。」
尋は傍に、互いの覚悟を確かめるべく、そう伝えた。しかし、
「い、い、嫌だーっ!。死にたくなんかなーい!。」
傍は倉庫中に響く声で叫んだ。しかし、尋は冷徹に、
「みんな、きっとそうだったろうね。キミが、いや、ボクたちが殺めた人達は。でも、キミは迷わずそうした。それって、許されることかな?。」
と、まるで精神の逃げ場が無いほどに、彼を問い詰めた。
「う、う、うおーっ!。」
傍は錯乱した。両手で耳を塞ぐと、雄叫びを上げて机にガンガンと頭を打ち付けた。尋は見てられなかったが、これも自身への報いと自分にいい聞かせて、血走る目で傍の行為を凝視した。と、傍の行為は突然止んだ。そして、静かに頭を持ち上げて、尋を見た。
「あれ?、人が二人いる。袋の中と、袋の外に。」
彼の目は、ガラス細工のようだった。彼は神に戻っていた。
「さあ、作業を続けなきゃ・・。」
そういうと、神は何事も無かったかのように、道具を手に取って袋から検体を取り出そうとした。尋に撃ち抜かれて怪我をしたことも、全く気にしていない様子だった。彼は、神は、覚醒状態に入ると、痛みすら感じないようだった。だからこそ、あんな所業を続けられたのだろう。痛みを感じるほどの僅かな隙でも心にあれば、彼の作り上げられたアイデンティティーは、脆くも崩れ去っただろう。でも、この期に及んでも、結局はそうはならなかった。
「もう、目の前にいるのは、人間じゃ無い。」
尋は黙々と作業を続けようとする神に向かって、銃口を向けた。それでも神は作業を止めようとしなかった。すると、
「無駄だよ。」
と、作業をしながら神は尋にいった。尋は一瞬躊躇したが、男の最後の言葉を思い出した。
「やるしかない。」
そして、引き金を引こうと、右手に力を込めたその時、
「ガッ。」
さっきまであちら側にいたはずの神が、怪我をしていない方の手で尋の銃を掴んでいた。そして、もの凄い握力で銃口を握りつぶした。
「無駄だといったろ?。」
神はガラス玉の眼で尋を見下ろすと、微かに微笑んだ。しかし、尋はそのまま引き金を引いた。
「バンっ!。」
もの凄い音と共に、銃弾は飛び出すことが出来ずに銃が暴発した。尋は衝撃と共に、後ろに吹き飛ばされた。そして、神は銃口を握ったまま、立ち尽くしていた。手から血を滴らせながら。
「邪魔をしてはいけないよ。」
神はそういうと、暴発した銃を放して、倒れ込んでいる尋に近づいて来た。
「ジャリッ、ジャリッ。」
重そうに床を歩く足音に尋は目を覚ましたが、その瞬間、
「うっ。」
神は傷ついた両手で尋の首を掴んで持ち上げた。神はもの凄い力で尋の首を絞めると、そのまま床に叩き付けた。
「グシャッ!。」
あまりの衝撃に、尋は身動きが出来なかった。
「ゲホッ、ゲホッ。」
咳き込んだ後、呼吸を整えて神の方を見ると、彼は工具を手に取って、再び尋に近づいて来た。その眼は尋を見据え、確実に工具で尋を仕留めようとする様がありありと窺えた。
「これが、ボクの見る、この世の最後の光景なのか。」
尋は覚悟をしていた。此処に来るのは、全てを終わらせるため。しかし、今、神のに思うがままにさせては、本懐は遂げられない。強力な部気はもう無い。神は手負いとはいえ、力で敵うはずが無い。最早これまでか。そう思いながら、尋は全身の力を抜いて、両手をだらりと体の横に垂らした。
「ん?。」
尋は上着のポケットに微かな膨らみを感じた。神は自分の眼前にまで近づいて来て、工具を振り下ろそうとした。と、その時、
「ダッ。」
尋は神の懐に飛び込むと、腰辺りに抱きついた。そして、一秒ほどで、神からサッと離れた。
「な、何?。」
神は、何が起こったのかと、一瞬呆気に取られていたが、次の瞬間、
「ドサッ!。」
と、膝から床に崩れ落ちた。彼の腰椎辺りに、シリンジが刺さっていた。
「あれ?。どうしたんだろう?。」
神は、全くいうことが効かなくなった自身の下半身をえらく不思議がった。尋はいつもの癖で、シリンジに麻酔を残して置いたのだった。そしてそれが、神の脊髄辺りに放たれたのだった。神は、辛うじて動く上半身を可能な限り動かしながら、何とか体制を立て直そうとした。が、全くの無駄だった。そして、腕の動きも次第に緩慢になり、やがては眼と口元だけが僅かに動くだけになった。
「な、何をしたの?。」
神の眼に弱々しい生気が戻って、再び傍の表情に戻った。尋は優しく、
「ボクは、ボクの作業をしたまでさ。こうやって、ボクは沢山の人間を眠らせて、キミの元に運んできた。そして、キミが作業をして、多くの人間を殺めた。そうした者は、今度は自分がそうされる。それが報いってもんだよ。」
そういいながら、身動きが全く取れなくなった傍の額を優しく撫でた。
「ボク、どうなるの?。・・・でも、何だか眠い。もう、ボク・・、」
傍はそういうと、そっと瞼を閉じた。尋は傍の傷ついた両手から工具を取り上げると、テーブルの上にそれを戻そうとした。と、そのとき、
「うっ・・。」
袋の中から呻き声が聞こえてきた。尋は袋の口を開けて、中にいる人を見つめた。
「やあ。」
「・・・あ、アナタは?。」
「ボクは・・、尋という者です。でも、名乗っても意味は無い。もう、逝くところですから。アナタも今日、ボクと同じ所に逝くはずだった。」
そういいながら、尋は袋の中の人を出してあげようとした。すると、
「あれ、何?。」
袋の中の人は、両手に怪我を負ってうつ伏せに倒れている傍の姿を見た。
「あの人、死んでるの?。」
「いいえ。まだ死んでません。これからです。」
すると、袋の中の人は、
「いやっ!。殺さないでっ!。」
と、自身が尋に殺されてしまうと思い込んだ。向こうで倒れている傍と同じように。すると、
「アナタは理由も無く、此処へ連れてこられた訳では無い。誰かの依頼が、アナタをこのようにさせた。さて、ボクは、ボクの冥土の土産に、その理由を聞こうと思います。アナタは何故、此処へ連れてこられたんですか?。」
尋は袋の中の人を助け出すのを中断して、近くにあった小さな椅子を持って来て、それを袋の前に置くと、袋と中の人をじっと見つめた。
「そ、そんなの知らないよ!。気がつけば此処にいたんだ!。」
「此処にいるのは、ボクが運んできたからです。そして、その後の作業は、アソコで眠っている、ボクの友人がするはずでした。もう眠ってますがね。」
傍の方を向いてそういうと、尋は再び袋の中の人を見つめた。
尋は床に落ちている工具を拾うと、それを顔の前に近付けてしげしげと眺めた。
「これは彼の道具です。幾百、幾千もの検体を処理した。今日もこのまま何事もなかったら、彼はもう処理を終えているはずでした。そして、ボクより先にアナタが逝っていた。しかし、そうはならなかった。彼が眠ってしまったからです。ボクは彼の作業の邪魔をした。そして、アナタは今、生きている。」
尋はゆっくりと分かり易く、袋の中の人に語りかけた。その人は神妙に話を聞いていた。
「今彼は眠っている。このままボクが立ち去れば、彼は目を覚まして必ず作業を続ける。そう仕込まれている。そして、その眼を覚ますまでの僅かな間にのみ、アナタが此処を逃げ出すチャンスはある。上手く其処から抜け出して、助けを呼べればの話ですが。因みに、この周りに人は居ません。ボクとアナタ、そして、彼処で眠っている彼だけです。彼が再び目を覚ませば、ボクはもう彼を止めるコトは出来ない。アナタは処理され、ボクも殺される。それだけです。」
袋の中の人の額から、汗が一筋、伝わって落ちた。尋は全く事を急ぐ様子は無かった。寧ろ、このまま自分以外の何かが、誰かが次の行動を起こすのを待っているだけのようにも見えた。それはまるで、自分が裁定者では無いことを確認するかのような、不気味な静けさだった。
「アナタはワタシを助けてはくれないのですか?。」
袋の中の人は一縷の望みを託して、尋にたずねた。
「これから逝くボクには、アナタの生死は関係無い。しかし、仮に一人でも殺らずに助けたなら、ひと一人分の罪は犯さなかったことにはなります。今さら、どうでもいい話かも知れませんが。しかし、アナタにとっては、そうでは無い。ですね?。」
尋の問いに、袋の中の人は黙って何度も頷いた。
「じゃあ、ボクが心変わりをして、アナタを助けたくなるように、話をしてくれませんか?。何故アナタが此処に連れてこられたのかを。」
そういうと、尋は工具を床に置いて両の手を組みながら、袋の中の人が話し出すのを静かに待った。
「解りました。」
そういうと、その人は自身の生い立ちを語り始めた。
「ワタシは、何時、何処で生まれたのか、全く解りません。気がつけば施設に預けられていたそうです。なので、表向きは普通の保育園や幼稚園のように思われていたのでしょうが、実情は違います。生きようとしなければ、ただの物扱いでした。でも、物心着く前に、それが異常なことだとは全く気付きませんでした。ワタシはされるがままに、物として振る舞っていたんだろうと思います。」
捨て鉢でもなく、刹那と呼ぶには湧き立つものも無かった尋だったが、目の前の人の話は、これまでに聞いたどの検体のものよりも、尋の心を捉えて止まなかった。尋はじっと彼を見つめて、次の言葉を待った。
「施設の中には絵本がありました。ワタシはそれを手に取ると、少しずつ言葉を教えてもらいながら、内容が読めるようになっていきました。学校に上がるよりは、随分前だったように思います。そして、何冊も読み進める内に、人間は物では無い、心がある、物とは別の存在なんだということを、その時初めて知りました。しかし、そのことを悟られては、此処では生きていけない。物として振る舞い続けることが、此処で生きる唯一の方法だということも、同時に解っていました。なので、ワタシはそのように努めました。成されるがままに、物として扱われても何の異存も無いかのように。」
尋は既に前のめりの姿勢になっていた。
「しかし、人間の心というのは、体と共に成長するもの。物として扱われるだけに終始するのは、自身の心を殺し続けるのに等しい。そのままでは、成長を終える前に死が来る。そしてある日、ワタシは施設を出ようと決意しました。まだ法的には保護下に置かれるべき年齢でしたが、ワタシは自らを救いたい一心で施設を抜け出しました。人間一人がいなくなれば、普通は騒ぎになるでしょう。しかし、人一人居なくなったところで、何の声も上がらない場所がこの世には幾つもある。それはアナタもお解りでしょう。」
そういうと、袋の中の人は尋の瞳を直視した。しかし、尋は全く動ぜず、逆にその人を真っ直ぐに見つめていた。尋に必要なのは彼の存在では無く、話だった。
「そしてワタシは、子供でも使ってくれそうなあらゆる所に潜り込みました。ワタシには戸籍が無かった。いわば法的にはこの世に存在しない人間です。そのメリットを生かして、ワタシは色んな人達と関わりました。そして、そんな彼らは、ワタシに人間として生きること、そして、喜び、悲しみ、そういう血の通ったものをワタシに教えてくれました。」
その人は少し楽しげに、思い出を語っているようだった。
しかし、暫くすると、急にその人は無表情になった。そして、
「でも、みんなには生い立ちがあって、自身の由来を確認することが出来るのに、ワタシにはそれが無かった。どう探しても無かった。人間は決して降って湧いたりはしないのに、ワタシは気がついた時には、突然存在していた。それがどういうことか、アナタには解りますか?。解らないでしょう。この世の殆どの人間が基板とするアイデンティティーを、ワタシは持っていない。別にそれでも構わないと、ワタシは気にしないよう努めました。しかし、社会で多くの人間と触れるにつれ、ワタシは彼らとの隔たりを感じずにはいられなかった。」
その人の表情は、次第に険しく、苦悩に満ちていった。
「恐らくそれは、嫉妬の念と呼ぶものだったのでしょう。普通は相手に打ち勝とうと藻掻くものでしょうが、ワタシは少し違っていた。人はワタシと触れ合うと、何故かワタシに興味を抱き、深入りしようとしてくる。それが何故かは、最初はわかりませんでしたが、どうやらワタシの特殊な出自に起因しているらしいということが徐々に解って来ました。ふと人生に疲れた者、何かに絶望して生きる動機が希薄になった者、敢えて死を望む者。そういう人間達が、まるで嗅覚でも働くかのように、ワタシの周りに次々と集まってきました。そんな彼らは、何をするという訳でも無い、ただ、ワタシからの何か言葉のようなものを待っている、ただそれだけのようでした。しかし、それは違った。彼らは、切っ掛けが欲しかったんです。自身の生を終わりにする。だが、それを自分では出来ない。そういうものを、ワタシに求めていたんです。ワタシは直接手を下すようなことは無い。そんな嗜好もさらさら無い。そう思っていました。しかし、自分では意識しない、心の奥底に潜む、もう一人の自分が、衝動の口を開けて待っていました。」
その人は、苦悶と悦楽の狭間にいるような、奇っ怪な表情を見せ始めた。尋は思わずたずねた。
「で、何をしたの?。」
その人は、恐らく笑いたかったのか、それとも、それを止めたかったのか。いずれにしても、複雑な表情で話を続けた。
「何もしない・・ということだけをしたんです。それが、彼らの背中を押すことになると気付いたから。人間は、繋がりを立たれることが何よりも辛い。不仲や故意にといった人間関係の不和なんて、たかが知れてる。そんなのは行為に過ぎない。そうでは無い、虚無の状態に晒されると、人は魂を失います。生を渇望する者には生還はあり得る。しかし、最後を待つのみの者達には、その可能性も必然性もありません。死にのみ帰結する。ワタシにはそれが解るんです。」
微かに微笑んでいた。確かに。その人は。
「アナタは、ボクなんかよりずっと死神の恩恵を受けているようですね。では、ボクのことも何となく解っていたんでは?。」
尋はたずねた。
「ええ。最初、アナタを見た時、普段ならワタシの周りに集まってくる人間と同種に見えました。アナタも生が希薄なんだと。だが、何かが違う。最後を望んだ他の誰とも違う。それは一体、何なんだろう・・。」
尋はその人を真っ直ぐに見つめて、
「それはきっと、ボクに使命があるからだろうね。」
「最後を望んでいるのに?。」
「そう。最後にやるべき事がある。」
尋は真っ直ぐにその人を見つめたままだった。キラッと光る眼で。
「キミは、多くの人間から希望を奪った。それはボクも同じだ。生きようと望む者を、日々この場所に送り込んで処理を行う手伝いをした。そういう意味では全くの同罪だ。だから、ボクは自身への報いを受け入れることにした。だが、キミはどうかな?。もし、今日みたいな出来事がキミに訪れなかったなら、キミはそんな日が来ることを想像したかい?。」
尋は鋭く、その人を見据えた。
「・・・いや。しなかった。ボクは決して自分が手を下すことは無かったし、みんなが勝手に最後を選んだだけだと思ったはず。そして、今もそう思っている。だから今、自身がこんな風にされているのは、理不尽とさえ思っているよ。」
それを聞いて、尋はこの場所に来て、始めて微笑んだ。
「だから、殺り甲斐があるんだよ。キミのことを。」
そういうと、尋は椅子から立ち上がって、
「二人で逝こうと思ったけど、どうやら三人になりそうだよ。」
と、眠っている傍に声をかけた。そして、
「ボクは、最後にも罪を犯すことになる。その報いは、自分で着ける。キミは先にいって、待っていてくれ。」
そういうと、尋は傍の所まで歩んでいき、背中に刺さっているシリンジを抜き取ると、中に僅かに麻酔が入っているのを確認して、袋の人のところまでゆっくり歩んできた。
「な、何をする気だ?。」
「静かに、逝かせてあげる。」
そういうと、尋はその人の首の真後ろに針を突き立てて、麻酔を打った。そして、急に力が抜けて、首がガクンと項垂れたその人の頭を抱えると、
「苦しかったね。もう、いいよ。」
と、優しく囁いた。
次第に呼吸が浅くなって、その人はピタリと動かなくなった。尋はその亡骸をそっと寝かせると、まだ眠っている傍に近付いていった。
「ボクも直接、手を下したよ。さあ、二人で逝こうか。」
そういいながら、尋が少し屈んで傍に顔を近付けたとき、机の裏側に何かキラッと光るものがあるのを見つけた。尋は気になって、机に近付くと、それを指で摘まんで剥がした。
「盗聴マイク・・。」
間違い無かった。尋がかつて使っていたマイクだった。すると、
「ギイイイっ。」
倉庫のドアが開くと、プラントの逆光を浴びながら、長い影が尋の所まで伸びてきた。
「やはり、キミだったか。」
そういうと、陰の主は静かに尋の方まで近付いてきた。尋は、臆するでも無く、ただただ、その主が近付いてくるのを待った。背の高い男だった。尋は自身の最後を自らに下すよりも、この男に一思いにやってもらった方がいいと、静かに目を閉じて最期の瞬間を待った。すると、
「嗚呼、ワタシの芸術品が・・・。」
背の高い男は、無惨に横たわっていた傍を見つけると、震えた声でそういった。
「彼は、まだ生きてます。」
尋はゆっくりと目を開けながら、男にいった。
「何?。こんな姿にさせておいて、まだ生かしているだと?。」
そういうと、男は尋に近づいて来て、
「ドカッ。」
と、思いっきり尋をぶん殴った。いつもの、冷静沈着な男の姿とはほど遠い、それはまるで阿修羅の如くの形相だった。
「ズザーッ。」
あまりの勢いに、尋は壁際まで吹っ飛ばされた。男はまた近づいて来て、尋の胸ぐらを掴むと、
「ドカッ。」
と、再び尋をぶん殴った。
「美は、その美を失ったとき、天寿を真っ当する。何故、無惨なまま、それを放置するか?。」
男は怒り狂って、尋を殴り続けた。尋は呻き声を上げながら、成されるがままになっていた。しかし、尋は頭を庇っていた腕の隙間から、眼を見開いて男を見た。すると、
「嗚呼、何ということだ!。」
男は振り上げた拳を下ろして、尋の両肩を優しく持った。
「キミのその眼にも、ついに神が宿ったか!。」
そういうと、男は尋をゆっくりと立たせて、そっと椅子に座らせた。そして、男は尋の目線と同じ高さに屈むと、
「我々に必要なのは、担い手だ。キミにはその資格たるものが備わった。憎しみとも、絶望とも違う、全てを見据える、その眼が備わった。彼処に横たわる者は、用済みだ。」
そういうと、男は懐から小銃を取り出して、尋に手渡した。
「始末したまえ。これがキミへの、神としての最初の任務だ。」
尋は右手で小銃を受け取ると、ゆっくりと立ち上がって傍の所まで歩んでいった。そして、銃口を眠っている傍のこめかみ辺りに近付けると、指に力を入れ始めた。と、その時、
「・・・ひ、尋君。」
傍が微かに意識を取り戻した。尋は引き金から指を離すと、
「そうだよ。此処にいるよ。」
と、優しく声をかけた。傍は如何にも喋るのが億劫といった感じだったが、力を振り絞って、
「お願い。あの人を、助けてあげて・・。」
と、掠れるような声で尋に懇願した。尋は、この悍ましい轍を終わらせるためには、その元を断たねばと暗に考えていたが、傍はそれを見透かしていた。こんな姿になって、苦しむためだけに生きるしか無いようにされながらも、自分を助け、受け入れてくれた者を守ろうとするのかと。自らの死をいい渡した張本人を。尋の頬を、熱いものが伝った。
「良かったね。傍君。キミは、人間の心を失ってはいなかったよ。」
そういいながら、尋は傍の額をそっと撫でた。傍は力なく微笑んだ。尋はその姿を見届けると、スッと立ち上がって、男の傍を振り返った。そして、
「パンッ!」
と、男目掛けて引き金を引いた。
「うっ。」
男は胸を押さえて床に倒れた。尋は男に近付くと、銃口を向けたまま、
「急所は外してある。アナタが始末しろといった僕の友人は、逆にアナタを助けてくれといった。だから、ボクはアナタを殺らない。ボクも、アナタも、彼も、姿こそ人間だが、最早、人間ではない。何が何だか、ボクには解りません。ボク達が居なくなっても、後継者は見つけられ、同じことが繰り返されるでしょう。でも、ボクたちは、自分達をこれで終わりに出来る。さあ。」
そういうと、尋は倒れて唸っている男の手に、小銃を握らせた。そして、静かにドアの方に向かって歩き出した。窓から差し込むプラントの明かりを見上げながら、
「終わったよ。これで。」
そういうと、一切の苦悩から解き放たれたような表情になると、ドアノブに手をかけた。そして、開かれたドアから眩いばかりの光が降り注いだかと思うと、次の瞬間、
「パンッ!。」
乾いた銃声が倉庫内に響いた。波止場の海面すれすれを、海鳥が一羽横切っていった。(終)
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