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「あれえ?。何で?。」
相当驚いているようだった。それはそうだろう。いつも通りの段取りならば、十分に麻酔の効いた体がヤツの元に運ばれてくるはずだからだった。しかし、今日に限って、袋の紐を解いた途端、中からは手足を縛られた状態の生きた人間が男を見返したからだ。
「アンタ、誰だ?。」
袋の中の男性は尋ねた。すると、白くズングリとした、丸顔で大きな無垢の眼(まなこ)をした男が顔を近付けてきた。そして、
「あの・・、えーっと、ボク、神(かみ)って呼ばれてます。」
その男は丁寧に自分を紹介し出した。
「神?。何で神なんだ?。」
袋の中の男性は尋ねた。
「それは、えっと、ボクが人の運命を決めるからだって。」
「運命?。命の有無をか?。じゃあ、ワシは此処で殺されるのか?。」
男の言葉に、男性は驚き、慌てふためいた。しかし、いくら藻掻けど、縛られた手足はいうことを聞かなかった。
「頼む。何でワシが殺されなきゃいかんのだ?。ワケをいってくれ?。」
男性はうわずった声で懇願した。しかし、神は困惑した様子で足元に目を落とした。
「ボクは、作業するだけだから・・、その・・。」
「作業って何だ?。」
「作業は作業だから・・。」
そういって、神は机の上に並べられている器具類の方に目を遣った。男性もその方を見た。すると、緑色の布の上には、銀色に輝く医療器具のようなものが並んでいた。小さな小刀のようなものや、三日月型で大きなものまで、それらはピカピカに研ぎ澄まされていた。男性は血の気が失せた。
「助けてくれ!。何でも話すから、な。どうか助けてくれ!。」
そういいながら、男性は涙ながらに訴えた。すると、
「うーん、困ったなあー。」
といって、神は作業には入らずに、考え込んでしまった。男性は万事休すかと思ったが、まさか自身の言葉で彼が躊躇するとは思わなかった。その様子に、男性は一縷の望みを見出した。
「な、アンタ、ワシの話を聞いてくれんか?。そしたら、ワシがこんな目に遭わされているのはおかしいと解るはずじゃ。な。頼む。」
男性は必死で神に頼み込みながら、時折様子を窺った。すると、神は素直に、
「解った。じゃあ話してみて?。」
そういって、男性が入っている袋の前に椅子を一つ持ってくると、そこにチョコンと座ると両手を膝の上に置いて、男性が話し出すのを待った。無垢の眼は瞬き一つせず、まるで舞台上の演劇が始まるのを待つ観客のようだった。
「サーッ。」
倉庫内の沈黙はノイズとなって、尋(ひろし)のイヤホンに届いた。彼もまた、いつもとは違う段取りになっている様子に聞き耳を立てていた。埠頭の外れにある倉庫街の横に車を止めて、トランクの中から重たげな袋を引きずり下ろし、シャッターを開けると袋を台車に乗せて内部に運んだ。そして去り際に、小さなマイクを袋の一番底に忍ばせておいたのだった。
「ワシは、田舎に生まれた。農家だった。そんなに貧しくは無かったが、家は長男が継ぐもの。ワシは次男やったんで、いくら頑張っても家は継げんかった。そして、十五を迎える頃、ワシは家を追い出された。自分の食い扶持ぐらい自分で稼げとな。」
神も、外の尋も、男性の話に聞き入った。
「初めは小さな洋食屋で下働きを、次に靴屋、その次は花屋と、あちこち転々としながら働いた。真面目に働いとったが、必ず身内の者を新たに雇うと、他人のワシは追い出された。何処へ行ってもそうじゃった。身寄りの無いモンは邪魔物扱い。ちょっと景気がいいと、働き口はいくらでもあったが、それが傾くと途端に追い出される。その繰り返しじゃ。」
ハンドルを握る尋の両の手にギュッと力が入った。神は、まじまじと男性の話に聞き入った。
「ならば、金を貯めてワシが主(あるじ)になればええ。そう決めた時から、ワシは一心不乱に働いて金を貯めた。そうして、三十の頃やったか、ワシは小さな会社を興した。それまで勤めてた所が輸入雑貨を扱ってたんで、ワシはそこでノウハウを学び、そして独立した。勿論、輸入には金がかかる。小さい所でいくら頑張っても、新参者のワシに出来ることなど、たかが知れてる。なので、ワシは勤めてた所を辞める際に、そこで知り合ったお得意さんと懇意になって、彼らが望む物を片っ端から輸入した。時にはヤバい品物もあってな、リスクは付き物じゃったが、危ない橋を渡るのを条件に、全て前金で頂いてたもんで、取引相手も金の面拝ませりゃ、すんなりとこっちのいうことを聞きおった。そんな風に、他の者がやらんことを、ワシは率先してやったもんで、次第にあっちのお客さんもワシの方に来るようになって、商いは大繁盛じゃった。」
そう語りながら、男性は神を見た。やはり無垢な眼でじっと見据えていた。今自分がしていることは、間違いなく命乞いである。そして同時に自分は裁きも受けている。男性はそう思うと、生半可なことでは彼の心は動かないだろうと咄嗟に思った。
「そんなあるとき、ワシの勤め先じゃった所が、ワシが顧客を盗んだってことで、大騒ぎになっての。裁判や何やとぬかすもんやから、ワシはお客さんの一人に頼んで、それらを収めてもらうことにしたんじゃ。結果的に、相手は静かになったし、その後のワシの商いも、さらに順調に運んだ。じゃが、その人が取った手段っちゅーのは、それはそれは手荒な方法やったらしい。後で聞いたんやが、身内の者を痛めつけて、相手を黙らせとったそうな。ワシはそこまでのことは頼まんかったが、気づけばそういう客筋がワシの周りにはいっぱいおったっちゅう訳や。」
男性は、溜息混じりにそう語った。その様子を、神は無垢な眼で見続けた。
「それからというもの、ワシは後戻りの出来ん所に来たのは解っとったから、どんどん商いを大きくしていった。そして、稼いだ金で周りにいうことを聞かせた。どんな人間も、金と恐怖の前には跪く。その両方が備わったときは、なおのことやった。恐ろしい目に遭うぐらいやったら、誰もがホイホイと金を受け取って、その流れに飲まれていった。人間なんて、そういうもんじゃろ。ワシは確信しとった。あるときまでは・・。」
イヤホーン越しに聞こえる話に、尋は思わずハンドルを握り締めて唸った。
「金と恐怖・・かあ。」
そして、男性の声のトーンが変わり始めたことを、神も外の尋も聞き漏らさなかった。
「金に群がる女は沢山おったが、本当に惚れた女などいなかった。しかし、あるとき、いくら金をはたいても靡かん女が現れてな。ワシは何とかその女を手に入れたくて、あらゆる手を尽くした。しかし、どんなにやっても、その女は寂しく笑うだけで、ワシのものにはならんかった。なので、ワシはその女にたずねた。どうすれば、自分の女になってくれるかってな。するとその女は、ワシが今までやって来たような方法で無い、そういうやり方でやってごらんっていうてな。金や力ずくでなら何とでもなる。しかし、それは今までのやり方と何ら変わらん。そしてワシはハッとなった。」
尋は車の窓を少し開けると、微かに瞬く埠頭の光を眺めながら煙草に火を付けた。
「ワシが今までしてきたことは、虚栄心を満たそうとしてただけなんじゃなかろうかってな。こんな素朴でか弱い女の心一つさえ、ワシは手にすることが出来ん。なので、ワシはこれまで築き上げてきたもの全てを捨てて、この女にかけてみようと思った。そして、自分の力で、その女に誠心誠意尽くした。そして、三年目の春、その女は初めてワシに頷いてくれた。彼女となら、これから先も全うにやっていける。ワシは有頂天じゃった。しかし、ヤツらはワシ一人が抜け駆けして幸せになろうとするのを許さなんだ。女に無事でいて欲しいなら、これまで通りに商いを続けろとな。考えみりゃ、当たり前のことや。ワシがこれまでしてきたことが、そっくりそのまま、自分に返ってきただけじゃからな。」
尋は煙草の煙を燻らせながら硝子の向こうを見つめた。神は相変わらず無垢な眼で男性を凝視していた。
「二人して逃げようとも考えたが、結局はヤツらのいうことに従った。そして、女との間には子供も授かり、よからぬこととはいえ、商いも益々上手いこといった。ただ一つのことを除いてな。それが、一番最初に揉めた、ワシの元雇い主じゃった。因果応報っちゅうたらそれまでやが、ワシは始終、その男に付け狙われるようになった。そしてある日の晩、ワシはその男に襲われそうになった。じゃが、ヤツらの手下がワシを守るために、その男を取り押さえた。そして、ワシん所まで連れて来て、男の処遇を聞いてきた。ワシは命までは取らんかった。ワシも取られてはいなかったからな。そして恐らくは、その男にも家に帰りゃ家族もおるやろう。なので、二度とワシに近づかんように約束させて、男を解放させた。しかし、それでも恨みは晴れんかったっちゅうことやろ。じゃから、アンタに頼んで、こういう風にさせたんじゃろ?。違うか?。」
そういうと、男性は神を直視した。途端に神は戸惑った。
「あの、えーっと、ボクは知らない。作業するようにいわれただけだから・・。」
そのとき、男性は気づいた。
「この男、瞬きを全くしない。」
話とか、そういうことが通用するようなタイプでは無いことを男性は悟った。
「じゃあ、アンタがワシを殺す理由など無い訳や!。頼む。アンタも人の子じゃろ?。親もおるんじゃろ?。ワシにも子供がおる。頼む。殺さんでくれ!。」
男性は嗚咽して懇願した。すると、
「おや・・って、何?。」
そういって、神は再び男性を凝視した。男性はそれを聞いて、泣くのをピタリと止めた。目の前にいるこの男は、人の姿をしているが、自分が親から生まれてきたことすら知らない、そういう生物なんだと。いや、生物の姿はしているが、生物ですら無い。男性は失望した。瞳から生の光を失った。そして、少しの沈黙の後、
「じゃあ、やるよ?。」
そういうと、マイクからは何か大きなものを叩くような鈍い音が漏れた。それ以降は、黙々と何か作業をしているらし音のみが淡々と続いた。
「サクッ。サクッ。」
「チュイーン。」
尋は車のドアを開けて外に出た。そして、足で煙草を揉み消しながら、
「ヤツの心は動かない・・かあ。」
そう呟くと、再び車に戻って倉庫を後にした。
尋がこの仕事に手を染めるようになったのは、今から9ヶ月ほど前のことだった。医学部生だった彼は友達の誘いで、とある場所に訪れたことがあった。都会の歓楽街から少し離れた、ひっそりとしたホテル街。流石にその辺りは静かだった。そんな一角に、煌びやかなホテルとは対照的な一棟の黒いマンションがあった。入り口はオートロックになっていて、1階付近には夜になるとスーツ姿の男が立っていた。
「オー、ツー。」
そういって友人が指を二本差し出すと、男性は二人をエスコートし、エレベーターで7階の部屋まで案内した。友人がドアのオートロックを解除すると、ドアの隙間から内部が窺えた。そこは大きなフロアーになっており、入り口付近には別のスーツの男性と、バニーガール姿の女性が数人立っていた。
「いらっしゃいませ。どうぞこちらへ。」
そういうと、男性がドアを開けて二人をカウンターに案内した。奥に通されると、そこはカジノだった。テーブルゲームが主体で、座敷席では札が、テーブル席ではダイスかルーレット、またはカードがプレイ出来た。友人はここの常連だったらしく、換金無しで早速チップを受け取った。
「ま、要領を覚えるまで、最初は見とけよ。」
友人はそういうと、ルーレットのグリーンテーブルに着き、早々に思い思いの数字の所にチップを配置した。
「カラカラン。」
ボールが数字の所に入る度に、客達は声を上げて一喜一憂した。時折、バニーガールが席の横にやってきて、ドリンクを交換した。
「どうだ?。お前もやってみるか?。」
そういうと、友人は尋にチップを10枚ほど手渡した。尋も見よう見まねでテーブルにチップを張った。
「カラカラン。」
ボールは10の所に入った。尋が張ったチップのうち、1つが10だった。
「おお、やったな!。」
友人は尋の肩を叩いて喜んだ。借りたチップで尋はいきなり儲けた。借りの分を友人に返すと、
「ちょっと他の所も見てくるよ。」
そういって、尋は別のテーブルの所へいった。そこは、何らかのカードゲームをプレイしていた。
「何だろう?。此処。」
尋は、ポーカーともカブとも違う、妙なゲームに客達が白熱しているのを目にした。
「おお!。やったぜえ!。」
「んー、チキショウ!。」
先程までとは違うテンションに、尋は圧倒された。後に解ったことだが、このテーブルはレートが異なっていた。1回のプレイでかなりの高額が動いていた。
「お若いの、どうだね。アンタも賭けてみては?。」
そういうと、一人の親切な客が尋に席を譲った。全く見たことの無いゲームだったが、後ろから見ながらルールを何となく覚えたので、尋は見よう見まねでプレイした。そして、程なくして、
「大当たり!。」
尋は両手では抱えきれない程のチップを手にした。ビギナーズラックだった。両側からバニーガール達がドリンクを持って来つつ、頬にキスをした。口当たりのいいシャンパンのせいもあって、彼はすっかり有頂天になった。暫くして友人もやって来た。
「お前、バカラなんかやっちまったのか?。」
と心配しつつ、テーブルの上に山ほど積まれたチップを見て、
「ウソだろ?。」
と、尋の付(つき)に声を失った。友人は知っていた。このゲームが、如何に危険であるかを。
「おい、もうその辺で止めとけって。引き際が肝心だぞ。」
友人は諭すように尋にいった。尋は折角こんなに勝っているのにと思いつつ、しかし、初めてでこの状態は流石にちょっとマズいかなとも考えた。
「解ったよ。」
そういうと、尋はディーラーにチップを数枚渡して、プレイを切り上げた。
「これ、いくらぐらいなんだろう?。」
尋が友人に尋ねた。
「まあ、ザッと7、800だろう。いいか?。こんなことは滅多に無いことだ。換金して金の面なんて拝むんや無えぞ!。」
友人は険しい表情で尋にいった。
「じゃあ、お前はどうすんだよ?。」
尋は友人がチップをどうするのかを聞いた。
「此処へ預けておいて、月末に精算する。足りてれば、それが翌月の軍資金だ。足りなければ後日送金して、また遊ぶ。それが綺麗な遊び方だ。」
「ふうん、そうか。解った。」
少し酔いながらも、尋は友人のアドバイスに従った。すると、スーツ姿の男性が、
「ご友人の方の紹介ですので、会員になられますか?。」
とたずねてきた。尋は、
「あ、はい。勿論。」
そういって、早速、此処の会員になった。尋は入会に必要な事項を口頭で伝えた。男性はカウンターの上にある小さなラップトップに素早く打ち込んだ。紙切れの類や筆記具は一切無かった。そして、スーツ姿の男性は尋の耳元で囁きながら、9本の指で手の合図の仕方も伝えた。入室の際の合い言葉だった。
「そういうことか。」
尋は此処がどういう所か、あらためて理解した。二人は部屋を後にして、エレベーターに乗った。
「連れ来て、よかったんだかどうか・・。」
友人は尋の方を見て呟いた。尋はほろ酔い気分と今日の付が今頃頭を駆け巡って、聞く耳など持たなかった。
翌日の講義は、尋には極力退屈に感じた。昨日のあの雰囲気、そして付が忘れられなかった。残りの講義もそこそこに、尋は再び一人で例のカジノに向かった。ホテル街の端にある黒いマンションに着くと、昨日友人がやったのと同じ段取りでスーツ姿の男性に隠語で語った。
「オー、ワン。」
昨日と同じくエレベーターで7階まで案内され、暗証番号を押して内部に入った。カウンター内のスタッフへの挨拶もそこそこに、尋は一目散にバカラの席に向かった。バニーガールが飲み物を持って来たが、見向きもしなかった。ディーラーが配るカードに目を落としながら、尋は真剣にゲームに興じた。しかし、
「うーん、昨日のようにはいかないなあ。」
数字的には昨日の獲得した分が十分にあると踏んでいた尋だったが、あれよあれよで、今日は大負けしてしまった。
「危うく全部擦っちまうところだったよ。危ない危ない。」
自制心を効かせて今日の所は踏み止まったつもりだった。そして今日の分を精算すると、カウンターの中からスーツ姿の男性が優しく、
「ま、こういうときもあります。これに懲りずに、またお越し下さい。お待ちしてます。」
そういいながら、尋に何らかのチケットを数枚手渡した。それは、この界隈にあるらしい、女性のいる店の無料優待券だった。
「よし、今日は憂さ晴らしにいくか。」
尋はそのチケットに書かれてある店に向かった。そこは、この場所から歩いて数分の所にあった。外からは何の店かは解らないほどひっそりとしていたが、ドアを開けた途端、
「いらっしゃいませ。」
という声と同時に、何ともいい香りが漂った。
「あの、すみません。これ。」
そういって、尋は出迎えた女性にチケットを見せた。
「あ、ご優待の方ですね。では、こちらへどうぞ。」
煌びやかな店内には何人もの女性が待ち構えていた。しかし、尋はその奥にある個室のような所に通された。
「今、女の子が参りますから、少々お待ち下さい。」
女性はそういうと、飲み物と氷をテーブルに置いて、退室した。そして程なく、
「お待たせしました。」
といいながら、タイトなドレスを着た肉感的な女性が現れた。そして、尋の隣にそっと座ると、飲み物を注いで二人で乾杯した。
「あの、お代は?。」
尋は、チケットが全てのサービスに有効なのかをたずねた。
「心配しないで。ゆっくり楽しんでいってね。」
女性の言葉に嘘は無かった。チケット1枚で、ここでの全ての歓楽が無料だった。尋はしこたま飲んだ後、いうのも憚られるほどの熱烈なるサービスを女性から受けた。そして、事が終わると、尋は店を出た。
「どうも有り難う御座いました。チュッ!。」
丁寧な送り出しに、尋は骨抜きにされた。勝っても負けても、この世のものとは思えない程の快楽が待っている。尋が足繁くカジノに通うまでには、然程も時間はかからなかった。もし、手持ちの獲得賞金が無くなっても、田舎町にある比較的裕福な開業医の息子という立場が、よりいっそう、彼の脇を甘くさせた。そんな様子を心配した友人が、
「おい、大丈夫か?、お前。あそこは普通のカジノとは違うんだぞ。」
と忠告したが、尋の耳にその言葉は届かなかった。そして、2ヶ月ほど経ったある日、尋がいつものように例のカジノに訪れると、スーツ姿の男性が入室前にドアの前に立ちはだかり、
「すみません。ちょっとこちらへお越し下さい。」
そういって、一つ下のフロアーにある別の部屋へ案内された。そこは殺風景な事務所のような感じで、大きなソファーが置かれていた。その真ん中には、かなり人相のよろしくない男性が一人、明細書のようなものの束を持って座っていた。何事かと尋が思っていると、
「尋さん。こちらで随分と遊ばれたようですが、実は手持ちの分は既に底を尽きてましてね。で、その後は、こちらからお貸しした形になってます。」
そういって、男性は尋に明細書を手渡した。そこには、見たことも無い巨額な債務が書かれてあった。
「そ、そんな・・。」
尋は唖然とした。そして、腰を抜かして反対側のソファーに倒れ込むように座った。尋が何か抗う素振りを見せようとしたそのとき、男性は追い打ちを掛けるように、
「それと、うちの店の子と、随分親しくされてたようですね。うちは店内ではあのような行為は禁止されてるんですよ。」
そういいながら、男性は足元のカバンから小さなラップトップを取り出し、尋があの肉感的な女性と個室で繰り広げていた行為の動画を見せた。
「あの子は、うちの上の者のお気に入りでね。それに手を付けたとあっちゃあ、ねえ。」
尋は心臓の高鳴りと同時に、絶望した。カジノの負け分だけなら、最悪、実家に頼み込めば金の融通ぐらいはつくだろう。しかし、女性との行為が証拠として握られていること、そして何より、この手の世界では上の者が有する女性に手を付けることが、どういうことになるのかを、尋は知らない訳では無かった。
嵌められていたであろうことは、尋にも容易に解った。しかし、この状況を覆すには、もはや自分に出来ることは何も無いと、尋は悟った。このまま始末されてしまうのか、まだ人生の前半もそこそこしか生きてないのにと、尋は自身の悲惨な最期を予測して、心から身が震えた。
「こっちへ来い!。」
男性は立ち上がると、尋の肩口を鷲掴みにして、奥の部屋へ引きずり混んだ。そして、尋を連れて来たもう一人の男性がサッとドアを閉め、何事もなかったかのようにソファーの端に座った。
「ドカッ。ボコッ。」
中からは幾度となく何かを力強く殴打するような音と、呻き声のようなものが聞こえた。ソファーに座った男性は顔色一つ変えずに、煙草を吹かしていた。そんなことが数時間は続いただろうか。やがて、物音も聞こえなくなったとき、入り口のドアが開いた。
「お疲れ様です!。」
ソファーに座っていた男性は、入ってきた男性を見ると、煙草をもみ消して素早く立ち上がって90度に挨拶をした。
「焼きか?。」
白いスーツに黒いシャツのその男性は、立ち上がった男性にたずねた。
「ええ、まあ。」
そう答えたとき、奥のドアが開いて、中からは返り血を浴びた男性が黒い革手袋を取りながら出て来た。そして、白いスーツの男性を見るなり、
「お疲れ様です!。」
と、やはり90度に挨拶をした。
「形(かた)か?。取れたんか?。」
「いえ、それが・・、」
奥から出て来た男性は、ことのあらましを白いスーツの男性に話した。
「そうか。このままだと始末することになるな・・。こいつ、何処のモンな?。」
「田舎出の医大生だそうです。」
「ほう、医者の卵か。」
白いスーツの男性はそれを聞くと携帯を取り出して、とある所に連絡をした。
「もしもし、私です。丁度いいのが手に入ったので、もしよければと思いまして。はい。はい。解りました。では後ほど。」
男性は簡単にやり取りを済ませると、奥の部屋に入っていった。そして、身動き一つせずぐったりしている人間を見て、顔を近付けてたずねた。
「おう。随分と男前になったな。名は?。」
「ひ、尋です。」
「医大生やそうやな。何回生や?。」
「さ、三回です。」
「そうか。危なかったな。お前、このままじゃ、此処で命落とす所やったぞ。で、お前、助かりたいか?。」
男は開かぬ尋の目を見てたずねた。尋は動くのも億劫といった感じで、
「は、はい。助かりたいです。お願いします。お願いします・・。」
と、涙声で男性に訴えた。
「ようし、ようし。解った解った。ワシが助けちゃる。ただ、お前がやらかしたことの落とし前も付けねばならん。解るな?。」
「はい。」
男性の優しい言葉に、尋は絆されて頷いた。
「男っちゅうんはな、遊んだ後は綺礼にするのが筋や。お前は、ちと度が過ぎたんで、こんな目に遭うとる。しかし、お前にはワシらに無い腕がある。その腕を、ワシらのために使ってくれんかな。の?。」
「はい。解りました。」
噎び泣く尋を、男性はそっと起こした。そして、胸ポケットからシルクのハンカチを取り出して、血だらけの顔を丁寧に拭いた。
「下のモンが無茶して、すまんかったな。」
男性は尋の肩を抱えながら部屋の外まで連れていき、ゆっくりとソファーに座らせた。そして、両側にいた男性二人に目配せで合図し、退出するように促した。尋の恐怖心を呼び覚ますまいという配慮にも思えたが、その所作はあまりも、堂に入っていた。そして、男性は尋に温かい珈琲を出した。
「血が足らんで寒かろう?。これでも飲んで、温まれや。な。」
「はい。有り難う御座います。」
尋は両の手でカップを受け取ると、震えながら珈琲を啜った。切れた口の中に熱さが染みたが、尋はそれを飲むと、少しずつ落ち着きを取り戻した。そうこうしていると、玄関のドアが開き、
「失礼します。客人をお連れしました。」
と、ドアの外から退出した若い男性が声だけで知らせた。そして、その後に、
「連絡、すみません。」
そういいながら、背の高い作業服姿の男性が一人入ってきた。
「お待ちしてました。どうぞ。」
白いスーツの男性は丁寧にお辞儀をして、彼に尋を引き合わせた。
「医大の三回生だそうです。」
作業着の男性は、腫れ上がった尋の風体を見て、
「二週間。」
とだけいった。それは、尋の腫れが引いて、次の段階に移ることが出来るまでの日数だった。
「解りました。では二週間後。」
白いスーツの男性はそういうと、作業着姿の男性を送り出し、深々とお辞儀をした。
部屋に戻った男性は尋の正面に座り、
「まずはゆっくりと傷を治せや。その後のことは心配はいらん。お前のその腕があれば、溜まったツケなんぞ、すぐに払えるから。の。」
そういいながら、尋のカップに珈琲を注いだ。
「はい。有り難う御座います。」
もはや、尋の脳裏には思考の感覚など無かった。ただただ、目の前のこの男性だけが救世主のように思えた。
男性は尋に付き添ってマンションを出ると、用意されていた真っ赤なスポーツカーの助手席に尋を乗せた。
「家まで送ってやる。」
そういうと、男性は車を発進させた。低く地鳴りのようなエンジン音が尋の体の傷に響いた。深夜の町を爆音を上げて疾走する車体とは反対に、車内は静かだった。やがて、走行の振動は疲れ切った尋の眠りを誘った。
「おい、起きとけ。焼きの後に寝られたら朝までは起きねえ。」
そういって、男性は尋の左肩を揺すった。
「あ、はい。すいません。」
男性は運転しながら音楽をかけた。どうやらジャズのようだった。
「こんな人がジャズを・・。」
尋は不思議に思った。しかし、静かに始まったメロディーはやがて細やかに鍵盤を叩き、聞いたことも無いような旋律になっていった。
「ジャズは好きか?。」
男性はたずねた。
「いえ、聞いたこと無いです。」
尋はその方面の音楽に全く造詣が無かった。
「エディーだ。過酷な人生を送ったピアニストだ。その才能と引き換えに、短い一生を終えた。」
そういいながら、男性はフロントグラス越しに遠い目をした。
「こんな渡世にいるとな、どうしても重なっちまうんよ。解るか?。」
男性は同意を求めるでも無く、独り言のように呟いた。当然、尋は返事に困った。
「まあ、いい。何を好んでオレたちのような者に関わったんか。全うに暮らしてれば、前途洋々な人生が待ってたのによ。ま、オレも人のことはいえねえがな。」
男性は諭すでも無く、ただただ一人で話していた。そして、尋の部屋があるアパートよりは随分手前の所で車を止めた。
「こんな車が部屋の真下に止まっちゃ、目立つだろ。歩けるか?。一人で。」
男性は尋の周辺住民と尋に配慮した。
「ええ。大丈夫です。」
そういって、低い車体から体を引きずるようにして何とか車を降りた。
「二週間後、連絡を入れる。大学は極力休むな。いいな。ただし、今日明日ぐらいは傷口を冷やして休んどけ。腫れも引きゃあ、楽になる。」
そういうと、男性はトランクから保冷剤と鎮痛剤を取りだし、尋に手渡した。
「今晩は熱と痛みがきついから、これ飲んどけ。」
「すみません。有り難う御座います。」
「じゃあな。」
そういうと、男性は車に乗って颯爽と立ち去った。そこから自分の部屋のある2階までは、どうやって戻ったのか。そして、その後、どのように眠りに就いたのか、尋は全く覚えていなかった。翌日は何とか目覚めたが、男性のいった通り、とてもでは無いが、尋は動けなかった。友人にスマホで連絡をし、代返を頼んだ。そして、少しでも何か腹に入れておこうと思って、ペットボトルのジュースを口に含んだ途端、激痛が走った。
「ぷはっ。」
尋は思わず吐き出した。血の混じったジュースが辺りに散らばった。長時間の折檻で、口の中はズタボロだった。仕方なく、男性に貰った鎮痛剤を飲んで、再び眠りに就いた。まだ、昨日自分のみに起きたことを振り返る余裕など無かった。無論、これから先に訪れる状況を想像することなど、出来るはずも無かった。尋は、たまに起きては傷口をタオルに包んだ保冷剤で冷やし、痛みが出だすと鎮痛剤を飲んだ。そして、どうにかこうにか次の日には腫れと熱は引いた。鏡で顔を確認したが、人様に見せられるような状態では無かった。それでも男性のいう通り、尋は大学に行く準備をした。途中、薬局に立ち寄り、一際大きなマスクで顔を隠し、登校した。そして、近くのコンビニでゼリー状の飲料を買って、栄養を補給した。それしか喉を通るものが無かった。学校に着くなり、友人が駆け寄ってきた。そして、尋の姿を見るなり、
「お前、大丈夫だったか?。何かヤバイことになってるんじゃ無いのか?。」
と、矢継ぎ早に質問した。尋はまだ残る傷を手で覆って俯くようにしながら、
「ああ。大丈夫。ちょっと転んでな。」
そう答える尋に、友人は到底納得がいかず、
「転んだって、お前、そんな怪我する訳無いじゃないか。」
と、しつこく何があったのかを聞き出そうとした。明らかに焦っていた。尋の心配なんかでは無く、明日は我が身的な感情が友人を駆り立てていたからだった。
「ホントに大丈夫だってば。」
そういうと、尋は学生実験の行われる教室に歩いていった。そして、教授の心話を聞きながら、尋は一人で淡々と実験をこなした。そんな日が何日か続き、尋は実験以外は極力人と会わないようにした。傷が癒えて、少しずつ物がたべられるようになると、次第に自身の置かれている状況について想いを馳せるようになった。
「オレは一体、どうなるんだろう・・。」
そうこうしているうちに、予定の二週間が過ぎた。そして、学生実験が終わって帰宅しようとしたその時、尋の携帯が鳴った。
「はい、尋です。」
「もしもし、オレだ。傷は治ったか?。」
「はい。」
「この前下ろした所、覚えてるか?。」
「はい。」
「よし。今日午後11時、お前を迎えにいく。近くに来たらまた連絡する。」
そういうと、男性は携帯を切った。
体の痛みと腫れも引いて、尋は元の体に戻っていた。多少の傷は残っていたが。しかし、彼が受けた心の傷は見た目ほどには癒えていなかった。二週間もあれば、行方をくらますなり、公安当局に相談も出来た。が、彼はしなかった。別に監視されていた訳でも無かったが、彼の思考と心理は最早別の所に存在しているようだった。恐怖による支配が如何なるものか、それは真の恐怖を味わった物にしか解らない。尋はそのときのことを誰にも語らず、ただただ次の裁定が下るのを待っているだけだった。
「プルルルル。」
「はい、尋です。」
「オレだ。今、近くだ。例の場所に来い。いいな。」
「はい。」
このとき、尋は以前男性と最後に別れた場所に既に来ていた。程なく、赤いスポーツカーが現れ、ウインドウが下りた。例の男性だった。彼はハンドルを握りながら、目配せで尋に車に乗るように促した。尋が助手席に座ると、車はあっという間に疾走した。彼は尋に缶コーヒーを手渡した。
「飲めるか?。」
「はい。すみません。」
男性は尋の口の中を気遣った。その後、暫く無言のままだった。そして、車は高速に入り、小一時間ほど走った。流れゆく夜の車窓は、まるで何処かに運ばれる自分の運命のようだと、尋は思った。すると、
「この前会った人物、覚えてるか?。」
男性が徐にいいだした。
「はい。」
「今からヤツの所にいく。向こうに着いたら、ヤツの指示に従え。いいな。」
「はい。」
そういうと、男性は再び黙って運転を続けた。そして、車が高速を下りると、辺りは真っ暗で静かだった。時折、街灯の明かりが灰色のアスファルトを照らしていたが、次第にその間隔も広がっていった。このまま山の中を走り続けるのかと思ったそのとき、右手に家の灯りらしき物が見えた。車は右折すると、その家の前に止まった。この辺りには似つかわしくない、前衛的で洋風な作りの家だった。白を基調とした、無機質な感じだった。
「着いたぞ。下りろ。」
男性は尋を下ろした。そして、自身も下りて、家のドアを奇妙な回数でノックした。
「コンコンコン、コンコン、コン。」
すると、静かにドアが開き、中から小柄で色白の男性が出て来た。無表情だが、目つきだけはギラギラしていた。そして、二人を眺めながら、
「どうぞ。」
と、中へ誘った。奥へ続く通路は狭く、わざと照明を抑えているようだった。そして、突き当たりの一つ手前の部屋に来ると、小柄な男性はノックした。返事は無かった。そのことを確認すると、男性はドアを開けた。
「どうぞ。」
男性は二人を中へ誘ったが、自身は入らずにドアを閉めた。中には椅子に座った、例の背の高い男性が座っていた。
「きっちり二週間でした。では。」
そういうと、尋を残して男性は退室しようとした。去り際に彼は尋の方をポンと叩いて、
「指示に従え。無駄口は絶対に叩くな。いいな。」
そういいながら、尋の目を真っ直ぐに見た。あの穏やかだった男性が、こんな目つきをするとは。それは、恫喝とも違う、警告とも違う、まるでそれが生き残るための唯一の手立てであるかのようないい方だった。尋は黙って頷いた。彼が退室した後、部屋には背の高い男性と尋だけが残された。男性は座ったまま、冷たく尋を凝視した。そして、
「運転は出来るか?。」
とだけたずねた。
「はい。」
「結構。」
そういうと、男性は部屋の隅に置いてあるバッグから、折りたたみ式の着く手と椅子を取り出した。そして、
「かけたまえ。」
そういって、尋を座らせた。そして、男性は小さなラップトップを取り出して尋に画面を見せた。そこには何らかの施設の見取り図らしきものが映し出されていた。そして、右上の隅には、その建物の外観が。
「病院?。」
尋は心の中で呟いた。
「麻酔の種類と取り扱いは、もう知っているな?。」
男性は急にたずねた。
「あ、はい。」
尋は疑問だらけの心を抑えて、返答だけに集中した。
「結構。全ての段取りはつけてある。今からキミはこの病院にいく。そして、支持された通りに、目的の男性に麻酔を投与する。これが中に入るパスだ。」
そういうと、男性は医療着とパスを机の上に置いた。
「キミはこの入り口からパスで入り、その男性がいる部屋まで、この通路を通っていく。そして、麻酔を投与したら部屋を出ろ。来た道をそのまま出口まで出ろ。後は次の者がやる。その間、二分三十秒。一連の行程を、この図を見ながら頭の中でシミュレーションしておけ。」
尋は、ようやく自身の置かれた立場を理解した。いや、正確には、その立場の入り口に立たされようとしていることを理解した。機械的に淡々とミッションを告げる男性には、一片の感情も見受けられなかった。疑問を差し挟む余地どころか、こちらの感情を僅かにでも出すことの方が禁じられた、そのような世界。尋の脳裏には、経験したことの無い痺れたような感覚が走った。
尋への説明を終えると、男性はラップトップを閉じて立ち上がった。そして、机と椅子を素早く折りたたんで大きなバッグに仕舞った。
「来たまえ。」
男性は尋を部屋の外に連れ出した。二人が部屋を出ると、灯りは自動的に消えた。通路を通って表に出ると、グレーのバンが止まっていた。運転席には小さい男性が座って前方を向いていた。
「乗りたまえ。」
男性は尋を後部座席へ誘い、自分もその隣に座った。程なく、家の灯りは全て落ちた。車が静かに発進すると、背の高い男性は静かに尋にたずねた。
「見取り図は覚えたか?。」
「はい。」
「結構。」
男性はそういうと、横を向いて車窓を眺めていた。尋も反対の車窓を眺めながら、自身について想いを馳せた。しかし、今は来たときのそれとは違っていた。指示通りにミッションをこなす。ただそのことだけに集中した。その行為の善悪などに感情を揺るがせている場合では無い。それは遂行の邪魔になるだけである。運転する小柄の男性、尋の横に座る背の高い男性、そして尋。三人とも表情は無かった。それはまるで薄緑に透き通り硝子のような顔だった。やがて車窓は都心の風景に変わっていった。すると、背の高い男性は、
「これに着替えておきたまえ。そして、胸にパスを付けろ。」
そう指示した。尋は渡されていた医療着に着替え、胸にパスを付けた。尋は着替えが終わると、車が減速し始めたのを感じた。外を見ると、
「例の病院・・。」
画像で見た病院が、実際にそこにはあった。車は緊急外来の入り口付近で止まった。すると男性がポケットから何かを取り出した。
「これが麻酔薬とシリンジだ。車を降りて、そこの入り口から入った時点でスタートだ。二分三十秒でここに戻って来い。そして、これが目的の男性だ。」
そういうと、男性は胸ポケットから一枚の写真らしきものを取り出した。それはプリンターのようなもので印刷された粗雑な画像だった。そしてそこには矍鑠とした男性が写っていた。
「この男性に、オレが麻酔を・・、」
そう思うや否や、
「いけ。」
男性がバンのドアを開けていった。尋に思考する隙を与えなかった。尋は車から降りると、真っ直ぐ入り口に向かった。そして、バンの方を振り返りながら一歩踏み込んだ。車内の男性は腕の辺りに目を落として時間を計っているようだった。
「始まりか。」
尋はそう思いながら、左手にある詰め所の窓口を見た。しかし、中には誰もいなかった。そのことを不思議には思ったが、尋はパスを出す必要も、顔を見られることも無いと、少し安心しながら、指示通りに目的の部屋まで向かった。真夜中の病院は静まり帰っていた。尋は出来るだけ靴音を立てずに早足で進んだ。途中、清掃員らしき人物が黙々と床のモップがけをしていた。尋は顔を見られないように反対の方を向きながら歩んだ。そして、目的の部屋に着くと、医療着の裾と一緒にドアノブを握って開けた。そこは個室だった。右の壁に付けるようにベッドが置かれ、その上に写真で見た男性が眠っていた。
「眠らされているのか?。」
尋は睡眠薬と麻酔の併用を一瞬躊躇ったが、ミッションは既に開始されていた。時間が無い。尋はポケットから素早く麻酔とシリンジを取りだし、針を付けて手際良く麻酔薬を準備した。そして男性の腕に注射した。尋は注射跡から出血が殆ど無いの確認すると、注射針にキャップをはめてシリンジをポケットにしまった。そして、来た時と同じ要領でドアを開けて素早く部屋を出た。すると、外には先ほどの清掃員が二人、担架を用意して待っていた。尋は彼らの横を素早く通り抜けて、元来た通路を歩いていった。そして、角を曲がる際にチラッと振り返ると、清掃員達は尋が出て来た部屋に担架を運び込んだ。
「連れ出すのか。」
尋はそう思ったが、これ以上の観察や詮索は指示には無かった。寧ろ、無駄な時間を生じさせる。そう思いながら、尋は歩みを早めた。そして、夜間出口付近に来たとき、尋は再び詰め所を覗いた。
「誰かいる。」
来たときには気づかなかったが、中にはガードマンらしき男性が椅子に座りながら、異様な姿勢で眠っていた。
「手はず通りってことか・・。」
尋はそう思いながら、外に出た。すると、先ほど来たバンの後ろに、もう一台、別のバンが止まっていた。そして、前の晩のドアが開き、
「時間通りだ。乗れ。」
そういうと、男性が尋を迎えた。尋が車に乗ると、バンはゆっくりと発進した。尋は後ろのバンが気になり、振り返った。すると、先ほどの清掃員達が短歌と一緒に男性を運び込む所だった。尋達が乗ったバンは病院の敷地を出て左に曲がった。それ以上、後ろの様子を確認することは出来なかった。
「ご苦労。元の服に着替えたまえ。これで今日のミッションは終了だ。」
男性はそういうと、黙って横を向き、車窓を眺めた。尋は少しずつ、痺れたような感覚が止んで来た。と同時に、何処からともなく震えが来た。
車は暫く走ると、街中で尋を下ろした。去り際に男性は、
「今日の報酬だ。また連絡する。」
そういうと、尋に包みを渡し、立ち去った。渡された包みは厚みがあり、重かった。尋は包みを開けて中を確認した。
「金だ。」
そこには帯付きの紙幣が入っていた。
「嘘だろ?。」
尋は目を疑った。自分が行ったことは、恐らくは人の道に反することだろう。なのに、こんな大金を手にするなんて。頭の中が錯乱した。
「落ち着け。まずは帰って、それからゆっくり考えよう。」
尋はそう思ったが、こんな時間に電車など無い。仕方なくタクシーを拾って、自分の部屋まで帰った。結構な距離ではあったが、金ならある。ビギナーズラック以来の大金だった。安心した尋は、少し気が大きくなっていた。小一時間ほど走ると、タクシーは止まった。尋は貰った報酬の中から紙幣を二枚取りだし、運転手に渡した。そして、部屋に戻ろうとしたとき、例の赤いスポーツカーが止まっているのが見えた。
「ヤバイ!。」
尋は直感した。すると、車から白いスーツの男性が降りて、尋に近づいて来た。そして、
「よう。報酬が出たろ?。」
そういうと、尋が小脇に抱えていた包みを奪い取って、中身を確認した。そして、男性は不審そうな顔をした。
「てめえ、この金に手え付けたんか?。」
そういうが早いか、男性は尋のみぞおち辺りに左ボディーを一発食らわした。
「ぐへっ。」
尋は奇妙な声を出しながら、路上に蹲った。男性はしゃがみ込みながら尋の方を掴むと、
「お前、今、どういう立場か解ってんのか?。」
そういいながら、尋を立たせて植え込みの辺りに座らせた。そして、男性は近くの自販機で缶コーヒーを二つ買うと、一つを尋に手渡した。
「ゆっくり飲め。」
そういって、男性もコーヒーを飲み出した。
「お前がこういう目に遭ってるのは、そのルーズさが元だろ。ん?。」
男性は眼光鋭く尋を諭した。尋は胃の辺りを押さえて、
「はい。すみません。」
と、項垂れながら返事をした。そして、缶を開けると、ゆっくりとコーヒーを啜った。すると、男性は今度は優しい目つきで、
「足代がいるときは、オレにいえ。包みの中身には手を出すな。いいな?。」
そういうと、男性は自身の財布から紙幣を三枚取りだし、二枚を包みの中にもどし、残り一枚を尋に手渡した。
「いや、あの、これ・・、」
尋は断ろうとしたが、男性はその手を握って、
「いいから取っとけ。」
そういって尋の胸元に押し返した。尋はお辞儀をして再びコーヒーを飲んだ。そして、
「あの、一つ聞いてもいいですか?。」
そういうと、男性は直ぐさま、
「聞くな。」
と言葉を遮って、コーヒーを飲んだ。そして、
「だが、疑問だらけで、どうしようも無えってとこだろう。何だ?。」
そういって、道路を行き交う車を眺めた。
「今日会った、あの人達は一体・・、」
尋がそういいかけたとき、男性が語り出した。
「いいか。一度しかいわねえから、ようく聞け。以後、そのことは二度と聞くな。オレ達のような渡世は切った張ったが当たり前のように思われてるが、それは昔の話だ。今は、一生に一度、いや、そういうことすら経験しない者がほとんどだ。しかし、話は常に持ち込まれる。オレ達はマークされてる身ゆえ、動けねえ。だから、ヤツらがいる。そういうことだ。」
そういうと、男性は残りのコーヒーを一気に飲み干した。
「次からは手を付けずに包みを持って来い。いいな。」
男性はそういうと、車に乗って立ち去った。去り際、尋は男性に一礼した。そして、ボーッと夜空を眺めた。建ち並ぶビルの間から、辛うじて星空が見えた。
「オレの命は、借金の形に取られてるのか・・。」
そう呟きながら、今日までに起きたことを振り返るでも無く、そして、未来のことを案ずるでも無く、ただ、暫くはいわれた通り、同じ作業を行って、報酬を男性に返済する、ただそれしか無いという諦観を覚えた。部屋に戻ると、その夜、尋は深い眠りに就いた。無自覚だった極度の緊張状態が、一気に解き放たれた。そして、気がつけばカーテーンの隙間から日光が差し込んでいた。
「朝か・・。」
尋はそういいながら、胃の辺りを押さえて起き上がった。大学にいく用意をすると、尋は駅へ向かった。改札を抜け、いつものように電車を待つ横には売店があった。尋は何も買わずに通り過ぎて、到着した列車に乗った。クルッと巻かれたとある新聞には、昨日尋が麻酔を施した男性の行方不明記事と、男性の顔写真が載っていた。そのことを、尋は知る由も無かった。学校に着くと、尋はこれまでよりいっそう無口になった。極力人とは会わないようにし、昼間は購買部で軽食を買うと、人目を避けて一人、食事を取るようになった。学生実験や講義の前に友人が声をかけようとしたが、尋はサッと身を躱し、その場を離れた。もはや、日常の会話が出来るような心理状態では無かった。
ある日を境に、尋の生活は一変した。しかし、表向きはいつもと変わらない。いや、寧ろ判で付いたような、ストイックな生活になった。広間は大学に通い、夜は直帰し、何気にPCの画面に向かい、気づけば寝落ちする。そして、たまに携帯が鳴れば、指示通りに作業に向かう。これまでに、尋はもう既に数件の作業に関わっていた。二回目以降は赤いスポーツカーでは無く、小柄な男性が地味な軽自動車で尋を迎えに来た。そして、車内で作業工程を説明され、彼は毎回、段取りをされた病院で医療スタッフとして潜り込み、目的の人物に麻酔を注射した。そして、清掃員に分した人物と入れ替わりに、その場を立ち去った。その後、小柄な男性は尋を車で送り届け、別れ際に包みを手渡した。当初、尋はその包みを例の闇カジノがある黒い建物に持っていったが、
「こんな所に来るんじゃ無え。」
と、白いスーツの男性に窘められ、以後は自分の部屋に保管するようになった。そして、不定期に連絡が入ってから、彼がまとめて取りに来るようになった。そんなあるとき、彼がいつものように包みを取りに来た際、
「親からの仕送りは十分なのか?。」
と尋にたずねた。
「はい。一応。」
「そうか。ところで、最近、遊んでるか?。」
「いえ・・。」
男性の質問に、尋はそう答えた。
「お前、賭博と色呆けしか無えのか?。しょうが無えなあ。」
そういうと、男性は財布から結構な紙幣を取り出し、
「これで、どっかいって遊んで来い。」
そういって、尋のシャツの胸ポケットに、その紙幣を二つ折りにして突っ込んだ。
「遊ぶって、一体、何処へ?。」
「馬鹿野郎!。てめえ、男だろ。思いつくまま、好きなように遊べ。そんな顔色じゃ、逆に怪しまれちまわ。」
男性は尋の異様に青白く無表情な様子を心配した。しかし、尋はそんなお金を受け取りたくないというのでは無く、今、自身が置かれている状況が限度を超えて刺激的だったため、他にすることなど全く思いつかなかった。そして、この頃にはもう、尋は指示された作業に対して罪悪感のようなものなど微塵にも感じなくなっていた。
「何でもいいから、兎に角、日に焼けろ。いいな。」
そういい残して、男性はつつみを受け取って、部屋を去った。次の日から、尋は仕方なく、大学にいったときは、こっそりと屋上に上がって日差しに顔を向けて寝転がった。その方が、誰にも会わず、何も考えず、気楽に思えた。時折、持参した缶コーヒーを飲みながら空を眺めた。上空を流れる雲よりも、自分の方が所在ない。しかし、いざ携帯が鳴った途端、状況は一変した。
「はい、尋です。」
「今日、夜9時半、迎えに行く。」
小柄の男性からだった。尋は直ぐさま教室に戻り、午後の実験を淡々と終えて、直帰するとひたすら夜が来るのを待った。その間は、何も手に付かず、早く作業に向かいたいとさえ思うようになった。そして、夜9時過ぎ、尋の携帯が鳴り、尋は近くまで迎えに来た男性の軽に乗った。そして、暫く走ると
男性が、
「今日はいつもと段取りが違うから、よく聞け。清掃員は来ない。いつものように麻酔をしたら、お前が袋詰めを行う。そして、台車に乗せて運び出したら、用意してある車に乗せて、次の場所まで運べ。」
そういいながら、今日いく病院の見取り図を見せた。尋は冷静を装いつつ、その見取り図を見た。が、しかし、内心は動揺と緊張、そして高揚感で満ちていた。
「新たな展開が見られる・・。」
尋は作業の負担よりも、好奇心が鎌首を擡げていることに気づいていた。そして、程なくして車は病院に着いた。作業にも手慣れた尋は、既に医療着に着替え、ポケットには麻酔薬とシリンジを忍ばせて、トランクに用意されていた台車を下ろし、その上に大きな袋を折りたたんで乗せた。尋と荷物を下ろすと、軽はそのまま立ち去った。そして、尋は裏口付近に別のライトバンが用意されているのを確認すると、素早く院内へ入っていった。その後、いつものように目的の人物に麻酔を施すと、その人物の横で袋を広げ、口紐を解いた。そして、その人物の手足を縛ると、どうにかこうにか体を折り曲げて袋に押し込んで口紐を縛り、両腕で抱えて台車に乗せた。
「麻酔の効いた体ほど、重たいものは無いな。」
僅かな作業だったが、尋の額には汗が滲んでいた。そして台車を押しながら部屋を出ると、そのまま真っ直ぐに裏口へ向かい、横付けにしてあったライトバンに、袋を抱えて積み込んだ。その後、車の中にあった作業着に着替えて、次の目的地まで向かった。途中、尋は運転しながら、男性がいったことを思い出していた。
「袋を乗せたら、このルート通りに目的の場所へ向かえ。絶対に道を変えるな。検問は無い。そして、着いたら袋を指示された場所まで運んで、車を置いて速やかに立ち去れ。」
急に大きな負担が尋にのし掛かったが、彼は気にしていなかった。寧ろ、今まではほんの一部しか担っていなかったのが、急に増えた作業行程に対し、幾分の期待感を込めて没頭していたからだった。
男性の言葉通りなら、今回の作業が公安にバレることは無い。しかし、やはり大きな袋を乗せたまま、万一停車でもさせられたら、全てが終わりである。尋は注意深く車を走らせた。そして、街中を抜けると、やがて車は臨海地帯に入っていった。
「海・・か。」
何かの巨大なプラントのライトが周囲を煌々と照らしていた。そして、その足元付近に伸びる埠頭だけが、何故か妙に寂しく静かだった。その先を車で進むと、廃墟のような倉庫跡があった。
「ここか。」
尋は車を近付けて停車した。そして、建物横辺りに南京錠の付いたドアを見つけた。
「鍵がかかっているな。」
尋は一瞬マズいとおもったが、あまり古びれていない南京錠は、鍵がかかっていなかった。尋はホッとした。ドアを開けてから車の方に戻った。そして、台車を出して、次に抱えるようにして大きな袋を乗せると、再び重たそうに台車を転がしながら、ドアの方まで進んでいった。中は真っ暗だったが、開いたドアの背中越しに、プラントのライトが差して内部が薄らと見えた。殆ど何も無かったが、人が一人乗れるぐらいの机が置かれていた。尋はその足元とに袋を転がすようにして落とした。
「ドサッ!。」
中からは特に何も聞こえなかった。麻酔は十分に効いているようだった。尋は机の上に目を遣り、指でサッと撫でた。指先には埃は付かなかった。南京錠といい、この机といい、ごく最近も誰かが使っているのが窺い知れた。そして尋は、
「誰が?。何を?。」
と、速やかに立ち去ることを指示されていたが、咄嗟に興味が噴出した。薄々は気づいていたが、自身が関わっている一連の行為は、恐らくはかなりの犯罪行為だろう。だが、それが一体どの程度のものなのか、そして、自分の次にはどのようなことを行っているのか。罪悪感から自身を否定しまいと脳裏から忘れ去るか、それとも、いっそのこと興味本位に自身を委ねようか。尋は束の間、葛藤した。しかし、結論は極めて必然的だった。悪魔のささやきのように。尋は台車を車の中に仕舞うと再び倉庫に戻り、ドアを開けて丁寧に周りを見回した。すると、僅かに放置された荷物と、フォークリフト用のパレットが何段か積んであるのを見つけた。尋はこちら側からその辺りを凝視し、隙間から向こうの様子が見えないかどうかを確認した。そして今度はパレットの反対側に回り、隙間から机の置いてある付近を丹念に眺めた。
「向こうから気づかれずに、こちらから様子が窺える。」
尋は確信した。そして、尋はパレットと荷物の後ろに隠れて、携帯の電源を切った。ふと横を見ると、荷物の上には、持って来たものと同じ袋が空の状態で無造作に置かれていた。尋はそれを取り、足元に敷いた。これでコンクリートの上にある砂を踏むような微細な音も防げる。尋は全てに念を入れて、息を殺しながら次の出来事が始まるのをひたすら待った。気の遠くなる程の時間、尋は待った。すると、突然、
「ギーッ。」
ドアの開く音がしたかと思うと、小さなカバンを右手に持ち、肩にはクーラーボックスをかけた大柄の人物が倉庫に現れた。男性はドアを閉めると、カバンから小さなライトを取りだして点灯させた。丸顔に無機質に輝く目だけがギラギラしていた。そして次に手術道具のようなものを取り出して、机の端に広げた。それから、袋の口紐を解いて、中から軽々と人を取り出した。そうするが早いか、丸顔の男は如何にも手慣れた雰囲気で手足の紐を解くと、代わる代わる道具を持っては作業に没頭した。顔色一つ変えず、瞬きすらしなかった。赤い手元とは逆に、ライトに照らされて青白く浮かぶ男の表情は、異様そのものであった。あまりの光景に尋は驚愕しつつ、しかし、いつしかその作業に見入っていた。頭の中では、自身がこれまでにした行為が何に加担したのかを突きつけられ、その惨劇に嘔吐する姿も想像は出来た。が、そうはならなかった。
「一人の人間が、事もなげに解体されていく。それを行うのも人間・・。」
尋はそう頭の中で呟いた。しかし、
「人間?。これが・・か?。」
全く初めて見る光景に、思考など何処かへいってしまっていた尋だったが、こんなことを淡々と行える、そんなものを果たして人間と呼べるのだろうか。形こそ人の姿をしているが、その内側に、罪悪感や感情といったものが果たして宿っているんだろうか。尋は今までとは違う心臓の高鳴りを覚えた。その鼓動に耳を傾けつつ、ひょっとして、それが向こうに漏れ聞こえはしないだろうかと、急に心配になり、両腕で胸元を抱えるようにしながら、なおいっそう息を殺した。目の前の光景は凝視しながら。ものの三十分ほどで作業は終わった。幾つかの部分は丁寧にクーラーボックスに入れられた。そして、それ以外のものを片づけると、男は机を丁寧に拭き、ライトを消して倉庫を去った。それが、尋が神を見た最初だった。
存在を消すことにのみ集中していた尋だったが、真っ暗になった倉庫に人の気配が無いことを認識し、ようやく、身を潜める呪縛から解放された。と、途端に、
「うっ。」
尋は倉庫中に漂う匂いに気づいた。嗅いだことの無い、血生臭い匂いだった。学生実験で、彼は検体に触れたことはあった。しかしそれは、生などとはほど遠い、ホルマリンで固定された塊に過ぎなかった。あの、ツンと鼻を刺すような匂いも我慢ならなかったが、今漂っているこれは、それとは全く異なる。つい今し方まで生きていた者の匂いであった。
「これが、オレがしてきたことか。」
尋は途端に震えだした。鼓動は激しくなる一方だったが、逆に皮膚は冷たく感じた。自身に罪悪感が訪れる前兆であると、尋は認識した。
「このままでは、飲まれてしまう・・。」
と、尋は、真っ当な人間なら感じるであろう感覚の経路とは別の、何とも冷静な自分がもう一人、体内にいるように感じた。そして、恐れおののく自身の姿を客観視しつつ、
「人として震えるのは当然だろう。今し方まで生きていた人間が、目の前で殺められたのだから。」
そのような言葉が頭の中に自然と湧いて出た。そして同時に、その光景に見入って動かなかった自身を振り返った。あの静寂は、一体何だったのかと。
「興味・・か?。」
尋は罪悪感の所在を確認しようとした。凄惨な光景と残り香に嘔吐するなら、とっくにしていたはずである。しかし、この落ち着きは何だ。
「ひょっとして、オレもあんな風になろうとしているのか?。」
あの無機質でガラス細工のような瞳の、あんな風に、自分も見えているのかも知れない。この先も、こんな風に作業に携わるのであれば、寧ろその方が都合はいいだろう。しかし、それは同時に、人の心を失うということでもある。尋は直感的に躊躇した。
「もし、このまま、オレも取り込まれてしまうのであれば、それも仕方ないだろう。それが運命なのかも知れない。しかし、そこには先が無い。」
生への渇望とか、そういうことでは無かった。ただ、このまま自身も無機物が如く、存在しなかった海底の岩の如く帰することに違和感があった。
「機械的に人を捌く。それは人では無く、機械・・。」
それならば、せめて岩牡蠣のように、岩にへばり付いてでも生を全うする方が、生き物として然るべき姿では無いのかと。しかし、今、急にはこの状況は変えられない。このまま何処かへ逃げ去ろうとも、恐らくは捉えられて、自身も同じ目に遭わされるであろう。ならば、このまま従順なふりをしつつ、変化を生じさせる必要がある。そう尋は感じた。そのためには、
「無機質なる者に、再び罪悪感を取り戻すことが出来れば、オレも元に戻れるかも知れない。いや、例え戻れなくても、変われるかも知れない。どう変わるのか解らないが・・。」
尋はすっくと立ち上がり、静かにドアの辺りに近づいた。
「誰かいる。」
尋が乗ってきた車の所で、誰かが立ち話をしているようだった。尋はドアの隙間に耳を当てて、会話に集中した。
「ご苦労だったな。神。褒美だ。」
「ありがとう。」
一人は足早に、その場を離れていったようだった。そして、
「こっちは例のコーディネーターに。そっちは焼却に。」
聞き覚えのある声だった。あの小柄の男性のようだった。
「了解。」
もう一人の声が返事をすると、次に車のエンジン音が聞こえた。そして、タイヤがコンクリートの上の砂を踏みしめながら進む音が聞こえた。やがて、車の音は遠ざかり、辺りには再び静寂が戻った。それでも尋は、その場所を暫くは動かなかった。どれ程経っただろう。尋はようやく屈めていた姿勢を伸ばし、そっとドアを開けた。
「誰もいない。車も無い。」
そう呟くと、尋は波止場の方に歩みを進め、夜の海に揺らめくプラントの光を見つめた。そして、
「咎人・・だな。」
尋はその言葉に、自身の心の内が少しでも震えるかを再確認してみた。しかし、そこにいるのは、極めて冷静に状況を客観視する、傍目には恐らく無機質に見えるであろう男の存在だけだった。手も足も動く。息吹きもある。海を見つめて揺らめく光に、それなりの感情も抱くことが出来る。しかし、それだけだった。この上ない刺激と引き換えに、悪魔に魂を渡したのかも知れない。もし、悪魔がいるのなら。しかし、それは想像の産物。本当の悪魔は、人の姿をした人だ。擬人化すら必要無い。尋は徒歩で埠頭を離れ、街中へ消えていった。束の間の生と死の宴を終えて、倉庫は再び薄明かりに照らされながら、ひっそりと佇んでいた。
数時間後、尋の姿はとある電器屋街の路地にあった。スマホで検索しながら、尋は表向きには看板の上がっていない、小さな商店を見つけた。そこは小汚いビルの二階にあった。
「いらっしゃい。」
尋がドアを潜ると、小さな店の奥からカウンター越しに店主らしき男性が声をかけてきた。店内にはジャンク品が堆く積まれていて、大人一人が縦向きに進むのがやっとだった。
「あの、小さいマイクロフォンが欲しいんです。」
尋は店主に顔を近付けて、小声で伝えた。
「ふむ。盗聴かね?。」
店主がたずねると、尋は黙って頷いた。
「小さければ小さいほどいいです。音は20メートルほど飛ばして受信出来れば。」
「それならお安いご用だ。これなんか、どうかな?。」
そういうと、店主は座りながら後ろの引き出しを探って、小さな飴玉ほどのマイクと、ライターほどの受信機を出してきた。
「こいつを忍ばせて、こっちで受信すれば50メートルほどは音が拾える。」
「解りました。では、これを。」
そういうと、尋は店主のいう通りの値段でそれを購入した。すると、
「マイクは回収せんのじゃろ?。じゃあ・・、」
そういうと、店主はあと二つばかしマイクを手渡した。
「それはサービスじゃ。」
「すみません。」
それらをポケットに仕舞うと、尋は足早に店舗を立ち去った。そして、表通りに出ると、雑踏に紛れて真っ直ぐと進んだ。そして暫く歩くと、尋は公園に着いた。植え込みやベンチの辺りには、間を開けて等間隔でカップル達が愛を囁き合っていた。尋は何気に彼らを眺めながら、比較的話をしているカップを見つけた。そして、その近くを通り過ぎるようにしながら、気づかれずにマイクを置いて立ち去った。そして、円形状の植え込みの反対側に腰を掛けると、受信機をスマホに繋ぎ、イヤホンで音楽を聴く振りをしながら、マイクで拾われている音声を確かめた。
「ザーッ。」
初めは雑音しか聞こえなかったが、受信機とアプリを調節してノイズを取り去った。
「ご主人に、ボクのこと、気づかれてないかな?。」
「大丈夫よ。何今さらビビってんのさ。」
声は鮮明に拾われていた。尋は流れて来る音声に少し驚いた。見た目にも、かなり若そうなカップルだったが、女性はどうやら人妻らしかった。
「やれやれ、性能を確かめるだけのつもりが・・。」
尋はすぐに立ち去るつもりだったが、悪戯半分で彼らの会話を聞き続けた。
「アタシはアナタと一緒になりたいの。本気よ。」
「ボクもさ。でも、ご主人は別れてくれないだろう・・。」
「普通なら、ね。でも、向こうにその気が無くっても、突然いなくなるってことも、あるんじゃない?。」
尋の眉間に皺が入った。
「何考えてるんだ?。この女・・。」
そう頭の中で呟きながら、イヤホンに集中した。
「いなくなるって、一体・・?。」
「あの人、持病があるでしょ?。つまり、いつ天に召されてもおかしくない状況よ。それが少しぐらい早まったって不思議じゃないでしょ。」
その後の無音に、尋は男性の唖然とした顔が容易に想像出来た。恐らく、口も開いているだろうと。
「やれやれ。」
溜息混じりにそういうと、尋はイヤホンを外し、植え込みの反対側に向かった。そして、先ほどのカップルの横にわざと座って、マイクを回収した。その様子を見て、カップルは不審そうにしながらその場を立ち去った。男性は一切ふり向かなかったが、女性は去り際に尋の顔をチラッと見た。
「幼妻にして、何とも大胆な・・。」
尋も見ると話に彼女の顔が見えた。そして、首を横に振りながら夜空を仰いだ。自身が人の生死に携わってしまっている身。これ以上、他所様の厄介ごとに首を突っ込むのは真っ平だといわんばかであった。
「それにしても、よく聞こえるなあ。」
そういいながら、尋は回収したマイクを指で摘まみながらしげしげと眺めた。そして、次の指示が下った際に、計画を実行しようと考えた。
「麻酔の量は何とでも調節は利く。問題は、今度の指示が前回と同じく、自分が袋を運ぶことが出来るかどうか・・だな。」
死者は語らない。麻酔の効いた人間も同様だ。だが、もし、死の間際に命乞いをされたら、それでもあいつは、神は、作業を続けられるのだろうか。ほんの僅かにでも人の心が宿っていれば、指示の遂行に支障を来すかも知れない。尋はそう考えた。もしそうなれば、尋は自身にも危険が及ぶことは十分解っていた。しかし、このまま人の処理を担う手伝いをしていても、状況は同じである。同じく危険であるならば、
「オレはやはり、岩牡蠣に・・。」
尋は自身の気持ちに変わりが無いことを再確認すると、立ち上がって帰路に就いた。その途中、尋の携帯に着信が入った。
「もしもし、尋です。」
「オレだ。今、何処にいる?。」
白いスーツの男性からだった。
「帰るところです。」
「そうか。じゃあ後でな。包みを取りにいく。」
「はい。でも、今日の分はまだ貰ってませんが。」
「お前、今日、仕事だったのか?。」
「はい。」
尋は意外だった。男性は尋が今日、作業をしたことを知らなかった。しかし、男性と彼らとは依頼をする側と受ける側。互いのスケジュールを把握していないのも当然である。ましてや彼らは、動きを察知されてはならない立場。そして今や、自身もその一員として動いている。
「オレの存在も、希薄になっている・・。」
尋は、青白い手の甲を見つめながら、そう思った。
タクシーを拾って部屋まで戻ると、アパートの近くに赤いスポーツカーが止まっていた。尋が支払いを済ませて部屋に戻ろうとすると、スポーツカーのドアが開き、白いスーツの男性が下りてきた。
「よう。相変わらず青白いな。」
そういうと、男性は尋に近づいて肩に手を回した。
「はい、すみません。」
二人はそのまま二階へいき、男性は尋の部屋に上がり込んだ。
「今はこれ一つです。今日の分はまだ貰ってません。」
そういいながら、尋は引き出しの奥に仕舞ってある包みを男性に渡した。
「そうか。段取りが変わったんか。珍しいな。」
男性は尋が作業終わりに報酬を受け取る手はずしか把握していなかった。ましてや、尋が麻酔の作業以外に、袋を運ぶ作業もやったことなど知る由も無かった。男性は包みを開けて中身を確かめると、上着の内ポケットに仕舞い込んだ。
「飯、食ったか?。」
「いえ。まだです。」
「じゃあ、今からいくか。」
そういうと、男性は尋を連れ出した。そして、スポーツカーの助手席に乗せて、車は発進した。夜の街を走り抜けて、車はさらに煌びやかな高層ビル街に入っていった。
「その様子じゃ、ろくなもん食って無えようだな。」
男性は全く日に焼けず、覇気の無い尋を見ながら呟いた。尋は自分なりには気をつけた食事は取っているつもりだったが、学生の一人暮らしで、しかも普通の日常では無くなってしまって以降、そう指摘されても仕方ないと思った。やがて車はとあるビルの地下駐車場に入っていった。そして車を止めると、男性は尋を連れ立って、地下からエレベーターに乗った。そして男性は最上階のボタンを押した。尋は文字盤を眺めていた。高速のエレベーターは直ぐさま最上階についた。ドアが開くと、赤い絨毯がひろがっていて、その先には大きな木戸が開かれていた。中からウエイターらしき男性が現れて、
「いらっしゃいませ。」
と挨拶をした。そして、二人を中へ誘った。何組かの客がいたが、その間を通り抜け、二人は窓際の席に案内された。
「高いな・・。」
尋は夜の街を遥か下に見下ろしながら呟いた。
「お前、好き嫌いはあるか?。」
「え?。いえ。無いです。」
「そうか。それがいい。」
男性はそういうと、スマホをマナーモードにして、テーブルの上に置いた。尋も同じようにスマホを置いた。程なくして、ウエイターが現れ、メニューを持って来た。男性は指で数品を差すと、
「飲むか?。」
と尋にたずねた。
「いえ、ボク、飲めないんです。」
男性は眉間に皺を寄せた。情けないなといわんばかりの表情であった。そして、食事だけを持って来るようにウエイターに伝えた。その後、男性は黙ってスマホに目を落としながら何かをチェックしているようであったが、
「いいか。お前が置かれてる状況がどんなもんか、お前が一番解ってるはずだ。だが、その有様でも何とかやれてるのは、気が張ってるからだ。ちゃんとしたもん食わねえと、そのうちミスもしでかす。傍目におかしいと気づかれるのも時間の問題だ。」
男性はそういって尋を諭した。体を気遣っているというよりは、尋の行動如何によっては、周りを危うくしかねないという、彼ら独特の警戒感のように思われた。尋は自身の白い手の甲を見つめて、男性の指摘がそのような感覚からなされていることを再認識した。そうこうしているうちに、二人の目の前に酢酸の料理が運ばれてきた。肉、魚、野菜、そして大盛りの白米。コース料理が出されるような雰囲気の店ではあったが、男性が一度に全部を持って来させたようだった。
「遠慮せず、どんどん食え。」
そういうと、男性は片っ端から食べ出した。ナイフは最低限切る程度に使い、後は全て箸で食べ出した。尋は一瞬、呆気に取られたが、住む世界が異なると、自分達が見慣れている食事でさえ、こんな風になるのかと痛感した。これが漢(おとこ)達の生き様なのかと。
「いただきます。」
尋はそういうと、彼と同じく、片っ端から食べ出した。素材と技術に工夫を凝らしたであろうそのメニューは、二人の前にあっては、ただのエネルギー源に過ぎなかった。男性は尋のペースを見て、
「ほら、もっと食え。」
そういいながら、尋の皿にどんどん料理を盛った。尋はその量に圧倒されたが、これは断ってはいけない、いわば儀式のようなものだと直感した。
「はい。」
口いっぱいに頬張りながら、尋は皿に盛られた食事を必死で平らげた。
「うん、いい食いっぷりだ。」
男性は涼しげな目元で尋を眺めた。どうにかこうにか、尋は出された料理を平らげた。すると男性は、
「まだいけるか?。」
と、残酷にいった。尋は動くのも億劫だといわんばかりに、首を横に振った。
「はは。冗談だ。甘い物はいけるか?。」
「はい。」
そういうと、男性はウエイターを呼び、果物を持って来させた。
「妙な菓子はやめとけ。果物の糖分は、すぐにエネルギーになる。何より、冴えが続く。」
男性はそういいながら、小さなフォークで次から次にカットされた果物を口に運んだ。
「はい。」
尋も彼にならって同じように果物を口に運んだ。この時点になって、尋はようやく生きた心地が戻った気がした。
感情が冷静さを取り戻すと、いつものあの痺れたような感覚では無い、常識的な自分が蘇った。これまでに何回か行った作業と、その都度彼に手渡した包み。恐らくは、もう既に自身が作った負債のペイは終わっているだろう。もし、そうでなくとも、あと少しで終わるはずだと。しかし、尋は決してそのことをたずねなかった。どうせ、利息が膨らんで返済はまだまだなとど、足止めを食らう可能性も十分に感じてはいた。そう易々と抜け出せるような状況では無い、自身が置かれた立場。当初はそのことに絶望的になることもあったが、それもすぐに消えた。事実、普通の学生一人がこんな短期間に稼ぐことの出来ない報酬が、作業の度に得られている。そして何より、自身の人生において、こんな経験が訪れようとは、夢にも思ってはいなかった。例えそれが悪夢であったとしても。二人は締めのコーヒーを飲みながら、束の間寛いだ。食らうことも作業ではあったからだった。
「鱈腹食ったか?。」
「はい。」
「じゃ、いくぞ。」
そういうと、二人は席を立った。他の客の間を抜けながら歩みを進めると、この段になって、周囲は二人に目を遣った。上品にコース料理や高級なワインを頂いている人達にも、彼らの食いっぷりは余程異様に写ったのだろう。男性は支払いを済ませ、二人はエレベーターに乗って駐車場まで下りた。後から乗った尋が地下に着いた際、先に下りようとした。
「待て。」
男性は後ろから尋の肩を掴み、制止した。
「いいか。決してドアの前に立つな。ボタンの前に立って、ドアが開いたらそっと外の様子を窺え。誰もいなかったら、壁を背にしながら進め。忘れるな。」
男性は鋭い目つきで尋に忠告した。
「解りました。」
尋はあらためて、返済の目途を話せるような状況では無いことを痛感した。彼らの仲間に加わったつもりも毛頭無かったが、もはやいっても始まらない、そういうことだと。男性は尋より先に歩きながら、注意深く、車の所までいった。
「昔はエンジンルームやトランクまで開けたもんさ。場合によっちゃ、車体の下に潜って調べたりもした。地下駐車場が一番危ねえんだ。」
「今は?。」
尋は叱り飛ばされると思ったが、敢えてたずねてみた。
「そんな大それたことをやるヤツはいなくなった。騒ぎがデカけりゃデカいだけ、芋蔓式に、上まで引っ張られちまうからな。そういう時代だ。」
男性は尋の質問に答えた。そして、二人は車に乗った。男性は深呼吸をすると、キリッとした顔をしてエンジンを掛け、駐車場を出た。暫く走ると、彼は窓を少し開け、煙草を吸い始めた。出来るだけ車内に煙が立ちこめないように、男性は窓の隙間から煙を燻らせた。そして、
「成りは潜めるようになったが、人が欲して止まないものは、昔も今も変わりは無え。そのために俺達がいるし、今じゃ俺達が出来ないことのために、お前を使うヤツらがいる。アングラにな。立場は違えど、気を抜いたら終わりだ。」
そういいながら、男性はまた煙を燻らせた。尋は何故彼が自分のことを気遣うのか、ようやく解ったような気がした。そして、車は尋のアパートの近くまで来ると、尋を下ろして走り去った。部屋に戻ると、彼は購入したマイクと受信機を取りだした。そして、時計用の小さな工具でこじ開けると、内部の構造をよく観察して、チューンアップを図った。そして、バラしたパーツを元に戻して、それらをスマホに繋いでから感度を確かめた。公園ではノイズが気になったが、今はマイクの置かれた周辺から流れる音声のみが聞こえた。
「これでよし。」
次に彼はラッカーと皿を取りだし、皿の上に吹き付けた。そして、マイクの光沢をラッカーで消した。それはまるで検体を入れる袋と同じ色であった。そうやって、全てのマイクに塗装を施すと袋に詰め、床板の一枚を剥がして袋ごとその下に仕舞い込んだ。それを再び床板で覆って、凹凸が生じないように丁寧に床を手で叩きながらならした。そして、その上を何度も手の平でさすりながら、違和感が無いことを確認した。尋は、今日の食事のことを思い出していた。豪快に食べていたようで、片時たりと注意を怠らない、あの隙の無さ。そんな彼が、毎回包みを取りにやって来る。些細な部屋の異変など、あっという間に気づかれてしまうかも知れない。
「気を抜いたら終わり・・か。」
そういいながら、尋は最後に床を手でひと撫でして床に就いた。ここ最近では感じたことの無い、漲ったものが込み上げてきて寝付けなかったが、ストイックな生活に自信を埋没させるべく、尋はひたすら目を閉じた。何かを待ち望んでいたのか、夜が長く感じられた。そして、空が白みだした頃、尋は眠りに落ちた。
それ以降、作業に関する連絡は特になかった。時折、大学の友人が連絡をしてくることはあったが、尋はかけ直さなかった。学校には真面目に通っていたし、周囲に顔を見られているだけで十分だと尋は思った。そんなことよりも、次に作業の連絡が来るのを無意識に待ち望んでいる自分がいることを、彼は否定しなかった。授業や学生実験が終わると、尋は直帰した。そして、毎晩、入念にマイクと受信機をチェックしては、丁寧に床下に仕舞い込んだ。それから何日かしたある日、部屋に帰って寛いでいると、尋の携帯が鳴った。
「はい、尋です。」
「私だ。今日夜10時、迎えにいく。」
「解りました。」
声の主は前回と同じく、小柄な男性からだった。尋は淡々と受け答えをするように努めた。そして、通話を終えると、
「いよいよ・・か。」
と、高揚感を押し殺すように自身の感覚を確かめた。それでもまだ高鳴りは収まらなかった。尋は仰向けになって天井を見つめた。そして、袋にマイクを忍ばせてから身を隠して音を受信するまでの行程を何度も何度も頭の中でシミュレーションした。無駄な所作が完璧になくなるぐらいに。やがて辺りは暗くなり、10時が近づいた。尋は部屋を出て、迎えの車を待った。そして、前回と同じように小柄の男性がやって来て、尋を車に乗せて発進した。
「今日も前回と同じく、お前が袋を運ぶ段取りだ。それ以外の変更は無い。これが見取り図だ。」
そういって、彼はいつものように各階の印刷された紙を受け取ると、入り口から作業を終えて戻って来るまでの時間を想定した。毎回、いく病院は違っていたが、ほぼ全ての段取りは同じであった。作業のことに集中するようになるほど、車内の会話は無くなっていった。だが、今日は違う。いや、作業の工程に何ら変化は無い。この後の行いが異なる。尋はそのことを悟られまいと、普段の様子を保った。小一時間ほど走った所に、今回の病院はあった。尋は既に車内で医療着に着替えていた。小柄の男は、腕時計も見なくなっていた。男性は車を裏口近くに横付けになると、尋と台車を下ろして立ち去った。そして、尋は台車に折りたたんだ袋を載せて院内へ入っていった。そして、誰もいないのを確認しながら、目的の部屋へ向かった。そしてドアを開けて入ると、内側から鍵を掛けて麻酔の準備をした。薬剤をシリンジに入れるまでは流れるように行われた。そして、いざベッドに横たわる人物を見たとき、尋は息を呑んだ。
「女性だ!。」
今までは全て、中年から初老の男性であったのが、今回は若い女性だった。それでも、作業に何の変更点も伝えられてなかった尋は、その後は淡々と注射をしてから手足を縛り、女性を袋に詰めようとした。しかし、尋はあることに気がついた。
「この匂い、どこかで嗅いだことのあるような・・。」
そして、尋は再び女性の顔を見た。
「間違いない。例の若妻・・。」
一瞬、尋の手が止まった。今までは、何の情報も無いまま、ただただ指示通りに麻酔をするだけの機械作業だったのが、今回は違う。つい先日、尋がマイクの性能を試すべく、公園で盗聴していたときの、あの女性であった。会話の内容に嫌気が差し、素早くマイクを回収しにいった際に嗅いだ、あの香りだった。別にこの女性とは縁も所縁も無い。しかし、一度生の声を聞いて、側で生きて動いている姿を見た人物を、自分は手に掛けようとしている。いや、直接的にでは無いが、間違いなく加担はする。そのことに対して、些かでも躊躇の念が湧くのか、尋は数秒待ってみた。そして、
「そういうこと・・か。」
と呟くと、尋は女性を抱えて袋に詰めた。そして、用意してきたマイクを袋の中に忍ばせて、袋を紐で綴じた。彼は、何故、女性がこのような目に遭うのかを想像した。恐らくは自身の恋を全うさせるために、よからぬ画策をしていたのだろう。そして、そのことが、一枚上手であろうご主人に悟られて、こんな羽目になったのであろうと。
「因果応報・・。」
尋はそう思いながら、袋を台車の上に乗せて、もと来た入り口まで運んだ。そして、やはり用意されてあった別の車に台車と袋を積み込むと作業着に着替えて、例の埠頭まで向かった。やがて尋の運転する車が例の倉庫に到着すると、彼は車から降りた。そして、医療着のポケットから薬剤の残っているシリンジを取りだし、キャップを開けて中身を地面に捨てた。そして再びキャップをし、元のポケットに戻した。そして、倉庫の入り口付近まで袋を乗せた台車と共に進み、南京錠に鍵がかかっていないのを確認すると、それを外した。そして、女性を詰めた袋を机の上に置くと、この前と同じようにパレットの後ろに身を潜めて、受信機とイヤホンを携帯を接続し、音が十分に拾われているのを確認した。そして、尋は倉庫の片隅にあるシートを見つけて、それを被った。機器類の微かな光が外に漏れ出さないように。このとき、尋は一瞬危惧した。
「あの男、時間通りに来るのか?。」
いつもより短時間で目が覚める程度の麻酔しかかけていなかったが、この後のタイムテーブルは全く知らされていない。彼は前回と同じ時間で想定していた。誤算だったかと焦ったそのとき、
「ギーッ。」
と、ドアの開く音がした。
例の丸顔の男が右手に小さなカバンを持ち、肩にクーラーボックスをかけて現れた。そして、ドアを閉めるとまるで計ったように、前回と全く同じ所作を始めた。机の上に道具を並べ、袋の紐を解いて女性を取りだした。
「ん、んん・・。」
と、女性が呻き声を上げた。男はビックリした様子で作業を止めた。そして女性を凝視した。ガラス玉の眼がさらに大きく見開かれていた。
「ん?、アナタ、誰?。」
女性はまだ麻酔が効いているのかして、虚ろな声ではあったが、ただならぬ状況を察したようだった。そして、目の前の男に思わずたずねた。男は金縛りにでも遭ったかのように女性を見つめながら立ち尽くしていたが、やがて、
「・・な、何で?。」
そう、吐息混じりに喋った。
「何でって、聞いてるのはこっちよ。アナタ、誰なの?。」
女性は次第に意識を取り戻していった。そして、語気を強めながら男に詰問した。
「あの、ボク、神って呼ばれてます。」
「かみ?。そのかみが、アタシに一体何の用なの?。」
男は益々困り果てた。すると、女性は自分が拘束されているのに気づき、
「アタシに何をするつもり?。いいなさいよ。」
と、恐怖するどころか、一方的に男を責めだした。すると、男はモジモジしながら答えた。
「作業。指示通りの。」
「作業って何?。」
「作業って、作業・・。」
「訳が分からないわね。いいからこれ、ほどきなさいよ!。」
「でも、それは作業に無いから。」
「アナタ、何?。バカなの?。」
業を煮やした女性は、思わず吐き捨てた。それをイヤホン越しに聞いた尋は、
「嗚呼、自分で死を呼び込んだか。これじゃ聞くまでも無かったな・・。」
そう頭の中で呟いた。男が逆上して、直ぐさま女性を殺めるのは時間の問題と思った。ところが、
「うーん。解んない。でも、作業は作業だから。」
そういいながら、男は女性から浴びせられた言葉をものともせず、彼女が覚醒した状態のまま作業に取り掛かろうとした。流石に彼女も、男の異様さに恐怖したらしく、
「待って。お願い。アタシの話を聞いて。ね。」
もう懇願しても無理だろうと、尋はイヤホンを外そうとしたそのとき、
「どんな話?。」
男が食いついた。どうやら、作業の遂行よりも自身の興味を優先する思考回路、いや、感情は持ち合わせているようだった。
「アタシが何故こんな目に遭ってるのかは解らない。でも、人から恨まれるような覚えは無いかっていわれたら、そうでも無い。アタシが覚えているのは、物心ついたときから、いつも親に折檻されていることだけ。毎日痛くて泣き叫んでたけど、そのうち、何にも感じなくなった。今叩かれているのは、アタシじゃ無い。アタシの入れ物。ホントのアタシは別の所にいる。そう思うように努めた。」
男は小さな椅子に座って、ガラス玉の眼で女性の話に聞き入った。尋もイヤホン越しに、
「何とも過酷な・・。」
と思いつつ、話に聞き入った。
「そして、どんな風にすれば叩かれずに済むかが解ると、親の折檻スイッチが入らないようにした。幸い、要領がよかったから、以後、手を上げられることはなくなったの。でも、アタシの感情は既に壊れ始めていたのかも知れない。こんな家、早く抜け出そうと、必死に頑張って卒業と同時に独立して家を出たの。それで解放されたと思ったんだけど、アタシの中の復讐心は消えなかった。若い女性が手っ取り早く稼ぐには、方法はそんなには無い。だからアタシは夜の街に身を窶して、兎に角稼いだ。そして、贅沢をせずに稼いだお金は全て貯めた。そんなあるとき、一人の客と懇ろになって、ついアタシの過去を、本音を喋ったの。そしたら、その客が、アタシの望みを叶えてあげたよって。後で解ったことだけど、アタシの親がいなくなってた。この世から。」
男は女性を凝視し続けた。尋も、思わぬ物語に身を乗り出していた。
「実家とは音信不通になって何年も経ってたから、特に何も感じなかった。でも、その数日後、アタシの口座にもの凄い大金が振り込まれてたの。どうやって調べたのか解らないけど、親が保険金を掛けていたらしくって、それがアタシの所に振り込まれていた。流石に動揺した。だって、この世に親の愛情なんて存在しないって思って生きてきたのに、いきなりこれは無いよねって。アタシが余計なことを喋らなかったら、こんな風にはならなかったかも知れない。でも、時間は戻せない。アタシはその客に、一体何をしたのかたずねた。そしたら、キミは知らない方がいいって、はぐらかされた。だからアタシは興信所に頼んで、何が起きたか調査してもらった。すると後日、小さな新聞記事を手渡されて、そこには車の事故が載っていたの。ブレーキの効かなくなった車が壁に激突して、乗っていた人物が死亡したって。そして、その客は車の整備士だった。」
男の表情は、好奇に満ちていた。尋も口元を押さえながら何かを想像していた。
女性は続けた。
「このことを客に問い詰めようと、初めは思った。しかし、次第に解ったの。責めるべきは彼では無く、自分なんだって。アタシは手を下すように依頼はしていない。そんな意図も無かった。しかし、結果はアタシが暗に望んでいたものになった。ならば、誰を責めても始まらない。心が揺らいで生きるよりも、強く、したたかに生きようと。幸い、アタシは自身の体から魂を別の所に抜け出させて、俯瞰することが出来た。幼い頃の虐待が、こんな風に役に立つなんて、何とも皮肉なものよね。」
極限状況にあるはずの彼女の声は、次第に落ち着いたトーンに変わっていった。いや、寧ろ、神話でも語るかのような必然性を帯び始めていた。
「アタシの稼ぎは夜の仕事。普通の人よりは随分と貰ってた。でも、保険金ほど率のいい儲けは無い。人一人から、莫大な利益が得られる。それからというもの、めぼしい客と懇ろになって、保険を掛けてから彼が始末をする、そんな風にして大儲けしていった。受取人の口座も別の客にしておいたから、足取りは掴まれなかった。」
尋は一瞬、溜息を殺して天井を見つめた。
「何だか、大それたことになってきたな。これは、このまま続きを聞く間でも無く、地獄へ直行ってやつか・・。」
彼女の話を、このまま神に聞かせたところで、心変わりなど起きようはずも無いと、尋は思った。自身もイヤホンを外して、神の作業が終わるのをただただ待とうかと思った。が、しかし、神の目は殊の外輝いていた。
「それで?。」
神が口を開いた。女性は少し驚いたようだったが、彼に促されて話を続けた。
「何人かを同じ手口で始末した後、彼はヘマをやらかして、返り討ちに遭った。整備中、車の下敷きになったみたいだけど、事故じゃ無かったみたい。そりゃそうよね。そんな風に稼いでちゃ、いずれは足がつく。蛇の道は蛇っていうし。アタシも身の危険を感じて、直ぐさま行方を眩ませた。そして、絵画に逃亡し、莫大な費用をかけて顔を変えた。これで過去を清算出来る、そう思った。そして、海外のとあるリゾート地で、今の旦那に出会ったの。アタシの過去を何も知らない、優しく包み込んでくれるような、そんな男性だった。最初はね。」
そういって、女性の言葉が止まった。
「で?。」
神はその先を聞きたがった。ガラス玉の眼で。
「アタシも最初は惹かれてはいたけど、結婚を機に、彼は他所に女を作って派手に遊んぶようになった。もともと、そういう性格だったのね。アタシも愛人の一人に過ぎなかったみたい。でも、そんなの大したことなかった。アタシも次第に別の男と遊ぶようになった。そうしたら、忘れていたはずの過去が鎌首をもたげてきて、愛を感じない旦那を邪魔に思うようになった。でも、折角手にした妻の座と財産は欲しかった。だからアタシは、以前の彼のように段取りよく相手を始末出来そうな男を探した。そして見つけた。後は昔取った杵柄で、保険を掛けて段取りを組んで実行するだけ。でも、結局はこの始末。アタシもどっかでヘマをやらかしてたのかもね。相手の方が一枚上手だったのかな。」
女性は開き直ったようにいい放った。命乞いとも違う、贖罪とも違う。何なんだ、この女性はと、尋は神に対して以上に、彼女に妙な関心を抱いた。すると、
「ねえ、アタシのこと殺るように頼んだの、旦那でしょ?。」
そういって、女性は神を真っ直ぐ見つめた。神は少し戸惑いながら、
「知らない。ボク。ボクは作業するようにいわれてるだけだから・・。」
ボソッと答えた。女性は神の言葉に嘘は無いと感じたようだった。ガラスの眼は嘘すら知らないと思ったのだろう。
「作業って、これね。こういうことね。アタシも散々っぱら悪行を重ねてきたから、いつかはこうなるとは薄々は思っていたわ。でも、アナタも結局はアタシと大して変わらない、大罪人よね?。ならば、アナタを雇った金額より大幅に上回った報酬でアナタを雇うわ。それでどう?。ね。だから、この縄を解いてちょうだい。」
尋は思わず唸った。心の中で。これだけペラペラと身の上を語ったのは、そういうことだったのかと。秘密を共有させることで、神を味方に引き込もうという算段。なかなか大してと、尋は思った。ところが、
「大罪人って何?。報酬って何?。」
神は素朴にたずねた。ガラス玉の眼で。
「大罪人・・って、アタシ達のような・・。報酬って、勿論、お金で・・。」
明らかに彼女の表情に焦燥感が窺えた。
「アナタ、何にも解らないの?。ひょっとして、バカなの?。」
彼女の直球に、尋は思わず笑いそうになった。しかし、神が自身の行為に罪悪感を感じることが無いであろうことは知ってはいたが、報酬を知らないことを不思議に思った。
「そういえば、あのとき、報酬じゃ無くって、褒美っていってたな・・。」
尋は少し前の、ドアの外での会話を思い出していた。
尋はいっそう疑問に思った。神が解体の作業を行うのに何の躊躇いも無いのは解っていた。しかし、人間が何か行動を起こすときには、必ず動機がある。いや、無いとおかしい。確かに彼の行いは狂気じみた行為ではある。それでも、統率のとれたミッションを完全に行うには、狂人では無理である。彼は作業を楽しむ様子も無い。ミッション達成後の報酬も得てはいない。では、一体、何が彼をあのような行動に駆り立てているのか。尋は、神の感情が変化する糸口を掴めないまま、黙り込んだ。これでは、いくら袋の中に検体を差し出した所で、同じではないかと。やがて、女性は何もいわなくなった。その様子を尋は見ようとはしなかった。ただただ、沈黙という絶望感だけがマイクから深々と伝わってきた。
「じゃあ、いくよ。」
神はそういうと、何かを思いっきり叩くような音を立てて、作業に取り掛かった。因果応報といってしまうには、当たり前過ぎる。彼女には助かるべき余地は一片たりとも無かった。ならば、神の行為は当然の報いとしての執行にしか過ぎない。それは、この国でも行われている極刑と何ら変わりは無いではないか。いや、違う。刑を執行するのは、法に則った正しい行為である。
「正しい行為?。これがか?。」
尋は神の行いを否定してるつもりであったのが、いつの間にか、行為の正当性に加担さえしている自分に気がついた。
「いや、違う。これは明らかにおかしい行為だ。法の存在が行為の是非を決めるなどというのは、詭弁だ。みんな狂ってるんだ。」
ともすれば、元の安寧な生活など、初めから存在していないのではないかと思えてしまう。ならば、何故、神の心変わりが自身の転機にもなり得ると考えたのだろう。尋の呼吸と心拍数は一気に早くなった。嫌な汗が出て来た。
「落ち着け。絶望するなら、とうの昔にしていたはずだ。今さら追求して何になる?。何も考えるな。」
暫くして、イヤホンから聞こえてくる異様な音以外、尋の状況は落ち着いていった。やがて、前回と全く同じく、神は作業を終えて、袋とクーラーボックスに検体を仕分けた。と、そのとき、
「ギーッ。」
ドアの開く音がして、男が二人入ってきた。
「ご苦労だったな。神。ほれ、褒美だ。」
「ありがとう。」
声の主は背の低いあの男性のようだった。と、尋は全てが終わるまで息を殺してじっとしているつもりだったが、男が神に手渡した褒美が妙に気になった。尋はその衝動が、どうしても抑えられなかった。
「見よう。」
そう決めると、尋は決して悟られないようにゆっくりと、物音一つ立てずに、パレットの反対側から向こうの様子を窺った。すると、男達は袋とクーラーボックスを抱えて、そして、神は左手に小さなカバン、右手には、
「包み・・。」
尋がいつも受け取る包みと同じ袋を持っていた。
「報酬では無く、中身は褒美・・。」
その中身が報酬では無いことを、尋は既に確信していた。彼を尾行でもしなければ、中身は確認出来ない。しかし、この状況でさえ既に危険なのに、この後の彼らを追うなんてと、尋は中身を確かめることを断念した。やがて彼らは静かに倉庫から立ち去った。そして、かなり時間を空けてから、
「褒美とは、一体何だったんだろう・・。」
と考えつつ、尋も倉庫を後にした。ところが後日、その中身が何だったのかを知る機会が訪れた。
ある日の午後、大学の講義が終わって、帰ろうとしていたとき、携帯が鳴った。
「はい、尋です。」
「私だ。」
あの背の低い男性からだった。
「段取りが変わって、報酬を渡せていない。シティー公園の時計塔、解るな?。6時に其処で。」
「はい。」
尋はいわれるがままに、公園に向かった。繁華街の外れにある小さな公園だった。週末は子供やカップルで賑わうが、平日の夕暮れはひっそりとしていた。時計塔の針は5時過ぎを指していた。
「早く来すぎたかな・・。」
尋はそう思いながら、公園の周囲を散策した。すると、遠くのベンチに、誰かが背中を丸めて座っていた。何気ない光景だったが、尋は見逃さなかった。
「あっ!。」
それは、大柄で丸顔の男だった。神だった。尋は斜め後ろの角度から見ていたが、神はしきりに首を縦に上下させていた。何かを舐めているようだった。欲よく目をこらして見ると、
「キャンディー・・。」
神は、カラフルで大きなキャンディーを一心に舐めていた。そして、ベンチの脇には例の包みが無造作に置かれていた。
「褒美というのは、これのことだったのか・・。」
尋は中身を知り得た納得感と、それがあの行為の褒美になり得るのかという疑問との狭間に、脳がフリーズを起こした。そして、何事も無かったかのように、散策を続けた。何故か直感的に、そうした方がいいと尋は感じた。そして、神からかなり離れた所にある自販機で缶コーヒーを買うと、ベンチに座ってゆっくりと飲み始めた。神の方は見ずに。
やがて待ち合わせの時刻になり、一人の男性が尋に近づいて来た。例の背の低い男性だった。尋は挨拶をしようとしたが、男性はそれを拒絶するかのように、尋と男性を結ぶ直線上に包みを差し出した。
「報酬だ。二回分だ。」
尋はそれを両手で受け取り、軽く会釈した。相手の仕草に、こちらも必要以上の声を掛けないのが当然であると感じた。言葉を交わすことに、一体何の意味があるのか。そもそも、存在すらしてはならない者達に、何の関係性を見出す必要があろうか。無い。もし、どうしても何か言葉を発したいと思うのであれば、それは単に自身の好奇心だけである。そんなことをして何になる。余計な詮索は作業の妨げにしかならない。そんな風に思っていると、
「また連絡する。」
男性はクルッと向きを変えて立ち去ろうとした。そのとき、
「あの、振込では?。」
尋は何気にたずねた。大金を持ち歩く心配もあったが、彼らの意に沿うように、煩わしさを無くそうとした、尋の配慮でもあった。ところが、
「それは無い。」
そういい残して、男性は立ち去った。尋は包みを確認するふりをしながら、男性の進先を悟られないように目で追った。すると、男性は神がキャンディーを舐めている辺りにいき、
「パチン。」
と軽く指を鳴らした。すると、神はゆっくりと立ち上がって、男性の後についていった。
「やはり、そうだったか・・。」
尋は、この場に神が居合わせたことに驚きはしたが、寧ろ、男性との待ち合わせ場所が同じであったことに、咄嗟に直感が働いた。彼らは二人で来ていた。そして、自分が神を見て動揺するかどうかを確かめるかも知れないと、そう想像した。これまで、盗聴は完璧に悟られずに行えている。そのはずである。しかし、あれほどの相手に、そんな小細工が何処まで通用するか、尋には自信は無かった。
「取り敢えず、今日は凌いだかあ。」
そういうと、尋はベンチを立った。そして、自販機の横にあるゴミ箱に空き缶を捨てると、公園を後にした。包みのこともあり、尋はそのまま直帰した。部屋に戻って一服しようとしたそのとき、
「プルルル。」
尋の携帯が鳴った。
「はい、尋です。」
「オレだ。今からそっちにいく。」
「解りました。」
白いスーツの男性からだった。そして数分後、彼が部屋に現れた。
「おう。どうだ、遊んでるか?。」
「いえ。」
男性の言葉に尋が答えると、
「パチン。」
と、男性は尋の頭を平手で叩いた。
「いい若いもんが、遊べっつったろ。」
「はい。あの、今日、報酬を貰ったんですが。」
尋は話題を変えようと、さっき受け取った包みのことを切り出した。
「おお、そうなのか。」
そういうと、男性は尋から包みを二つ受け取った。男性は包みを開けて中身を確認した。
「二回分です。あの、ご存じ無かったんですか?。」
「ん?、何をだ?。」
「今日が受け渡しの日だったってことを。」
「ああ、段取りが変わったらしいからな。あいつらのことには立ち入らねえ。それが流儀だ。」
男性は中身を数え終わると、包みを内ポケットに仕舞おうとした。かなりの金額だったため、男性は手こずった。
「あの、振込じゃダメなんですかね?。」
男性は手を止めた。
「今日、あちらの人にもたずねたんですが、それは無いって。」
そういうや否や、男性は右腕を尋の首元に回し、グイと引き寄せた。
「お前、そんなこと聞いたのか?。」
ドスの利いた声で男性は尋ねた。
「あ、はい。その方が会わずに済むかなと思ったんで・・。」
気色ばむ男性の声に、尋は恐る恐る答えた。
「テメエ、熟々目出てえ野郎だなあ・・。」
そういうと、男性は呆れたようにいい放つと、尋を離した。
「いいか。口座の流れは、全て読まれる。だから、我々のような人間は決して利用はしない。覚えとけ。」
「はい。」
尋は一瞬、また殴られるかと恐怖したが、アッサリと流されて拍子抜けした。しかし、我々という言葉に、自身もそのような所まで来てしまったのかという感慨を抱いた。
「飯いくぞ。」
そういうと、男性は尋を連れ出した。そして、止めてあった赤いスポーツカーに乗り込み、街中へ疾走していった。男性に連れ出されて、尋は自身のゆく末を案じることも次第に無くなっていった。もはや案じても仕方の無いこと、成りゆきに身を任せるしかない。寧ろ、その方が余程運命とやらに沿っているとさへ感じていた。今日も車内にはジャズが流れていた。
「チェットだ。」
そういうと、男性は窓を少し開けて煙草を吸った。尋は全く解らなかったが、物悲しいトランペットの音色が、妙に心の奥底に響いた。車は街中を過ぎて、少し閑静な所までやって来た。大きな家々が立ち並ぶその辺りは、高級な住宅街のようだった。そして、洋風な館の前に着くと、黒い鉄の門が開かれた。男性はそのまま車を進めて、突き当たりで止めた。
「下りろ。」
尋はいわれるがままに車を降りた。そして、二人は大きな玄関ドアの前に来た。
男性はインターホンのボタンを押すと、
「オレだ。」
といって小さなレンズに向かって顔を見せた。すると内側からドアが開き、中から従業員らしき人物が現れた。
「いらっしゃいませ。」
「二人だ。いけるか?。」
「はい。どうぞこちらへ。」
そういうと、尋達を中へ誘った。薄暗くて落ち着いた雰囲気の店内は、全てが個室になっていた。
「こちらへ。」
そういうと、従業員は胸から下げられたパスをカメラにかざした。すると、オートロックが開かれ、鉄板とソファーが置かれてあった。
「急に来て、すまねえな。」
そういうと、男性は従業員の胸ポケットに小さく折りたたんだ札を入れた。
「すみません。では、どうぞごゆっくり。」
男性は尋をソファーに座らせ、自身もその傍らに座った。程なく、シェフと女性二人が飲み物と食材を持って現れた。シェフは鉄板に次々と食材を乗せて調理を始めた。女性達は尋と男性の隣に座り、
「どうぞ。」
といっってグラスにシャンパンを注いだ。
「遠慮はいらねえ。奢りだ。」
「はい、すみません。」
そういうと、二人は乾杯した。男性はグラスを女性にも手渡し、四人でちょっとした酒盛りが始まった。鉄板では前菜や魚介類が次々と焼かれ、部屋の中はたちまち香ばしい香りに包まれた。
「どんどんいけ。」
「はい。」
尋はゆっくりと味わおうとしたが、手が遅いのに業を煮やした男性は、尋の皿にドンドン料理をよそった。
「ははは。美味えか?。」
「はい。」
尋は口いっぱいに頬張りながら答えた。そうこうしているうちに、シェフは巨大な肉の塊を取りだし、鉄板の上に置いた。
「ジューッ!」
手際良く調味料を振りかけながら、傍らでは薄切りのニンニクがキツネ色になるまで焼いた。そして、肉の表面が焼けたところで、シェフは一気に切り分けて、切断面を焼いた。
「ジュジューッ!」
そして、焼けるが早いか、シェフは二人の皿に山盛りのステーキを置いた。
「さあ、どんどんいけ。」
男性は尋にシャンパンを注ぎながら、自身も肉にがっついた。
「いただきます。」
尋も促されるがままに肉を口に運んだ。初めこそ緊張感で味が分からなかったが、そのうち、得もいえぬ肉の旨味とニンニクの香りが口いっぱいに広がり、気がつけばすっかり平らげていた。女性達も横で食べていたが、尋はそのことが少し気になっていた。
「給仕だけなら、何もずっといなくても・・。」
そして、デザートのシャーベットが出された後、シェフは一例して退席しようとした。すると、
「ご苦労さん。美味かったぜ。」
そういうと、男性はシェフの胸ポケットに折りたたんだ札を入れた。
「有り難う御座います。」
そういうと、シェフは再び礼をいってドアを閉めた。しかし、女性達は帰らなかった。すると、ソファーの端で、男性と女性の一人が急に何やら妙な雰囲気になっていた。そして、もう一人の女性も、尋の真横に来て、尋の首元に頭を着けてきた。尋は一瞬焦ったが、
「奢りっていったろ。」
といいつつ、男性は女性を膝の上に乗せて抱き合った。尋も為す術が無いまま、女性のエスコートに身を任せた。ソファーの両端に別れて、獣が二組、ひとしきり謳歌した。尋は、見てはいけないと思いつつ、横をチラッと見た。極彩色の絵柄を纏った男性が、女性を天に誘っていた。尋も後れを取るまいと思ったが、漢を得る商売相手にかなうはずも無く、すぐに昇天した。それを見た男性は、
「ははは。だらし無えなあ。何事も修行だ。」
そういって、上機嫌になりつつ、よりいっそう激しさを増した。尋は、息も絶え絶えに、さらに挑んだ。そしてどれぐらいの時が経ったであろうか、尋はつい眠ってしまっていた。
「ピシャ、ピシャ。」
尋は軽く頬を叩かれているのに気付いた。
「おい、起きろ。いくぞ。」
男性は優しく尋を起こした。もうすっかり支度が出来ていた。尋は自身が露わな姿になっているのに気づき、慌てて服を着た。そして二人が店を出ると、赤いスポーツカーが玄関の前に用意されていた。男性は従業員に軽くあいさつをして、尋と共に車に乗り込んだ。そして、元来た道を走り抜けた。
「鱈腹食ったか?。」
「はい。すみません。」
「男は遊ばにゃ、な。」
そういって、男性は尋の方を軽くポンポンと叩いた。尋は、何故彼がここまで良くしてくれるのか不思議ではあった。報酬として受け取った金を、借金返済のためにせっせと運んで来るからなのか。いや、あれぐらいの金額では、上納金にもならないだろう。ならば、好待遇で口封じを兼ねて、自身をつなぎ止めるつもりなのか。どうたずねても、恐らくは叱られるかも知れない。しかし、このまま奢られ続けるのも、やはり気が引けた。尋は思いきって口にしてみた。
「あの・・、」
「ん?、何だ?。」
「何でこんなに良くしてもらえるのか、解らなくて・・。」
尋は次に怒声か鉄剣が飛んでくるかと身構えた。すると、男性は意外にも、ハンドルを握りながら、
「ははは。そりゃあ、オメエのことが気に入ってるからに決まってんだろうが。」
そういって、涼しい目元で前を見て答えた。尋は驚いて拍子抜けした。
車中、男性は上機嫌だった。そして、尋を部屋の近くまで送り届けると、別れ際に、
「おう、またな。」
そういって、男性は右手を挙げながら来るまで走り去った。疑念が晴れた訳では無かったが、こうも親切にされる理由が本当に解らなかった。自身のことを仲間と思ってくれているのか。そうであるならば、益々この関係から抜け出すことは難しい。いや、もう既に、自身の行為は世間一般のモラルや人間性とは随分と乖離した所にまで及んでいる。初めこそ自責の念に震える瞬間もあったが、今ではそれも、もう無い。尋は自身の感覚が無機質に傾き始めていることを感じつつも、そのことを否定しないまま過ごしていた。そんな事を考えながら、部屋に戻った尋は途端に眠りに落ちた。
翌日からも、ただただ大学に通って、学生実験や講義を受けては、人と会わずに家路に就くだけの生活だった。これまでならば、そんな単調さが消し飛ぶような作業を行うことで、奇っ怪な精神のバランスを取っていたが、ここ最近は全く連絡が無かった。それでも尋は、
「作業に差し障りの内容に、日々をストイックに過ごそう・・。」
そう決めていたので、何の変哲も無い生活を続けていた。時折、無性に作業の依頼が来ないかと懇願する自身の姿を感じることもあったが、誰かと会ったり、遊びにいったりは一切せず、たまに部屋で読書をする程度で、その日その日を過ごしていた。そんな日々が三ヶ月ほど続いたある日、帰宅して寛いでいた尋の携帯が鳴った。
「プルルルル。」
「はい、尋です。」
「ワタシだ。」
声の主は、一番最初に会った、背の高い男性だった。
「今日午後10時、迎えにいく。」
「はい。」
尋は携帯を切ると、鼓動が高鳴るのを覚えた。久々の作業だった。いつもなら、ただ単に時間が来るのをボーッと待つだけだったが、今日は違った。ともすれば、ワクワクする自分がいる。しかし尋は、
「待て。落ち着け。」
と、これから行う自身の作業を思い浮かべ、それが決して許されることでは無いと、敢えて自分に問いかけることで、テンションを下げようとした。いつもと違う雰囲気は、些細な失敗に繋がりかねない。過去の何度かの作業で、尋は感覚的にそのことを学んでいた。そして、10時が近づいた頃、
「プルルルル。」
また携帯が鳴った。
「はい、尋です。」
「ワタシだ。今、通りにいる。」
「はい。解りました。」
男性の指示で、尋は通りまで出向き、迎えの軽自動車に乗った。
「ご苦労。これが資料だ。」
そういうと、背の高い男性は尋に今日向かう病院の見取り図と顔写真が印刷された用紙を渡した。二人は無言のまま、車に揺られた。尋はこれまで通り、段取りを頭の中で確かめながら、おおよその時間を感覚的に割り出していた。
「4分丁度・・ですね。」
「そうだ。」
尋の正確な時間感覚に、男性は一瞬、尋の顔を見た。
「だが、今回もお前一人で運んで貰う。段取り通り、いつもの所に運べば、多少のタイムラグはいい。」
「はい。」
尋は先日から段取りが変わったことの理由を尋ねようかと一瞬考えたが、彼らのポリシーであろう、無駄口は一切叩かない方針に、自身も従った。そして、40分程走った所に、件の病院があった。男性は敷地には入らずに、
「代われ。ワタシは此処までだ。後はお前が段取り通りに行え。」
そういうと、車から降りて徒歩で立ち去った。尋は運転席に移動すると医療着に着替え、病院の裏口付近で車を横付けにした。そして、係の者がいないのを確かめると、担架と麻酔の用意を持って、目的の病室まで向かった。そして、静かにドアを開けて病室に入った。
「男性か・・。」
尋は、前回とは異なり、若い女性では無いことに、少しホッとした。そして、手早くシリンジに規定量に満たない麻酔を吸引すると、男性に注射した。どのくらい残せば、所定の時間より早く目覚めるかも、おおよそ解るようになっていた。そして、男性を袋に詰めて担架に乗せると、中に小さなマイクを忍ばせて、袋の口を紐で縛った。そして、元来た道を何事も無かったかのように戻り、車の後部に袋と担架を乗せると、車中で作業着に着替え、病院を立ち去った。そして、いつもの埠頭にある倉庫の所までやって来た。尋は倉庫のドアの近くで車を降りると、
「南京錠、施錠無し。」
そう確かめると、尋は袋を倉庫内に運び、この前と同じようにパレットの後ろに隠れて、神が来るのを待った。しかし、
「麻酔薬!。」
尋はシリンジに麻酔薬を残したままなのに気付いた。このままでは、処分を行った人物にバレてしまうかも知れない。今なら間に合う。車の所にいって、医療着のポケットからシリンジを取りだし、中身を捨ててしまうだけなら一分もかからないだろう。そう思って、車に向かおうとした次の瞬間、
「ギイイッ。」
ドアの開く音がした。プラントのライトを背に浴びた、丸い大柄なシルエットが地面に伸びた。神だった。
尋はもはや動くことが出来なくなった。
「仕方が無い。取り敢えずはこのままいよう。そして、機会があれば、シリンジの麻酔薬を捨てよう。もしそれも叶わないならば・・。」
そんな風に尋が考えていると、
「あれえ?。」
パレットの向こう側で、神の驚く声が響いた。尋が持ち込んだ人物が、今回も袋の中で目を覚ましたようだった。尋は仕方なく、イヤホンから流れる音声に集中した。
「お前は誰だ?。」
「えっと、ボク、神。」
「だから、お前は何者なんだ?。」
「えっと、ボクは神だから・・。」
埒のあかないやり取りに、袋の中の男性が業を煮やしたように、
「お前、こんなことをして済むとでも思ってんのか?。いいから早く此処から出せ!。」
かなりの剣幕で神に向かって叫んだ。すると、
「でも、それだと作業が出来ないから・・。」
「作業って何だ?。」
困った様子の神は、目線を机の上に並べた医療器具に遣った。袋の中の男性も同じ方向を見た。そして、
「お前、オレを殺す気か?。そうなんだな?。」
そういって、袋の中から逃れようとジタバタした。しかし、尋が結わえた縄は、簡単には解けなかった。初めこそ息巻いていた男性は、やがて、自身の置かれた状況を把握したようだった。しかし、その間、神は微動だにせず、ただただ男性を見つめていた。そして、抵抗しなくなったのを見ると、器具の所まで進み、最初の道具を手に取った。
「待て。待ってくれ。何でオレがこんな目に遭わなきゃならんのだ!。頼む。教えてくれ!。」
男性は神に懇願した。しかし、神はいつものように戸惑うばかりだった。
「話すんだ。自身についてを。」
尋は心の中で、そう呟いた。これまでに神の心を動かすことの出来た者はいなかった。しかし、この状況で唯一出来ることは、それしかない。すると、
「そういうことか。目の前にいるお前は、自分が何をしようとしているのか、理解さえしていない。そしてオレは、そんなお前にただただ殺される。これも自分で巻いた種・・か。」
男性は覚悟を決めた。いや、諦めた。すると、
「種って、芽の出る、あの種?。」
神が不思議な質問を男性に投げかけた。男性も、あまりのことに面食らったようだったが、
「お前、諺が解らないのか?。自分で巻いた種。」
と男性がいうと、
「うん。ボク、知らない。」
そういいながら、神は小さな椅子も持って来て、男性の前に座った。どうやら話を聞きたがっているようだった。そのことを察してか、男性も、
「なら、教えてやろう。自分がやったことが、巡り巡って、自分の元に返ってくる。そういっても、お前には解らないかな。ようし。なら、死出の旅にいく前に聞かせてやろう。」
男性がそういうと、神はまるでお伽噺を待つ子供のように目を輝かせた。ガラス玉の眼を。
「オレはしがない雑誌記者さ。来る日も来る日も、スクープを狙って張り込んで。で、いいネタが取れたら掲載する。それが俺達の仕事さ。被写体にとっちゃ、俺達はいい迷惑だろうさ。初めはオレも、何の気なしに成り行きでこの世界に飛び込んだ。そして気がつけば、スクープを漁っては飯の種にする。おっと、この種は、芽は出ないぜ。」
それを聞いて、尋はイヤホンを外そうとした。
「遅かれ早かれ、こいつは殺される。それがたまたま、今日だったってだけの話・・。」
尋が彼のような人間を忌避するのには理由があった。彼がまだ幼少の頃、地元に仲の良い友達がいた。いつも一緒に遊んでは、将来についての夢を語り合う、そんな気の置けない友達だった。名前を傍(ほう)といった。しかし、あるとき、尋の住む町に事件が起きた。そして、傍の父親が逮捕された。何も知らずに尋と傍が学校から帰ると、傍の家の前には黒山の人だかりが出来ていた。そして、玄関先には非常線が張られ、その内と外で警察と報道陣が押し問答をしていた。二人は呆気に取られて、その様子を眺めていたが、やがて一人の記者らしき人物が傍を見つけると、二人の前にしゃがみ込んで、
「ボク、この家の子供だよね?。お父さんがやったことについて、どう思う?。オジサンに聞かせてくれないかな?。」
そういいながら、マイクを突きつけた。それに遅れてカメラクルーが容赦無しに傍にレンズを向けた。それを見つけた方の母親が、
「子供は関係無いでしょ!。」
と、泣き叫びながら駆け寄ってきて、傍を抱きしめて顔を隠した。すると記者は、
「ボク、一言でいいから、何か聞かせてくれるかな?。」
と、執拗にマイクを向けた。尋は状況が解らないまま、しかし、得もいえぬ不快感を覚えた。そして、次の瞬間、マイクの前に立ちはだかった。すると、
「何だよ、ガキ。どけよ!。」
そういって、記者は乱暴に尋の肩を掴むと、そのまま横へ引きずり倒した。
躾と称して親や先生に手を挙げられたことはあったが、こんな理不尽な暴力を大人が振るうものなんだと、尋は酷くショックを受けた。すると、傍は母親の抱擁を自身で解いて、尋を倒した記者の元に寄ってきた。
「お、ボク。何でもいいから、オジサンに一言聞かせてくれるかな?。」
記者がそういってしゃがみ込んでマイクを近付けると、傍も一緒にしゃがみ込んだ。そして次の瞬間、
「ドコッ!。」
ともの凄い音がしたかと思うと、傍は跳ね起きて記者の口元辺りに頭突きをかました。
「はうっ。」
記者は口から血と前歯を吹きながら仰向けに倒れた。玄関口で騒然となっていた記者連中や警官も、一斉に振り返った。そして、傍の額には記者のものと思われる歯形がくっきりついていて、一部から流血していた。倒れた記者は起き上がれず、同僚達に抱えられながら車に連れ込まれていった。そして傍は少し笑みを浮かべたような表情で、
「フンフンフン、フーン♪。」
と、微かに鼻歌を歌っていた。すると、母親が駆け寄ってきて、傍の額の血を拭い去りながら、家の中に入っていった。戸が閉まる寸前、傍は尋の方を見つめて、右手の親指を立てた。次の日から、傍は学校に来なくなり、程なく転校したと、後に友人から聞かされた。尋はその光景を、今でも鮮明に覚えている。そして、何か事件の報道があった際は、極力見ないようにする癖さえついていた。
もう会話はなされず、神は作業にかかるだろうと思ったそのとき、
「あの、何でそんなことするの?。」
イヤホンから神の声が聞こえた。記者は驚いたように、
「そりゃ、お前・・、さっきもいったろ。俺達はスクープを撮るのが仕事で・・。」
と、先ほどの話を繰り返そうとした。ところが、
「だから、何でそんなことするの?。」
神は繰り返した。どうやら、記者に対して何らかの興味を持ち始めたようだった。神は椅子を前の方にずらすと、記者の方に顔を近付けた。そして、ガラス玉の眼で記者を凝視した。記者は一瞬、言葉を失ったが、何とか言葉を繋いで答えようとした。
「だ、だから、そいつらが何かしでかしたら、そのことを世間に知らせて、あっと驚かせるために・・。」
しかし、神は納得していないようだった。
「だから、何でそんなことするの?。」
尋はイヤホンの声を聞きながら、
「これは新手の拷問だな・・。」
と、心の中で呟いた。そして、次に記者から出て来るであろう言葉に聞き入った。記者も、目の前の男が本当に会話を理解しているのか半信半疑だったが、今自分に出来ることは、考え得る限りの答えをするしか無いことは解っていた。そして、記者は訥々と語り出した。
「人はな、ゴシップってものが好きなんだ。解るか?。みんな、社会のルールを守って生きている。しかし、時として人はそんなルールを犯したくなる。それでも、大抵は我慢する。でも、どいうしても我慢が出来ずに、自分の衝動に駆られて、ついやってしまう。すると、ルールを守ってる者からは、アイツだけが思うままに好き勝手やったと、そういう目で見るんだ。そういう心理は、ルールを犯す衝動以上に抑えられないもんだ。だから俺達がいる。みんなが知りたがることを根掘り葉掘り調べて聞いて、そして得たソースを記事にする。それを読むことで、世間も納得する。俺達も飯にありつける。解ったか?。」
記者がそういうと、
「だから、何でそんなことするの?。」
冷徹なオウム返しが神の口から続けられた。記者は一度は死を覚悟したが、そのときの方がまだ恐怖心はマシだった。寧ろ、今の方が計り知れない恐怖心に見舞われていた。いくら答えても、神が納得のいく答えを述べるまで、ひたすらこの拷問は続く。いっそのこと、もう殺してくれと記者は思ったが、この状況が続く間は、自身は生きていられる。記者の脳裏は極限状態に達した。
「お前、オレから一体、何を聞き出したいんだ?。ハッキリいってみろ!。」
記者は上擦った声で叫んだ。
「だから、何でそんなことするの?。」
神の質問は、いよいよ堂に入った。
「こいつは、いい。はは。」
尋も思わず笑いそうになりながら、頭の中でそう呟いた。そんなやり取りが1時間以上は続いただろうか。次第に記者も喋らなくなっていった。しかし、神は作業にはかからず、ただひたすら記者の眼前に顔を寄せて言葉を待っていた。すると、記者は絞り出すように、か細い声で、
「もう許してくれ。オレには家族もいる。オレは自身の仕事を家族にはずっと隠して来た。そして、人様を苦しめるようなことをし続けたらか、こんな目に遭ってるんだろう。恨みを買って当然だ。もう家族には会えないんだろう。だから、一思いにやってくれ。頼む・・。」
そういって、神を見た。すると、
「人が苦しむって解ってて、何でするの?。」
神は無垢な顔でたずねた。記者は恐怖と絶望で絶叫した。
「解らねえよ、解らねえ!。お前だってオレを十分に苦しめてるじゃねえか!。なのに、何でお前はこんなことをするんだ?。答えてみろよ。え、おい!。」
すると、神は少し考え始めた。
「うーん、今までは作業するだけだったんだ。でも、最近は何故か、みんな起きて、ボクと話したがるんだ。だから、お話の相手になってあげようと思って。」
神は淡々と答えた。
それにしても、いつもは話を聞いても、最後にはアッサリと作業に取り掛かる神が、今日はやけに相手を質問攻めにしている。余程、彼に興味があったのか。しかし、このままではヤツらが荷物を取りに来る。
「もう、神が心動かされるような話も出ないだろう。望み通り、一思いにやってやれよ・・。」
尋は次第に思い始めた。すると、
「お前、人を殺(や)って、何とも思わないのか?。」
記者が蚊の鳴くような声で尋ねた。
「やるって、何を?。作業のこと?。だって、作業は作業だから。」
神はやはり淡々と答えた。そして、
「キミは平気であんなことしてたの?。」
逆に記者に質問した。
「さっきもいったろ。人様から恨みを買うことも解ってたから、家族にも知られないようにしてたんだ。それぐらいのモラルは持ってるさ。」
記者は、自身が狂ってはいないことを証明しようとしたのか、それとも、これが最後かと悟ったのか、とうとう心の奥底を吐き出したようだった。すると、
「ふーん、だから、こうなったんじゃないのかな?。」
神の言葉に、記者は言葉を失った。同じく、尋もハッと息を呑んだ。
「こいつ、木偶でも馬鹿でも無えぞ!。」
尋は、何か出荷前の初期状態になったサイボーグのように、ただただ命令に従うだけの無垢な人間をたまたま手にした連中が、彼にこのような作業をさせているだけだと考えていた。しかし、彼の考えは、正に理屈であった。これまでに、イヤホンから聞こえて来た者達の言葉は、必ず最後に懺悔の色を帯びていた。それでも神は、顔色一つ変えずに彼らを黄泉に送っている。そのことを、つまり、彼らと自分、殺られる者と殺る者との間に存在する隔絶を、ヤツは知っている。だからこそ、彼は人の運命を司る神と呼ばれるのかと、尋は沈思黙考した。そして、次の展開を聞くこと無く、両耳からイヤホンを外した。
「いくよ。」
黙りこくって項垂れる記者に、神は何の躊躇も容赦も無く、道具を使い始めた。倉庫内には呻きや叫びが響いていたかも知れなかったが、今の尋には届かなかった。そこからは、神はいつものように短時間で作業を終え、クーラーバッグと袋に荷物を振り分けた。
「それにしても、今日はいつもより時間が押してるはずなのに、誰も来ないな・・。」
尋はあれほど時間に正確だった連中が、段取りを変えたり、時間にルーズになっているのが気になった。神もしばらくは誰かを待っているようだったが、そのうち、自分でクーラーバッグと袋を持って、倉庫のドアを開けた。
「ギーッ。」
神は一人、出ていった。尋はいつも通り、暫くはじっとしていたが、外に人の気配が無いと分かると、ゆっくりとドアの所にいき、隙間から外の様子を窺った。
「誰もいない。ヤツも、神もいない・・。」
恐らくは、徒歩で荷物を持ったまま、何処かへ消えたんだろう。尋はそう考えた。そして、幸いにも、彼が乗ってきた車はそのままそこにあった。
「今のうちにシリンジの麻酔を。」
そう思って、尋は車のハッチバックを開けた。
「なっ!。」
そこには、車内で荷物を枕にしてスヤスヤと眠る丸顔の大男が横たわっていた。神だった。尋は万事休すかと思ったが、神はあまりにも気持ち良さそうに眠っていた。そして、彼の背中側に、尋が脱ぎ捨てた医療着が挟まっていた。慎重に、物音を立てずに、尋はそっと車体に脚をかけ、決して揺れないように車内に乗り込み、医療着からそっとシリンジを抜き出した。そして、残っている麻酔薬を車外に噴射すると、再び医療着のポケットに戻した。そして、乗り込んだときの姿勢と真逆の動きをしながら、尋はゆっくりと下りようとした。そのとき、
「うーん。」
といって、神が寝返りを打った。尋は息を殺して微動だにしなかった。窓から差し込むプラントのライトが、神の丸い顔を青白く照らした。
「本当に、無垢な寝顔だな・・。」
そう思いながら、尋は再び車から降りようとした。
「ん?。」
尋は再び、神の顔を見た。煮抜き卵のような、無機質でツルンとした顔だったが、ライトの加減で、微かに顔の凹凸が浮かび上がった。
「額に傷・・。」
薄らと馬蹄形のような飛び飛びの傷が、神の額に刻まれていた。歯形だった。
「まさか。」
尋は目を疑った。しかし、目の前に眠る大柄の男は、尋のかつて知る人物とは、似ても似つかなかった。
「そんなはずは無い・・か。」
そう心の中で呟くと、尋は車を揺らさないように降りて、そっとハッチバックを閉めた。そして、何故かは解らなかったが、尋は彼がこのまま安らかに眠れるように祈って、その場を後にした。
「裁定の執行を担うべく、この世に使わされたのか・・。もしそうなら、正に神だな。」
尋は独り言のように呟くと、遠目に海を見つめながら歩いていった。
あの日以降、暫くは尋の元に何の連絡も無かった。相変わらず大学にいき、学生実験か、つまらない講義を受けるだけの毎日だった。そうなると当然、何らかの刺激が欲しくなる。尋はことあるごとに携帯の画面をチェックするようになった。
「今日も何も無し・・かあ。」
かつて楽しんでいたように、ゲームや読書では何の充足感も得られなくなっていた。あれほど恐ろしい目に遭い、否応無しにやらされることになった作業も、今では無意識に心待ちにしている。彼らの組織に何らかの異変でもない限り、自分でこの状況から抜け出すことは叶わない。そのような覚悟とも運命ともつかぬものに、尋はいつしか抗うことも無くなっていた。このままでは、自身が咎人として人生を終えてしまうかも知れない。いや、もう、その路線を突き進んでいることに違和感すら無くなっている。寧ろ、このまま彼らと奇妙な歩みを共にすることで、より何かを知り得るのではないか。そして、
「あの男、一体、何処から・・。」
尋の興味は、次第に神の出生に向き始めていた。あの日の晩、彼の額にある傷を見てから。そして、今日も一人、部屋でそんなことばかり考えていると、
「プルルルル。」
尋の携帯が鳴った。
「はい、尋です。」
「オレだ。」
白いスーツの男性からだった。
「飯は食ったか?。」
「いえ、まだです。」
「じゃあ、今から迎えにいく。」
尋は特に身支度もせず、いつも通りに部屋を出ると、通りの所で男性を待った。三十分程して、真っ赤なスポーツカーが現れた。そして、尋の傍らに止まるとウインドウが開き、
「乗れ。」
と、白いスーツの男性が中から声をかけた。尋はいわれるがままに車に乗り込み、車はいつものように街中へと走り出した。車内には軽快なジャズが流れていた。
「あの、」
今日は珍しく、尋が先に話し始めた。
「どうした?。」
「今回は、報酬はまだ貰ってないんですが。」
「仕事、あったのか?。」
「はい。」
男性は、今回も尋の作業については何も知らないようだった。
「そうか。まあいい。あっちにも色々と変動はあるみてーだしな。」
「変動・・ですか。」
以前のやり取りでは、彼らのことについては何も聞かないのが掟のようであったが、男性は尋と会ううちに、スタンスが変わり始めていた。
「お前、一体何時までオレに包みを渡すつもりだったんだ?。」
「え?、それは、借金を完済するまでで・・、」
「だからよ、一回の報酬がいくらで、これまでにいくら返して、あとどれぐらいで完済かぐらい、薄々検討はつくだろう?。」
意外だった。尋は何気に、この手の人間と一旦関わってしまうと、自身の意志ではどうしようも無いと思い込んでいた。加えて、今となっては額の大きさや背徳感よりも、この状態が続くことが、自身の興味を満たすこととさえ感じていたからだった。すると男性は、
「まあ、いい。無駄口を叩かないのは利口な証だ。口が硬いのも同様にだ。俺達の世界じゃ、知らなければ無かったこと。だが、一度聞いたら、それはあったこと。聞きたいか?。」
そうたずねた。尋は空かさず、
「はい。」
小さく、しかし、ハッキリと答えた。
「オレ達も、大概のことはやる。おっと、何をするかは聞くなよ。だが、餅は餅屋だ。オレ達はシノギが専門。それを超えたら、後はヤツらの仕事だ。そうやって、持ちつ持たれつでやって来た。これまではな。だが、ここへ来て、どうやら内部で何かがあったらしい。段取りが変わったのも、恐らくはそのせいだろう。」
そういうと、男性はウインドウを少し開けて、煙草を吸い始めた。そして、
「お前、何か変わったと感じたことは無えか?。あいつらによ。」
男性は尋にたずねた。
「自分の作業量は増えた感じです。具体的にはいえませんが・・。」
尋がそう答えた。
「はは。それでいい。で、他には?。」
男性は尋のはぐらかし方を気に入ったようだった。
「何か、時間に少しルーズになったような気はします。」
「本当か?。」
男性の表情が、急に険しくなった。
「そうか。そいつは、ちと厄介だな・・。」
「厄介・・ですか?。」
尋は敢えてたずねてみた。すると、男性は煙草を深く吸いながら、
「ああ。まあ、仕事を違(たが)えることは無えし、依頼はきっちりこなす。だが、こっから先は、どうだかなあ・・。」
男性は何か、ハンドルを握りながら、もの有り気な様子で考え込んだ。そして、
「お前、この先、どうしてえ?。完済は間近だ。それが終わりゃ、どうするよ?。」
考えてもみなかった。まさか、自分にそんな日が訪れようとは。
「あ、いや、ボクは・・、」
当然、尋は言葉に詰まった。選択の余地があるなどとは、全く思いもよらなかった。すると、
「別に、キリのいい所でお前をあいつらから引き取ってもいいんだがよ。それだと、お前をこっち側の縛りに置くことにもなりかねねえ。だが、お前はオレ達に加わる柄じゃ無え。そこでだ。」
そういうと、男性は尋の方を向いて目を見た。
「お前への指示役は、ノッポとチビだろう。もし、そいつらのうち、どちらかが別人に代わったら、直ぐに連絡しろ。それと、指示の後に段取りが変わるようなことがあっても、連絡しろ。ただし、作業中は絶対ダメだ。全ての作業が終わってからだ。いいな。」
男性は真剣な表情で尋に伝えた。
「あの、彼らに何かあったんですかね?。あ、すいません。聞いたらダメでしたね。」
尋は以前に、彼らに関する質問を禁じられていたことを思い出した。ところが、男性は尋の質問に答えだした。
「まあ、疑問に思うのも無理はね。どんな仕事も、時間にルーズなヤツは、まずダメだ。殊に、あいつらのような仕事はなおさらだ。完璧に動いているからこそ、情報が漏れねえ。だが、時間を守れねえようになっちゃあ、それも時間の問題だ。仕事が仕事だけに、情報が漏れたら必ず大事になる。そして、一旦破綻を来すと、後は芋蔓式だ。」
尋も、自身が携わっている作業の重み、闇の深さは既に理解していた。だが、自身の作業が、彼ら全体のうち、どれ程の割合とウエイトを占めているのか、つまり、全容は全く知らなかった。いや、知ることは、即危険に繋がると感じていたので、敢えて知ろうとはしなかった。しかし、男性の語ったことは、いわば依頼である。それも相当危険な。尋は自身の立ち位置を把握しないまま行動するのはマズいと思った。彼は現在の状況がどのような事態なのか、敢えてたずねてみた。
「あの、ということは、以前にもそういうことがあったということですか?。」
尋の言葉に、男性はハンドルを握りながら、再び語り始めた。
「ああ。オレ達じゃ無えがな。ご同業が似たような状況になったらしい。で、危うく別の連中に始末を頼んだんだが、そいつは上手くいったが、ご同業は全員、パクられた。そして、前の連中は、今の連中に全て置き換わった。ヤツらとはそれ以来の付き合いだ。あいつらは直接手を下すが、依頼は取れねえ。危険過ぎるからな。だから、代わりにオレ達が窓口になってる。そういうことだ。」
尋は、殊の外、男性が状況を語ってくれことで、彼らに対して興味が湧いてきた。
「あの、取って代わられた連中・・は、何故ダメになったんですか?。」
尋の質問に、男性は続けた。
「箍(たが)が緩んだんだろ。マシンのような精度で動いてはいても、所詮は人間の集まり。統率する者が方向性をしくじれば、中の者はモチベの維持が難しくなる。忠誠心だって、持ち合わせちゃいないだろう。あの、ガラスのような冷たい眼を見たろ。確かにあれはプロの眼だが、オレ達のそれとは違う。」
そういうと、男性は口を真一文字に固く閉じた。自身でも少し余計なことを喋りすぎたと感じたかのように。それを察して、尋もそれ以上はたずねなかった。男性は暫く車を走らせると。携帯をかけ出した。
「オレだ。今からそっちへ向かう。」
そう手短にいうと、男性は携帯を切った。いつもなら、閑静な場所は高層ビルの立ち並ぶ、如何にも高級そうな所に向かうのが、今日は妙に雑多な下町へと進んでいった。そして、コインパーキングに車を止めて、
「此処だ。」
と、男性は尋を車から下ろして、自身も下りた。そして、直ぐ隣にある小さな中華料理店に入っていった。尋は、これまでの店とのギャップに、少し呆然としたが、暖簾を潜ると、
「いらっしゃい。二階へどうぞ。」
という店主の気さくな挨拶に、逆にホッとした。しかし、彼のように漢を売る人物でも、こんなざっかけ無い店に来るんだと、尋は不思議に思った。二人は座席に着くと、
「こんな所に来るなんて、驚きか?。はは。美味いモンに高い安は無え。」
男性はそういうと、上着を脱いでハンガーに掛けた。尋も同じように上着を脱いで、そっとハンガーに掛けた。男性には、いつもより何か、張り詰めたものが無いように、尋には見えた。程なく、
「はい、お待ちどお!。」
といって、店主が料理とビールを持って来た。特に何の変哲も無い、炒飯と餃子、それに鶏の唐揚げや小エビの天ぷらだった。男性は両手を合わせると、割り箸を割って、次から次に料理を食べ出した。そして、尋のコップにビールを注ぎながら、
「さあ、遠慮せずに、どんどんいけ。」
と、食べる妖に促した。尋も両手を合わせて、
「いただきます。」
というと、次々に食べ出した。
「美味いです。」
「はは。だろう。街の中華も、なかなかのもんよ。」
そんな具合に、二人は黙々と中華を楽しんだ。そして、ひとしきり食べ終えると、店主があがってきて、食べ終えた器を下げるのかと思ったら、そのまま室内に上がり込んで、後ろでで襖を閉めた。そして、
「何か厄介ごとですか?。」
と、鋭い眼光で男性の方を見た。
「ああ、ちと・・な。こいつは尋だ。」
男性は、そういって店主に尋を紹介した。尋は頭を下げて挨拶した。そして、
「彼はワンだ。」
といって、尋に店主を紹介した。ワンはにこやかに会釈した。
「今、こいつが連中の仕事を手伝ってるんだが、どうやらあっちで何かあったらしい。」
「軋みですか?。」
男性の言葉に、ワンはハードな状況を推測したようだった。しかし、
「いや、恐らく、その逆だろう。時間にルーズになってるらしい。」
男性の言葉を聞いて、ワンは驚いた表情を見せた。
ゆっくりと調理帽を脱ぐと、ワンは口ひげを撫でながらいった。
「彼らは、私の知ってる中でもピカイチの腕です。情報も外には一切漏れない。それでもやはり人間の集まり。恐らくは指揮系統が変わりつつあるのか・・。」
それを聞いて、男性は身を乗り出した。
「頭の取り合いか?。」
「いえ、それだと仕事自体が止まるはずです。単純に人出が足りてないのかも知れない。と、なると・・。」
ワンは、今度はあごひげをひねり出した。
「何か大きな仕事をしようとしているか・・ですね。」
「それって、一体、どうなんだ?。」
男性は注意深くきいた。
「ご存じのように、人知れず、小口でするのが彼らの仕事です。しかも慎重に。だからバレない。しかし、大がかりでするとなると、秘密を保つのが難しくなる。危険ですね。」
ワンの言葉を、男性は身じろぎ一つせずに聞いていた。そして、
「そうか。大仕事の前に、若干、隙が出来てるということか。もし、オマエの読みが当たっているなら、これ以上付き合うのはヤバいな。そこでだ。それが一回こっきりなのか、今後も続くのかで、ヤツらとの付き合いを続けるかどうか、見極める必要がある。で、だ。こいつに探りを入れさせようと思う。」
男性はそういって、尋の方に右手を置いた。すると、ワンは尋の方をチラッと見て、男性にたずねた。
「彼はプロですか?。」
「いや、違う。訳あって、ヤツらを手伝うようになっただけだ。素人が故に、命拾いしてる。もし、ちょっとでも手練れを送り込んだら、間違いなく消されてただろう。」
「なるほど。」
男性は安心したかのように、ゆっくり頷いた。
「こいつを、暫くの間、此処に通わせる。探りの手ほどきをしてやってくれ。」
男性はそういうと、懐から財布を取り出そうとした。
「ああ、支払いは食事代だけで結構。後はお任せを。」
そういうと、ワンは右手を差し出して、尋に握手を求めた。
「あ、よろしくお願いします。」
尋も右手を差し出して、ワンと握手をした。すると、
「今、私が何のために握手をしたか、お解りかな?。」
ワンが尋に尋ねた。
「え?、挨拶じゃ無いんですか?。」
それを聞いて、男性がいった。
「な。こいつは素人だろ。いいか、尋。相手の手を握るときは、その手触りで、相手の職業を当てるときだ。ワンの右手、どう思う?。」
尋は、たずねられるがままに、感じたことを答えた。
「厚い手の平ですね。いつも何かを握っているような。鍋・・。ひょっとして、左利きですか?。」
尋の言葉に、ワンと男性は驚いた。
「ほほう。アナタ、筋がいい!。」
ワンは少し上気した。男性も、何処となく、誇らしげな顔つきをした。優男だった尋が、何の因果か妙な具合に鍛えられ、ちょっとは男を上げたとでもいわんばかりに。
「ただ、尋さん。気を張ってはいけない。あくまで自然体に。」
ワンはそういうと、再びにこやかな表情に戻り、調理帽を被り直すと、器を乗せたお盆を抱えて階段を降りていった。
「困ったことがあったら、此処へ来てワンに聞け。頼りになるやつだ。」
「はい。」
二人は階段を降りていった。男性が先に支払いを済ませ、尋はワンに挨拶をして店を出た。そして、コインパーキングの所まで戻って、車に乗り込んだ。そして、暫く走っていると、
「どんなヤツでも、やってるうちに慣れてくる。そのときに、油断するヤツと、顔つきの変わるヤツに別れる。お前もそのうち、も少しキリッとした顔になるだろう。だが、極力そういう顔をするな。今まで通り、冴えない顔で、連絡があれば飄々と作業に向かえ。」
男性はそういいながら、窓を少し開けて煙草に火を付けた。
「ボク、そんなに冴えない顔ですか・・。」
尋は何となく聞き返した。すると、
「ははは。冴えてるヤツが、うちでド借金なんか抱えるかよ。だがな、オヤジの女は寝取るわ、折檻には耐えるわ、オマケに今じゃあ・・、な。男っぷりは上がってるよ。それでも、相変わらず素人面が出来る。さっきもいったろ。普通は、そうはならねえ。だから、ヤツらも安心してお前に連絡してくる。それを逆手に取る。でもな、やはり、油断ならねえ相手だ。ワンのいうことをしっかり聞いて、悟られねえように、慎重にな。」
「はい。」
尋の返事を聞くと、男性は音楽をかけた。やはりジャズだった。何度となく経験するうちに、この空間で聞くメロディーが、いつしか尋には心地良いものになっていた。男性は、命を張った世界に生きている。そして、自分も気がつけば、際どい世界に片足を突っ込んでいる。そういう者達の歪みを癒やすのが、空気を通じて耳に伝わってくる音色なのかも知れない。
数日後、尋は大学が終わると、遅い時間に先日の中華料理屋に通った。そして、軽く食事を済ませると二階へ上がり、ワンの手ほどきを受けた。
「送迎は大抵、一人か二人、ですね?。」
「はい。」
「作業の段取りは車中でのみ行われますね?。」
「はい。」
それを聞くと、ワンはテーブルに手を着いて、尋ににじり寄った。
「そして、作業は一回に一人ずつ、ですね?。」
尋は静かに返事をした。
「はい。」
ワンは座り直していった。
「それが定石。最少の人数で、最小の作業を行う。そして、時間も場所も正確にしておく。アナタが作業を任されることで人出が減ったのは、まだ大丈夫。寧ろ、アナタが彼らの信頼を得たと考えていい。しかし逆に、もし其処に、これまで以上人数が加われば、一回の作業量も多いということ。」
尋は聞き返した。
「そんなことが、あるんですか?。」
「普通は無いです。それはテロか戦時下、つまり無秩序な状態を意味する。しかし、完璧を期すると過信する者は、時としてそのようなことをします。制度疲労による軋みの場合も、同様のことは起きますが、大抵は墓穴を掘る。そして、競合相手に取って代わられる。その場合、自体は闇から闇です。表沙汰にはならない。だが、勢いのある者が功を焦って行うと、必ず騒ぎが起きます。この国で一時に複数の人間がいなくなることは考え難い。」
そういうと、ワンは袋に入った割り箸を一つ取り出し、箸だけを抜き取って、紙袋を開いてメモ代わりにした。そして、胸元からボールペンを取り出し、指揮系統を推測して書きだした。
「通常、このような連携で、作業が行われる。恐らくアナタは、この位置を担っているはず。」
そういって、末端より二つ手前の箇所にマルをした。
「この上が指示役、そして、下が実行役。」
尋は、これまで自身の与する連中が、どのような構成をしているのか、全く知る由も無かった。しかし、その組織図が如何に正確なものかを、尋は瞬時に理解した。彼が、実行役が変わらないのを、自身の目で何度も見たからだった。
「でも、普通、上が少なくて、末端にいくほど多いと思うんですが・・。」
尋は奇妙な逆三角形の組織図について質問した。ワンは頷いて、
「その通り。普通の組織なら。しかし、内容が内容だけに、実行出来る人間は多くは無い。つまり、作業効率は悪い。利益の出方に限界がある。だから、分配率で上の者が揉める。自分達のやっていることが何なのかを理解していれば、黙っていられるんですが、人の欲とは恐ろしいものです。」
尋はまだ、誰にも自身が行っている作業の具体的な内容を誰にも明かしたことは無い。しかし、ワンはまるで全てを承知しているかのような口ぶりだった。
「それにしても、詳しいですね。」
「ははは。」
尋の指摘に、ワンは思わず声を立てて笑った。
「何度も見ましたからね。大陸にいるときに。あっちは社会秩序が在って無いようなものですからね。時として、中央が自ら指示を出すこともある。そして、末端も手荒い。だが、どういう訳か、みな同じ轍を踏む。ほぼ例外無く。しかし、ヘマを踏んでも、全てが隠蔽される。そういう所です。あちらは。だが、この国は違う。人一人消えただけでも、すぐ気付かれてしまう。普通は。しかし、それが起こらない。だから彼らはピカイチなんです。」
そういって、ワンは組織図全体にマルをした。それを聞いて、尋はようやく、この奇妙な組織図の理由を理解した。情報を悟られずに共有し、実行にまで移し、その後も騒がれずに全てを行うには、それだけ知恵が要る。そのための頭数なんだと。
「今日はこのぐらいにしときましょう。」
ワンはそういうと、組織図の書かれた箸袋を灰皿の上に置いて、ライターで火を付けた。そして、燃えかすにコップで水を掛けた。そして、
「知ることと、知りすぎることは違います。知ることは知恵と鋭敏さをもたらす。だが、知りすぎることは深入りを意味します。それはやがて、足枷となって身動きを拘束します。」
確かにワンの質問や言葉は、必要最低限であった。尋が具体的に何を行っているかは一切たずねない。それでいて、瞬時に全体像を割り出す。尋は彼の話よりも、所作やスタンスを学ばせるために、男性が自身を此処にやらせたのかと考えた。支払いを済ませると、
「どうも、ご馳走様でした。」
と丁寧にお辞儀をして、尋は店を後にした。ワンはにこやかに彼を見送った。ただ、一つの懸念を除いて。
「彼は、末端の人数が少ないことを不思議には思っていなかったなあ。」
このとき、ワンの脳裏に引っかかったものが、後に全てが始まる切っ掛けとなることを、まだ知る由も無かった。そして、尋が帰路に就いた後、尋の携帯に連絡が入った。
「私だ。お前、大きな車は運転できるか?。」
声の主は、背の低い、あの男性だった。
「あ、はい。少し大きなのなら。」
尋は以前やっていたアルバイトでトラックを運転するのに必要な免許を取得していた。
「よし。明日午後11時、いつもの所に迎えにいく。其処で待て。以上だ。」
男性は直ぐに電話を切った。何か急いでいるようにも感じられた。
「いっていた通り、何か大がかりな作業になりそうだな・・。」
尋は明日以降に、大きな変化が生じる可能性を感じた。そのことを、今知らせるべきか。しかし、全ての作業を終えてからとの指示を思い出し、尋は兎に角、明日の動きを終えて以降に連絡しようと決めた。
翌日は日曜日だった。尋は急に作業の連絡が来てもいいように、日頃から遅い午後に起きるようにしていた。作業は大抵深夜から行われる。大学の講義や学生実験も、然程早い時間に始まる訳でもなかった。気がつけば、尋のスケジュールは、作業を中心に組み立てるようになっていた。
「腹ごしらえでもしとくか。」
尋は洗面を終えると、近所のコンビニへいき、梅お握りと缶コーヒーを買って、近くの公園にいった。そして、ベンチに腰掛け、ゆっくりと昼食を取った。晴天の日差しは心地良く、尋の顔に、腕に、優しく刺さった。目の前では子供連れの親子が、遊具や砂場で楽しく遊んでいた。その姿を、尋はボーっと眺めながら、何も考えずにお握りに齧り付いた。梅の酸味を感じながら、目の前の人々のことを一切思わず、尋は感覚にのみ集中していた。すると、
「此処、いいですか?。」
と、杖をついた老人が、隣の席に座ってもいいか、たずねてきた。
「ええ、どうぞ。」
「すいません。」
老人はそういうと、ゆっくりと腰掛け、一息ついた。
「いい天気ですね。」
「ええ。」
何気ない会話が人から発せられていることを、尋は意識しないようにしていた。無下に会話を壊さず、自身もその空間の一部になるかのように。
「どうかなさいましたか?。」
突然、老人が会話を続けた。
「え?、何がですか?。」
尋は不意を突かれて、少し驚いた。
「いやね、あなたの眼が、余りにも遠くを眺めているように見えたもので・・。」
老人は、尋の眼が、視点が、何処となく不思議なのを悟ったようだった。
「はは。別に、何でも無いです。ただ、ボーッとしてただけですから。」
尋は一応、取り繕った。
「それならいいんですが。年寄りの話だと思って、聞き流して下さいな。随分昔なんですが、ワタシは兵隊に取られてましてな。そういう時代でしたんで、お国のためといわれれば、選択の余地は無かった。そして、適性検査の後に、すぐ入隊、そして厳しい訓練。それが終わると、有無をいわさず、南方へ送られました。」
老人の話に、尋の眼は次第に焦点を取り戻していった。
「現地の状況は酷いの一言でした。戦況が悪化するほどに、みんな自分が国に帰れなくなるんじゃないかと、恐怖と絶望に打拉がれました。とてもじゃないが、正気を保つことなど出来ません。そんな中、敵が攻めて来ても、微動だにせず、ただただ敵と立ち向かって仕留める者が居りました。物静かで、何にも動じない、我々とも打ち解けようとはしませんでした。だが、一旦前線に出ると、まるで生き返ったように闊達になりました。そして、何の躊躇も無く頬に銃を押し当てて照準器を見据えては、次から次に引き金を引いて、一人で戦果を上げていました。そのときだけが、まるで生きているかのように。何なら、少し微笑んどるようにも見えました。そんときの彼の眼は、今も忘れることは出来ません。今から思えば、随分前に常軌を逸してたのかも知れません。誠に申し訳無いんやが、そん時の眼が、何かアナタの眼差しと同じに見えてしもうてな・・・。」
尋は一瞬、凍りついた。しかし、直ぐに冷静さを取り戻し、
「で、その方は?。」
とたずねた。老人は俯き加減で、首を横に振った。
「最後の撤収命令に、彼は従わなかった。彼一人だけが銃を持ったまま前進して、森の中へ消えていきました。そして、ワシを含め、ほんの数人だけが戻って来れました。じゃが、無事に戻って来れたことを喜べるようになるまでは、随分と間がかかりましたわい。」
そういって、老人は顔を上げて尋を見つめた。
「おお。その目。生きとる目じゃ。はは。年寄りのつまらん話に付き合うてもろうて、済まなんだ。では、御免。」
老人は杖をつくと、踏ん張って立ち上がり、ゆっくりとその場を後にした。その背中をずっと見つめながら、尋は何か得体の知れない業のようなものを感じた。そして、視線を自分の手の甲に落とし、
「生きている・・・かあ。」
と、独り言を呟いた。血の通う、温かい手を。そして、残りのお握りを一気に頬張ると、コーヒーで流し込んで昼食の時間を切り上げた。
「オレは今、どっちに、どの辺りにいるのかな・・。」
そんな事を考えながら、公園を後にした。まるで日差しを避けるように、太陽を背にして、尋は歩いていった。途中、オフィスビルの窓に映る自身の目をチラッと見てみた。
「ガラス玉には、まだなってないのか・・。」
夜まで少し時間を潰そうと、尋は本を読んでみたり、PCの画面を眺めたりしたが、今ひとつ集中出来なかった。それでも、出来るだけいつもと同じ休日の過ごし方を頭の中で準えて、その通りにしていた。やがて日も暮れ、いよいよ夜の11時前になった。尋は部屋を出て待ち合わせ場所に向かった。すると、少し大きめなトラックが路地を曲がって進入してきた。そして、尋の前に来るとトラックは止まり、中から小柄な男性が下りてきた。
「今日は忙しい。乗れ。」
そういうと、男性は尋を助手席へ誘った。トラックは発進し、男性は走りながら段取りを説明した。
「今日は三箇所回る。」
そういって、男性は後部座席にあるカバンの方を見て、尋にそれを取るように顎で合図した。尋は中を開けた。
「!。」
尋は絶句した。そこには、顔写真が印刷された書類の束と、大量のシリンジが入っていた。一体、何人分かと思っていると、
「全部で六十九人運ぶ。まず最初の病院へいく。そこで待っているやつに書類とシリンジを必要分渡す。そして残りの分を持って、用意されてる別のトラックで次の病院へいく。そこからはお前が運転しろ。そして、待ってるやつに書類とシリンジを必要分渡す。そして最後の分を持って、用意されてる別のトラックで次の病院へいく。そこに着いたら、作業をして検体をトラックに積み込んで、いつもの所に運ぶ。」
余りに大がかりな計画に、尋は頭の中が真っ白になった。無理だ、こんなこと、バレずに行えるはずがない。尋はそう思いながらも、
「ボクが作業するのは・・、」
と尋ねかけたとき、
「二十三人だ。流石に一人では無理だろうから、向こうに人を待たせてある。お前は麻酔だけを順に打っていけ。積み込みは向こうの連中が行う。それが終わったら、いつもの場所に向かえ。いいな。」
男性はそういうと、運転に集中した。尋はとても冷静さを取り戻せないと感じつつも、カバンの中の書類が等しく三等分されて輪ゴムで止められているのに気付いた。そして、一番下にある束を持つと、一人ずつの顔を入念にチェックし始めた。すると、
「全員覚えるのは無理だ。一番下に、病室と寝かせてある位置を示した図がある。その番号通りに打っていけ。」
男性はそういって、再び運転を続けた。明らかに粗雑だった。どの箇所一つ取ってみても、非の打ち所だらけだった。綿密な段取りと、的確かつ最小の人数で動くからこそ可能だった作業。それが今、こんなにまで質の落ちた物になっているのかと、尋は素人目にも十分に感じていた。しかし、有無をいわさず、トラックは一軒目の病院に着いた。男性と尋は車を降りた。裏口付近では三人が待っていて、尋はカバンから持ち出した一つ目の書類の束と、三等分されたシリンジと麻酔を一人に手渡した。それを受け取ると、三人は速やかに裏口から院内へ入っていった。男性は後ろのハッチを開けるながら、
「向こうにトラックが見えるだろう。お前はあれで、次の病院までいって、今と同じことを行え。それが終わると、もう一度用意されてるトラックに乗り換えて、最後の病院へ向かえ。以後、運び終わるまで指示は無い。敏速に行動しろ。」
そういうと、男性は忙しそうに運転席に戻っていった。尋はカバンを持って、指示通りに別のトラックに乗り込み、次の目的地へ向かって発進した。久しぶりのトラックは、ハンドルが重かった。しかし、不慣れなどといっている場合では無かった。寧ろ、目的地に着くまでの時間が、唯一気を休めることの出来るときだった。それでも尋は、
「絶対にバレる。絶対にバレる・・。」
と頭の中で呟きながら、冷静さを失いそうになる自分と格闘していた。しかし、不思議と逃げだそうという気は起こらなかった。ただただ指示の遂行のみを、それを可能にするのは、時間通りに段取りよく作業を行うことだというのを、尋は終了時間を想定しながら逆算しつつ、車を走らせた。そして、二つ目の病院が見えてくると、尋は裏口辺りにトラックを横付けにした。そこでも待ち受けていた三人が現れた。尋はトラックから下りると、鞄の中から二つ目の書類の束と、シリンジと麻酔薬を渡した。そして、さっき男性がやっていたのと同じように後部のハッチを半開きにさせて、がらんとした駐車場に一台だけ止めてあるトラックに向かって歩いていった。
「このトラックで合っている・・よな。」
そんなことすらも確認出来る状態では無かったが、キーは付いたままになっていた。尋はエンジンを掛け、トラックを発進させた。そして今度も、
「絶対にバレる。絶対にバレる・・。」
と頭の中で呟きながら、最後の病院に向かった。此処までは単に車に揺られるだけだったが、以降は自身がひたすら作業を行う。集団予防接種じゃあるまいし、一時に数十人に麻酔を施すなんてと考えてはみたが、
「はは。よくよく考えたら、始めっから現実離れの所業じゃないか!。」
そういいながら、次第に肩の力が抜けていくのを感じた。そして、いよいよ最終の病院に着いた。尋は裏口付近にトラックを止めた。其処に今度は、二人が現れた。
「三人じゃ無いのか・・。」
と、尋は一瞬不思議には思ったが、恐らくは自身が一番手慣れていると見なされてのことだろうと、気持ちを新たにした。
尋はトラックのハッチを開けると、中に乗り込んで医療着に着替えた。そして、大量のシリンジと麻酔薬の入った袋を片手に持ち出した。二人は尋から検体を入れる袋を幾つか受け取った。誰も居ないのを確認すると、三人で裏口から入っていった。
「三○九、三一○、三一一号・・。」
尋は部屋の番号を諳んじながら、病室へと向かった。そして、一番最初の部屋に入ると。シリンジに小瓶から麻酔薬を目一杯抜き取った。そして、眠っている検体に次々と回し打ちを始めた。一本のシリンジがからになると、次のシリンジで同様のことを繰り返した。幸い、この作業自体はスムースに済んだが、問題は袋詰めと輸送だった。
「人数が多すぎる・・。」
尋は一瞬焦ったが、やることは解っていた。一度に何人も運ぶには台車は小さすぎた。また、各フロアーに台車は幾つも無かった。結局、尋が指図して、二台の台車で検体をピストン輸送した。尋と一人がトラックまで運び、もう一人が荷台で袋を受け取って、どんどん詰め込んでいった。かなりの重労働であったが、作業着の二人の疲労ぶりを他所に、尋は顔色一つ変えず、淡々と運んでは病室に戻って、袋詰めを行った。一人を袋詰めにして運ぶまでには、最短でも三分かそれ以上はかかる。作業着の二人はどうにかこうにか三分ちょっとで一体を運んだが、尋は一分半ほどで検体を運んだ。しかし、いくら尋一人が効率が良くても、結局は残る二人が作業の足を引っ張った。
「明らかに素人だな・・。」
尋は二人の手際が悪いのに少し苛つきかけたが、見つかりさえしなければ、作業は行われていないに等しいと理解しつつ、冷静さを保っていた。そして、ようやく二人が最後の袋を運び終えたとき、尋は二人に目配せして頷いた。そして、一人は荷台に、そして、もう一人は助手席に乗った。尋は外側からハッチを閉めると、運転席に乗り込み、医療着から作業着に着替えてトラックを発進させた。
「さながら、密入国の手引きだな・・。といっても、黄泉の国だが。」
そんな風に思いながら、尋はハンドル操作をしながらトラックを走らせた。助手席では、まだ息の整わない男性が苦しそうに座っていた。運転中、尋は隣に座っている男性に、何でもいいから聞きたくて仕方なかった。これまで、一方的に彼らの手伝いをさせられ、何も問うこと無く、ここまでやって来た。そして今、尋は探りを入れる任を預かっている。良くしてくれたあの男性のためにも、少しでも情報を得たい気持ちがあった。だが、
「オレは指示に関すること以外、一切話してはいない。」
そのことを思い出し、指示役だった彼らと同じように、尋は押し黙ってひたすら運転を続けた。助手席の男性は息が整うと同時に、時折尋の方を見たが、尋は全く気にせず、ただただ運転を続けた。そして、数十分の後、トラックはいつもの埠頭に到着した。其処には、尋が前に目にしたトラックが二台、入り口付近に横付けにされて並んでいた。尋は少し驚いたが、並んだトラックの横に自身が運転するトラックを止めると、運転席から下りた。そして、後部に回って、他のトラックのハッチを見た。
「開けられてない。すると中にはまだ検体が・・?。」
そう思っていると、倉庫の影から作業着姿の男達が何人か現れて、尋の前に立ち並んだ。
「こいつら、指示待ちだけか?。」
尋は不思議に思いながら、先のトラック二台分のハッチを開けた。案の定、検体の袋は積まれっぱなしだった。尋は内心、かなり驚いてはいたが、何事も無かったかのように、三台目のハッチも開けた。そして、倉庫のドアから鍵のかかってない南京錠を外し、ドアを開けた。そして、作業着の男達に、トラックとドアを交互に指差し、袋を中まで運ぶように手振りで指示した。すると、男達はそれぞれのトラックに乗り込み、袋を担いで次々と倉庫の中に運び込んだ。尋もその作業を手伝ったが、その間、
「まさか、ここから先も、ヤツが一人で作業を行うのか?。」
と、あり得ないシミュレーションをしてみた。一人の処理には優に三十分はかかっていた。それがこの人数だと、まる一日半はかかる計算になる。
「絶対無理だ。不可能だ。人数を増やさない限りは・・。」
しかし、解体作業は神以外にやっている所を、尋は見たことが無かった。組織がガタついている最中に、あの末端の重要な作業を行える人間が確保など出来ようはずが無い。ましてや、自分を含め、今こうやって袋を担いでいる人間の中に、あんな作業を出来るヤツなんて、いようはずが無い。それでも、全ての検体を一箇所に運ばせたということは、何か策があるはずだと、尋は考えた。そして、全員が全ての袋を倉庫に運び終えたとき、尋は来た道を指差し、それぞれ帰っていくように指示した。それを見届けると、尋はドアに向かって歩き出した。
ただでさえ、翌日にはこの大失踪が報じられる可能性で気が気では無かったが、尋の興味は別の所にあった。
「どうやって処理する?。この検体の数を。どうやって・・。」
結局は、それが上手くいくか否かが、翌日の紙面を飾るかどうかにも繋がる。尋の嗜好は自ずと一つの結論を既に見据えていた。
「見届けるしか無い。」
いつものように音声など聞いている場合では無い。しかし、
「マイクは付けてみるか。机の下に・・。」
そういうと、尋は全員が倉庫付近から去ったのを見届けると、次に誰も来ないうちにドアを開けて、再び倉庫に侵入した。そして、いつもヤツが処理を行う机の裏辺りに、マイクを落ちないように挟み込んで、パレットの裏に身を潜めた。そして、受信機にイヤホンを差し込んで、音が拾えているかを確認した。
「よし。」
尋は静かに待った。どれぐらい待っただろうか。やがて、車がやって来て、ドア付近で止まる音がした。そして、
「ギイイッ。」
ドアが開くと、丸顔の大男が手に道具箱を持って入ってきた。
「神か。」
しかし、いつものように後ろででドアを閉めなかった。すると、次に、小柄の男性が入ってきて、
「おー。こりゃ、壮観だな。いけるか?。一人で。」
そういうと、丸顔の大男はコクリと頷いた。
「よし。じゃあ、気合いを入れてやる。」
小柄の男性はそういうと、両方のポケットから何かを取り出して、丸顔の男の首の両側に突き立てた。そして、それを握り締めながら、両手の親指をグッと押し込んだ。どうやら頸動脈に何かを注射しているようだった。途端に、ガラス玉のように無機質だった男の眼はギラリと光り、笑みさえ浮かべた。そして、一度に数体の検体を袋から取り出し、机の上にズラリと並べていきなり作業に取り掛かった。
「うおっ。見ちゃらんねえ。」
小柄の男は肘で視界を遮るようにしながら外へ出ていった。
「こんなこと、信じられねえ・・。」
尋は余りの驚きに、思わず身動きしそうになるのを必死で堪えた。あろうことか、神は一分少々で一人当たりの処理を済ませると、次々と作業を進めていった。検体はそれぞれに体型も背格好も異なっていたが、寸分違わぬ正確さでドンドン処理を進めた。機械でさえ、こうはいかないだろう。それにしても、今日の神は違っていた。明らかに表情があった。
「楽しんでいるのか・・?。」
いや、違う。確かに口角は上がっているようだったが、笑いでは無い。そして、
「あの眼、キマってるな。」
その瞬間、尋は状況を理解した。小柄の男性は、神に著しい覚醒効果のある薬品を投与したようだった。常人では考えられない手の動き。一切の躊躇も、道徳心も、悦楽も、何も無い。其処にあるのは、
「裁き・・か。」
人は起きていようが、眠っていようが、死は着実に訪れる。ただ此処にいる六十九人には、それがたまたま眠っているときに訪れただけ。尋はそう感じた。
「早えーな。」
そういいながら、小柄の男は時折やって来ては、満杯になったクーラーボックスを運び出し、新たにクーラーボックスを持って来た。そして、他の見知らぬ男が二人、処理を終えた検体が入った袋を、次々に外へ持ち出していった。尋も、余りの処理速度に釘付けになっていたが、次第に落ち着いてくると、イヤホンから流れてくる音声が聞こえてくるようになった。初めこそ嫌な処理をする音だったが、時折、何か妙な声が拾われてきた。
「フンフンフン、フーン♪。」
鼻歌だった。何と、神は作業する傍ら、密かに鼻歌を諳んじていた。その瞬間、尋は凍りついた。
「まさかっ!。」
かつて一度だけ聞いたことのあるメロディーだった。
「間違いない。アイツだ。」
今、目の前で人間の所業とは思えぬ作業を行っているのは、かつて尋が知っていた、遠い昔に人間だった、アイツだろう。しかし、もはや、その面影は何処にも無い。彼は、神は裁定者として此処に降り立つべく、送り込まれたのだろう。そして、その切っ掛けとなる瞬間に、尋はたまたま居合わせた。あのメロディーと共に。
「アイツと出会ったのは、偶然なんかじゃ無い。今こうして、同じ空間で作業をシェアすべく、導かれたんだ。」
あのとき、あの記者を頭突きでやっつけたとき、二人は社会に、世に、得もいえぬ違和感と反感を抱いた。それが時を経て、再びこのような形で二人を結びつけたのだと、尋はそう思った。
「アイツに同じ思いが・・。いや、そんな正常な思考など、もはや皆無か。なら、例え異常であっても構わない。そんなのは、傍目の判断に過ぎない。我々を誘うべく、このような状況を作り出した目線には、遥かに及ばない。そういうことか・・。」
尋は、この時初めて、運命共同体の何たるかを知った気がした。
神の手は一切止まること無く、ひたすらに検体を捌いていた。そして、いっぱいになったクーラーボックスと袋を、男達が代わる代わる外に運び出していた。その様子を、尋は固唾を呑んで見守った。時折イヤホンから流れてくる鼻歌を聴きながら。倉庫の外では、一台では収まりきらなかったのであろう、車が頻繁に往来する音が聞こえた。そして、どれぐらい経っただろうか。薄明かりがドアの隙間から差し込んだとき、神は全ての作業を終えた。しかし、その目は煌々と輝き、まだまだ物足りないようだった。小柄の男が最後にやって来て、神の横からわざと視界に入るようにしながら、
「ご苦労だった。」
と声を掛けた。一瞬、神は道具を持ったまま男の方に向かって構えたが、やがて両腕を下ろすと、
「終わりました。」
と、急にガラス玉のような眼に戻り、素直に返事をした。
「ほれ、褒美だ。」
男は神に小さな袋を手渡した。すると、神はすぐには受け取らず、血糊の付いた手をゴシゴシとその辺にあるタオルで拭きながら拭い取った。そして、
「有り難う。」
そういうと、両手で袋を受け取って、中から大きくて丸いキャンデーを取り出して、ペロペロと舐め始めた。
「いくぞ。」
男は神に声を掛けた。神は従順に彼に従い、ドアを開け二人して倉庫を後にした。ドアから差し込んだ明かりが、夜明けを知らせていた。尋はいつものように息を殺してじっとしていたが、何故か、どうしても朝日が昇る前にこの場を立ち去りたい衝動に駆られた。そして、辛抱溜まらず、ドアの所まで駆けていって、外の気配が無いのを感じると、直ぐさまドアを開けて、南京錠を元通りにした後、可能な限り建物の影を利用して、夜明けの明かりに照らされるのを避けながら、その場を立ち去った。そして、何処をどう歩いてきたのか、気がつけば尋は繁華街の裏通りに辿り着いていた。と同時に、急激な喉の渇きに襲われた。
「何でもいい。甘い物・・。」
尋はすぐ傍にある自販機で飛びきり甘い缶コーヒーを買うと、蓋を開けてごくごくと渇きを癒やした。そして、誰が見ていた訳でも無いのに、急に自分がこの場所にいてはいけないように感じた。ふと前を見上げたとき、目の前がネットカフェだったことに気付くと、尋は其処に駆け込み、空いているブースに入るとドアを閉めて座った。何からどう整理していいのか、混乱と動悸が尋を襲った。脇と額に嫌な汗を掻きながら、尋は深呼吸するのに努めた。
「落ち着け、落ち着くんだ・・・。」
そして、数十分は経っただろうか。彼は目の前にあるPCで、集団行方不明者のニュースがあるかを検索した。
「無い。おかしい。絶対にあるはずだ・・。」
しかし、いくらニュースサイトを検索してみても、その手のことを報じているサイトは全く無かった。急な大人数の検体、場当たり的な段取り、不慣れな人員。どの一つ取ってみても、至る所に情報が漏れる可能性があった。しかし、そうはなっていなかった。
「いや、まだバレてないだけかも知れない。もうじき、絶対にバレる。」
そう思いながら、尋はブースの中でじっとしていた。そして、時折検索をしてみては、まだニュースに上がっていないのを確認しつつ、尋はあることを思いだしていた。
「あの鼻歌・・。間違いないよなあ。」
遠い昔、あのような出来事があって以降、傍が如何なる過酷な人生を送ったとしても、不思議では無い。想像は決して出来ないが。だが、その結果、あのような所業を成せる人物になっていようとは。そして何より、そのことを知らずにいれば、自身も鬼神の世界に出会うことはなかっただろうにと、尋は何気に思った。そして、何十回も検索をした後、全くニュースとして上がっていないと解ると、尋はネットカフェを出た。時刻は恐らく昼過ぎであっただろうが、彼には時間の感覚など、最早無かった。事件にさえなっていなければ、自身のことを知る者などいない。そう思った途端、尋は急に人混みの中を平気な顔で歩いて進んだ。それでも、万一を考えて部屋には戻らなかった。そして、
「知らせなければ・・。」
尋はそのことを思い出すと、例の中華料理店に向かった。電車を乗り継ぎ、尋は暖簾の前に立った。そして、ドアを開けると、
「いらっしゃい。」
と、ワンの声が響いた。しかし、
「どうした?、尋さん。」
そういいながら、ワンが厨房から駆け寄ってきた。
尋は自身がいたって普通だと思っていたので、ワンの所作が気になった。
「どうって、何がです?。」
「その顔色よ。真っ青だよ。」
尋は店内にある小さな鏡に自身の顔を写した。そこには見たことの無い、まるで亡者のような男が消え入るように立っていた。ワンは尋に頭を寄せて、
「よっぽど地獄を見たね?。」
と、小声でいった。それを聞いて、尋は急に込み上げてくるものがあったが、何をどうしようにも、涙すら出なかった。そして、静かに首を縦に振った。ワンは尋を奥へ誘い、
「そういうときは、まずは胃に優しくて温かいものを食べるといいよ。」
そういって、厨房に戻ると、温かい粥を作って、尋に差し出した。カウンター席の一番端に座りながら、尋はそれをゆっくりと口に運んだ。
「ゆっくり・・ね。慌てたらダメよ。」
ワンは全てを心得ているかのように、尋を労った。
自覚は無かったが、尋の体は冷え切っていた。そこに、温かい粥が流れ込んでいく。蝋のように固くなった尋の体が、少しずつ熱を帯びてきた。と、同時に、次第に尋は震えだした。傍らでワンが、
「いいかい?、鼻から息を吸って、口からゆっくり吐き出す。スー、ハー、スー、ハー。」
最初はぎこち無かったが、ワンの真似をして、尋はゆっくりと呼吸を整えられるようになった。
「さ、落ち着いたら、粥を食べて。」
再び尋は、レンゲで粥を食べ始めた。もう大丈夫名のを確認すると、ワンは携帯をかけ始めた。ゆっくりと粥を平らげると、一気に空腹が訪れた。
「ワンさん、もっと食べる物を。」
連絡を終えて携帯を切ったワンが、
「今はこれ位に。飲み物はいくら飲んでもいいが、食べ物はこれ以上ダメよ。」
そういうと、湯吞みに温かい烏龍茶を注いで差し出した。それから程なくして、
「よう。」
と、白いスーツの男が現れた。ワンは尋がやって来たときの状況を説明した。
「いけるか?。」
「はい。」
男は尋を気遣ってたずねた。ワンは二人を二階へ誘った。厨房は従業員に任せ、ワンも二階へ上がると、後ろ手に襖を閉めた。お膳を囲んで男が向かいに、尋とワンが並んで座った。
「ゆっくりでいい。まず、何があったか話してくれ。」
「はい。いつもは必ず一人だけを連れてきて作業に移るんですが、昨日は大人数でした。」
「で、何人だ?。」
「六十九人です。」
それを聞いて、男とワンは顔を見合わせて驚いた。
「手配は、どうだった?。」
「はい。いつもは車一台で送ってもらいながら丁寧に段取りを聞くんですが、昨日はトラック三台でリレー形式で、三つの病院から二十三人ずつを連れていきました。」
「連れていった場所は、それぞれ別か?。」
「いえ、いつもと同じ、一箇所です。」
「其処に全部集めたのか?。」
「はい。」
男はワンを見て、そんなことが有り得るのかを聞きたげだった。
「うーん、それは相当無茶ですね。絶対にバレる。でも、そんなニュース、全然流れてないね。」
「奮戦地域じゃあるめーし、一夜でそれだけの人数がいなくなりゃ、世間が大騒ぎなはずなんだがな・・。」
男は相当不思議がった。しかし、
「でも、予め報じられないように手を回してたなら、暫くの間は大丈夫よ。それほどまでに力があったとはねえ・・。」
ワンはそのような家業の連中が、メディアの統制に顔が利く人物と繋がっている可能性を考えた。彼の母国では、そのようなことも日常的に起こり得たが、此処は違う。小さな民主主義の島国。果たしてそのようなことがあるのだろうかと、やはりワンも不思議に思った。
「で、どうだ?。このままコイツを、ヤツらの元に置いておくのは、やはり危ねえか?。」
「うーん、方針が変わったのは間違いなさそうね。政治的になのか、利益目的なのか、いずれにしても、このままじゃ、いずれ足がつくよ。」
「だな。」
男とワンは、かなり警戒していたが、尋はそうでは無かった。
「あの、実は、昨日は作業に関わる人でもいつもの三倍ほどだったんですが、急ごしらえなせいか、みんな不慣れな感じでした。なので、頼まれた訳じゃ無いですが、ボクが指示を出して、時間のロスを無くすようにいいました。あと、」
尋がそういいかけたとき、二人は彼の顔を見つめた。
「ひょっとしたら、彼ら、言葉が通じなかったかも知れません。彼らは言葉を発しなかったので、どこの出身かは解らなかったですが、手振りで指示をすると、解ってくれました。」
それを聞いて、ワンは天を仰いだ。そして、一言いった。
「恐らく、来ましたね。」
「大陸か?。」
男の言葉に、ワンは黙って頷いた。
「大人数だろうが何だろうが、ヤツらはやります。やり方も手荒い。そして、ヤバくなったら、サッと国を出る。今回も、そんな感じでしょう。」
「じゃあ、単発の仕事ってことか?。」
「次に大人数でなければ、一時的なもの。しかし、それを許したとしたら、やはり上の者が代わってる可能性があるね。」
「じゃあ、あとは上次第ってことか。」
二人が話していると、
「あの、ボク、引き続き、様子を見ましょうか?。」
男性は、少し驚いたように、
「いいのか?。」
「ええ。あちらもボクを必要としている風ですし、今は渡りに船じゃないですかね?。」
「お前がそういうなら・・。」
男は相変わらず、尋が検体を運ぶ程度の作業しか任されていないと思っていた。しかし、ワンは彼の真っ青な顔を思い出した。恐らくは、それ以上の何かを、彼は知っているのだと。そして、
「気をつけて、おやりなさい。」
そういうと、ワンは尋の方を優しくポンと叩いた。
「送っていってやる。」
白いスーツの男はそういうと、尋を赤いスポーツカーへ誘った。二人は車に乗り込むと、男は煙草をくわえながら車を発進させた。いつものように、ジャズを流しながら、男は右手でハンドルを握り、時折左手で煙草を持つと灰皿に灰を落とした。
「今度のは、大仕事だったな。」
「はい。」
「ところで、次にヤツらに会った時、かなりの報酬が来る。それを入れりゃ、お前は自由の身だ。しかも、結構余る。またバカラでもやりに来るか?。」
男は冗談めかして尋にいった。
「いえ、それはもう・・。」
「ははは。だな。しかしよ・・。」
そういうと、男は煙草をもみ消して真剣な表情になった。
「次にヤツらに会う時が山場だ。別のヤツが来るか、あるいは、受け取り場所を変えてくる。そうなったら要注意だ。」
尋は恐ろしくなって、男にたずねた。
「それは、どういう・・、」
「前にもいったろ。ヤツらの組織でテッペンの取り合いをやってる可能性が高い。今度の無茶な依頼が何よりの証拠だ。ノッポの方、覚えてるか?。」
「はい。」
「ヤツが来れば、これまで通りに収まるだろう。だが、チビが来たら、」
「来たら?。」
「お前は消される。」
「え?。だって、彼ら、仲間じゃ無いんですか?。」
「ああ、そうだよ。仲間だ。だが、ああいう組織の仲間だ。そして、今度の件は、チビが指揮を執ってたろ?。」
「あ、はい。」
「じゃあ、ヤツが仕掛け人だ。この仕事を手柄に、上にのし上がる気だろう。そして、その件を知ってる人間を全て片づけて、また静かに仕事を始める。」
「じゃあ、上の席を得るための、資金稼ぎだったんですか?。」
「そういうことだ。ただし、それだけじゃ無え。」
そういうと、男は助手席の尋に近付いて、小声で話した。
「これは此処だけの話だ。今回の件、全く外に漏れてねえだろ?。」
「ええ。」
「そうなるように、チビがメディアを握る有力者に依頼したらしい。その見返りに、その有力者の政敵を黙らせるように頼まれたらしい。そういう話は、こっちの耳にも入る。そうなると、次にまた大きい仕事が来る。人数か、あるいは大物か。」
それをきいて、尋は驚いた。まさかそんな大がかりなことに自身が加担していようとは。しかし、
「でも・・、」
「何だ?。」
「政治絡みにしては、年配者はいなかったような・・、」
「バカヤロウ!。議員様がホイホイ消えたら、国家を挙げての大騒動だろ!。その支配下で、何か情報を持ってる連中を一掃したんじゃ無えのか。出版関係とか、そういうのをよ。」
尋は麻酔を打った際の、検体の様子を思い出していた。人は深い麻酔にかけられて眠ると、殊の外、表情を失う。そんなとき、尋は検体の手を見ることがよくあった。注射の際、手には必然的に触れる。その手触りだけは、顔の皺よりも、その人物の履歴となる。厚み、硬さ、しなやかさ、色合い。検体の人となりは一切聞かされてはいなかったが、尋は何気に、そういったものを、去り逝く者達の記憶として、頭の中に感触として残していた。
「そういえば、爪の間が妙に黒かった人が何人も・・。」
尋がそういうと、
「なら、ビンゴだ。直接手を下さなくとも、それだけのことをされりゃ、バッジを付けたお偉い先生も黙るって寸法さ。さっきのお前の話、聞かなかったことにしておくぜ。だから・・、」
「はい。車内はジャズしか流れてませんでした。」
それ以降、二人は特に言葉を交わさなかった。
後日、大学にいる尋に携帯が入った。
「プルルルル。」
「はい、尋です。」
「私だ。」
いつもとは超えた違った。背の高い男からだった。
「報酬を渡す。かなりの量だ。何か足が必要だ。今日午後11時。足を調達したら、指定の場所に来るように。以上だ。」
携帯を切ると、
「足・・かあ。」
と、尋は車の調達に気がいった。受け取る報酬のことも、声の主がいつもと違うことも、殆ど気には留めなかった。日頃のストイックな生活ぶりが、ここでも落ち着きを発揮させていた。授業を終えると、尋はそのままレンタカーを借りにいった。その間、町ゆく車を眺めながら、最も多い色合いを頭に刻んだ。そして、
「すみません。車を借りたいんですが。」
そういうと、尋は免許証を提示し、必要事項を書類を書き込んだ。
「どんなお車が?。」
受付の女性がたずねると、
「あの、二番目に止まってる紺色の小さいヤツを。」
そういって、振り向きざまにその車を指差した。地味で若干汚れていた洗車前の車を、何でわざわざと女性は少し訝ったが、手続き通りに鍵を手渡した。尋は車に乗ると、そのまま発進させて、慣らし運転をした。
「悪くないか。」
兎に角、目立たない車を、ほぼ誰の目にも触れないように、尋は前後の車に車間を合わせながら流れについていった。暫く走ると、車をコンビニの駐車場に止めて、尋は缶コーヒーを買った。車に乗り込み、蓋を開けてコーヒーを飲むと、
「取り敢えず、ノッポだったな。さて、指定場所はどうなるか・・。」
そういいながら、尋は車の天井を見つめつつ一寝入りした。
「プルルル。」
突然、尋の携帯が鳴った。パッと目覚めると、尋は携帯に出た。
「はい。尋です。」
「私だ。一番最初に会った場所を覚えているか?。」
背の高い男からだった。
「はい。」
「其処へ来るように。」
そういうと、男は携帯を切った。尋は飲みかけのコーヒーを飲み干すと、車を発進させて、指定された場所に向かった。うろ覚えではあったが、尋は高速に乗り、見覚えのある景色の辺りで下りると山道を走った。暫くすると、件の白い洋館が見えてきた。この場所になったことを、尋はワン達に知らせた方がいいか、一瞬迷った。しかし、探りを入れるならば一人で状況を確かめた方がいいと判断した。車を止めて、ドアの前に立つと、
「コンコンコン、コンコン、コン。」
尋は最初に聞いたノックのリズムを覚えていた。すると、静かにドアが開いた。其処には背の高いあの男が一人立っていた。
「中へ。」
誘われるがままに、尋は建物に入っていった。最初に会った時と同様、細く薄暗い通路を抜けると、今回は一番奥の部屋に通された。
「さ、報酬だ。」
見ると、小さい段ボールの箱が幾つか床に置かれていた。尋は横にある台車を借りて、その箱を全て乗せた。と、そのとき、尋は部屋の隅に見覚えのある袋が置かれているのに気付いた。それは間違いなく、検体を入れる袋だった。しかも、人体と同じぐらいの膨らみがあった。余計なことを尋ねずに立ち去ることも出来た。いや、寧ろその方が普通だろう。しかし、
「あの、そこの袋は・・?。」
尋は敢えてたずねた。すると、
「粛正だ。我々は、政治には与(くみ)しない。ヤツはその掟を破った。」
珍しく、男は指示以外の話をしながら、袋の方を見つめた。袋の中身は、恐らく背の低い男と配下の数名だろうと、尋は直感した。
「ところで、」
男は話を続けた。
「妙なものを見つけたんだが。」
そういうと、男はズボンのポケットから何かを取り出した。そして、それを指で摘まみながら薄明かりにかざした。それは小さなマイクだった。尋はその様子を横目で見ながら、瞬時にあらゆるシミュレーションを行った。
「見つかったと思われたら、オレはやられる。同じように、あの袋に詰められて並べられる。だが、それが何かすら知らないように振る舞えば、例え彼が何を手にしていようが、オレには関係無い。さあ、どうする。」
尋は台車を押しながら、とぼけることをせずに、
「マイクですね。」
とだけ答えた。すると、男はそれを中に放り投げると、パッと右手で握って、
「恐らく、こいつらが仕込んだんだろう。ご苦労だった。」
そういうと、男は尋に背を向けて右手を挙げた。尋は何事も無かったかのように、箱の乗った台車を車の所まで運び、積み込みが終わると、再び台車を元のところに戻しにいった。男はラップトップを開きながら青白い画面を見つつ、何やら操作していた。尋は一礼して退室した。そのまま細い通路をゆっくりと歩きながら、後ろからズドンとやられる恐怖と戦っていた。
「走るな。ふり向くな。」
もし、男が袋の中の人物にマイクのことを聞き、それを知らないといったならば、今度は自分が疑われるかも知れない。あるいは、もう既にカマをかけられていて、マイクのことはお見通しかも知れない。いずれにしても、一連の作業の中で、マイクが介在していることは、あの男の知るところとなってしまった。尋は車に乗り、発信させた。そして、
「例え何処までも逃げたところで、居場所なんてすぐに突きとめられるだろう。ならば、逃げても逃げなくても、オレの運命は既にヤツの手の中にある。ならば、オレがするべきことは・・、」
そう考えながら、尋は街灯を頼りに元来た道を走っていった。このとき、尋の心の中に、一つの確信めいた考えが浮かんでいた。
「それを確かめずに、オレは死ねない。」
取り敢えず、今回の報酬を白いスーツの男に返すことで、身の自由は得られる。しかし、それだけだった。今の尋には、最早それだけでは全然物足りなかった。自らの行いが如何に人間のとるべき行動範囲を超えているのか、いや、例え行動規範があったとしても、それが一体何になるのか。彼の知りたいものは、そんな世にある他愛も無いものではなく、その先にある何かだった。そして、それを知る前の、ほんの束の間の休息出来る場所が、今尋が向かっている場所だった。
「誰も付けて来てない。」
尋は定期的に後方の車の車種が変わっているのを確認しつつ運転していた。そして、彼は目的の場所に着いた。コインパーキングに車を止めると、尋はワンの店に向かった。時折、左右を見ては誰も居ないのを確かめて、尋は暖簾を潜った。
「こんばんわ。」
「いらっしゃい。あー、尋さん。どうぞ。」
ワンはにこやかに尋を迎え入れた。そして、
「連絡するかい?。」
と、ワンは白いスーツの男を呼ぶかどうかを尋に尋ねた。尋は黙って頷いた。そして、カウンター席に座ると、
「すいません。何でもいいのでお願いします。」
と、空腹を満たすべく、ワンに注文した。
「今日は普通ので大丈夫そうね。」
そういうと、ワンは鍋を振るった。
「はい、お待ちどう。」
カウンター席に、炒飯と餃子が置かれた。尋は手を合わせると、レンゲで炒飯を、割り箸で餃子を黙々と食べた。その様子を、ワンは静かに眺めていた。程なくして、
「よう。」
と、白いスーツの男が現れた。尋は食事を中断して礼をしようとしたが、男は尋の背中をポンと叩いて、
「いいから食えって。ワン、オレも同じのを頼む。あと、ビールもな。」
そういいながら、尋の横に座った。
「はい、お待ちどう。」
男の前にも炒飯と餃子が置かれた。男も尋と同じく黙々と食べては、時折ビールを飲んだ。そして二人は一頻り食べ終えると、
「上、いけるか?。」
と、男はワンに合図した。ワンは黙って頷いた。
「よし。」
男はそういうと、尋を誘って二階へ上がっていった。そして、二人は座敷席に座ると、遅れてワンもやって来て、後ろ手で襖を閉めた。
「危ない目に遭いそうだったか?。」
男は心配しながらたずねた。尋はマイクのことが気になったが、自分以外は誰も知らないことだったので、そのことには触れず、
「いえ。」
とだけ答えた。
「じゃあ、順を追って話してくれ。」
「報酬が多いとの連絡があったので、レンタカーで例の屋敷まで向かいました。」
「山奥のか?。」
「はい。それで、中に入ると、段ボール箱に小分けにされた報酬を受け取って、そのままこちらに来ました。」
「で、相手は?。」
「背の高い人でした。」
「ノッポか・・。」
男はワンと顔を見合わせると、少しホッとした様な顔をした。
「それ以外に、何か変わったことは?。」
男がたずねると、
「背の低い男性は、粛正されたとのことでした。政治に関与した仕事を受けたからとか・・。」
と、背の高い男性から聞かされたことを答えた。
「では、その背の低い男の姿は、もう無かったですか?。」
ワンがたずねた。尋は一瞬、答えようか迷ったが、
「ボクが通された部屋に、大きな袋が幾つか並んでました。恐らくは・・、」
尋がそういいかけたとき、
「見せしめ・・かあ。」
白いスーツの男は、口元を押さえながら呟いた。ワンも腕組みをして顎を撫でながら、唸った。
「オメーはヤツに信用されてる。見せる必要の無いものが置かれてたとなると、それは多分、ワザとだ。見せたくなければ、片付けてからオメーを呼べばいい。なのに、そうしなかった。以後も、忠誠を誓って働けっていう、いわば意思表示だろう。」
男がそういうと、
「大陸寄りの勢力を排除したってのもあるかもですね。」
ワンは、そう推測を述べた。
「しかし、件の政治家への貸しは、宙に浮いたままになりますね?。」
「ああ。確かにな。だが、ノッポはそういうのには、手は出さねえだろうな。そして、その件を誰かに売ることも無えだろう。仮に、そいつをネタに、依頼主を強請ったとしても、泥仕合の末に、芋蔓でお陀仏だ。依頼主も政敵も、状況が掴めずに、震えて黙り込むしか無えだろうな。」
男はそういうと、席を立った。
「よし。この話はひとまず、これでお終いだ。」
そういうと、三人は一階へ下りていった。そして、
「ワン、ご苦労だったな。少ないけど、取っといてくれ。こいつを面倒見てくれた礼だ。」
そういうと、男はワンに四の五のいわさず、分厚い封筒を手渡した。
「解りました。すみません。なんかあった時は、何時でもどうぞ。」
ワンは丁寧にお辞儀をして、二人を見送った。尋はお辞儀を、男は右手を挙げながら、ワンの店を去った。
「ところで、報酬は持って来てるのか?。」
歩きながら、男がたずねた。
「はい。車の中に。」
そういうと、尋は男を車の止めてある場所まで案内した。そして、トランクを開けようとしたとき、
「待て。」
男が小声で尋を制止した。コインパーキングの近くを、近付く車のヘッドライトが照らした。やがて、黒塗りのボックスカーが荷台現れて、パーキング前で入ってくると、二人の近くに止まった。
「お前は車に乗って、エンジンをかけてろ。何かあったら急発進して左へ曲がれ。一台分が抜けるスペースが空いてる。そのまま突っ切って、何処でもいいから車を乗り換えろ。」
そういって、男は尋を車に乗せた。すると、ボックスカーのサイドドアが開いて、中から男達が数人下りてきた。
「よう、兄貴。」
「おう。オメーらか。」
尋はその様子を車中から眺めていた。
「間違いない!。」
尋をこっぴどい目に遭わせたあの男と、カジノで見かけた男達だった。
「何か、でっけーシノギが入るとかで、そいつを受け取ってこいとオヤジにいわれましてね。」
「そうか。じゃあ、オヤジに確認してみるわ。」
男はそういって、携帯を取り出そうとしたとき、突然、周りの男達が彼を拉致して車に連れ込もうとした。そのとき、男は鋭い眼光を尋に送りつつ、
「あっち。」
と、目線を空いてるスペースに向けた。尋はそれに気付くと。車を急発進させた。
幸い、駐車中の車と彼らの車に当てること無く、尋の車は器用にギリギリ通り抜けて走り去った。そして、表通りに出ると可能な限りスピードを出してその場を離れた。何度か路地を曲がり、直線道路に出ては、追っ手が来ないことを確認すると、尋は速度を緩めた。すると突然、
「あれ?、何だ?。」
ハンドルが小刻みに揺れ出した。車の不良かと思ったが、そうでは無かった。尋の手が急に震えだしたのだった。人間の最後を幾度となく見て来て、そのような光景には免疫が出来ていると思っていた。が、しかし、闇カジノでの一件で半殺しの目に遭ったトラウマを、尋は久しく忘れていた。それが、あの日に自分に焼きを入れた人物の顔を見た途端、恐怖が蘇ったのだった。鼓動が早くなり、呼吸は浅くなった。全身が凍りついたように冷たく感じ、全身から妙な汗が噴き出すのを覚えた。
「落ち着け。落ち着くんだ・・。」
尋はそう自分にいい聞かせながら、運転を続けた。そして、ある光景を思い出した途端、体の力が一気に抜け、平安を取り戻していった。尋は車の天井を眺めながら、
「はーっ。」
と、溜息を吐いた。そして、何事も無かったかのように運転を続けた。暫く走りながら、
「車もだけど、まずはこの荷物かあ・・。」
と、尋はこの状況を全く悟られずに納める必要があると考えた。自身に関係する場所は、既に何らかの手が回っているかも知れない。そして、追っ手はまだ自分の現在地を知らない。そうなると、今しか無い。そのとき、道の脇にレンタルのトランクルームの表示が見えた。
「これか。」
尋は咄嗟にハンドルを切り、其処を管理している事務所らしき所で車を止めた。そして、事務所に入ると、
「すいません。一つ借りたいんですが。」
といって、事務員が差し出す書類に必要事項を書き込み、支払いを済ませて早速ルームを借りた。そして、鍵を預かると、車の中から段ボール箱を下ろして室内に運び込んだ。その後、鍵を閉めてそのまま車に乗り込み、今度はレンタカー屋に向かった。時折、バックミラーと目視で後ろを確認したが、付けられている様子は無かった。目的地の近くに着くと、尋はガソリンスタンドに車を止めて、満タンにした後、再び走り出した。そして、車を返した後、レンタカー屋を出て、
「さて、どーしたものか・・。」
と、次第に自身が今置かれている状況を自覚し始めた。このまま部屋に帰っても、彼らが、白いスーツの男を拉致した連中が待ち構えている可能性は高い。かといって、他に頼れる所も無い。ワンの店も恐らくは張られているか、既に手が回っているだろう。何処までのことを知られているのか解らなかったが、まずは何らかの連絡を待ちつつ、明日のことを、いや、このすぐ後のことを考えようとした。しかし、
「それにしても、あの時、何故・・、」
と、尋はあることを思い出した。車を走らせていた時、凍りつくほどの恐怖に震えながらも、落ち着きを取り戻すことが出来た切っ掛けとなった、あの光景だった。
「神。何故、彼の顔が・・。」
それは、浅く麻酔をかけた検体が目覚め、それに驚きつつも対話をする、神の姿だった。薄明かりの中で戸惑いながらも、検体の話に聞き入る神。そして、話が費えたそのとき、一気に作業を終えた、あの光景だった。それを思い出した途端、尋の心臓は元の鼓動を打ち、再び体温が戻るのを感じた。落ち着き払ったのだった。そして、今もまた、窮地に立たされているはずなのに、その光景を思い出すと、
「ま、何とかなるか。」
と、楽観的にすらなれたのだった。さらに、尋にはある種の確信めいたものが芽生えていた。そのとき、
「ブルルルル。」
尋の携帯が鳴った。
「はい、尋です。」
「オレだ。無事に逃げれたか?。」
白いスーツの男からだった。尋は安堵したように、
「はい。大丈夫です。」
と、力強く答えた。
「まだ帰って無いな?。」
「はい。」
「よし。じゃあ、今からいう所に来い。其処は安全だ。」
男は尋に場所を伝えると、すぐに携帯を切った。尋は直ぐさまいわれた場所に向かった。タクシーを拾うと、尋は運転手に場所を告げ、いわれた場所の近くまで向かった。そして、支払いを済ませると、植え込みや茂みの中を通り抜けて、目的の場所に辿り着いた。
「マンション・・か。」
閑静な住宅街の中に、比較的背の低いマンションだった。玄関ホールに入り、いわれた通りの部屋の番号の前に着くと、尋は携帯をかけた。
「もしもし、尋です。今着きました。」
そういうと、中からロックが解除され、
「よう。入れ。」
と、白いスーツの男が中へ誘った。すると、
「よう。尋さん。無事だったね!。よかったよかった。」
と、ワンも出迎えた。中は広いリビングになっていて、ワンは調理の途中だったらしく、
「今、美味いもん作るから、待っててね。」
そういって、台所に戻っていった。白いスーツの男は大きなソファーに座りながら缶ビールを飲んでいたが、顔には争った時に出来たであろう、大きな傷があった。
尋は男性の傷のことや、どのように逃げ果せたのかと、聞きたいことは山積みだった。しかし、生々しい傷跡を晒しながらも、男性は平然とビールを飲みながらTVを見ていた。すると、
「お前に気をつけろといっときながら、こっちの足元から火が着いちゃあ、世話無えよなあ・・。はは。」
そういって、強張っている尋を宥めようと、にこやかに語った。
「一体、何が?。」
尋がそう切り出した時、
「ん?、ま、要はオレのシノギが欲しかったんだろ。任されてるシノギだけじゃ、上に上り詰めるための資金が作れねえ。だから、みんな内緒で、いろんなシノギを探す。で、オレのシノギのうち、かなりの割合を、お前が占めてたって訳よ。」
男性は事のあらましを説明した。
「じゃあ、もう戻るってことは・・、」
「ああ。人を嵌めて、出し抜こうってぐらいの気概が無きゃ、この世界じゃのし上がねえ。オレも用心はしてたが、こうも足元を掬われるとはなあ。ま、今回の事が、どの程度、上からの絵図だったか・・だな。いずれにしても、それが解るまでは、顔は出せねえな。」
二人が話していると、
「さ、温かいもんが出来たよ。ドンドン食べて元気つけるね!。」
ワンが中華料理を三品ほど作って運んできた。
「おお、有り難てえ!。」
二人とも極度の緊張から一気に介抱されて、かなり空腹だった。男性は早速料理にがっついた。尋は手を合わせて、
「いただきます。」
というと、直ぐさま食べ始めた。その様子を見ながら、
「うんうん。じゃ、ワタシもいただくとしますか。」
そういいながら、三人向かい合わせの食事が始まった。
「ところで、ワンさんはどうして気付いたんです?。」
尋は自分と男性が巻き込まれたことなのに、何故彼が状況を知ることが出来たのか、不思議だった。
「それは、勘というやつね。今までの流れを知ってたのは、この三人だけじゃ無かった。そして、今日、尋さんが大金を運んで来るのは何だかの形で漏れてたね。案の定、二人を見送った時、妙な連中が付けてたのが見えたね。だから、直ぐさま店を畳んで、此処を用意したあるね。」
それを聞いて、尋はワンの手際のよさに驚いた。
「はは。お前が驚くのも無理は無え。コイツはただの中華料理屋の店主なんかじゃ無え。オレもこいつが何者なのか、未だに詳しくは知らねえ。ただ、絶大に信用の出来るパートナーだ。」
そういうと、男性は再びビールを飲みながら料理を食べた。
「ま、誰でも謎が多い方が面白いからね。」
ワンはそういうと、ゆっくりと料理を味わった。
それを聞いて、尋はこの三人の奇妙な関係性を何とも心地良く感じた。互いに詮索はし合わない。それでいて、いざというときに繋がる、そんな関係に。
「ところで、ワン。これだけのことがあると、オレかあいつらか、そのどちらかが弾き出されることになるが、その辺りは、どうだ?。」
「うーん、ワタシの知る限り、アナタの親爺さんがアナタを嵌めたという線は考え難いね。あの方は、一本気な方あるよ。かといって、彼らだけでアナタを嵌めるってのも、考え難いね。アナタ、優れてる。器量もいいし、度量もある。」
「よせやい。照れるぜ。」
ワンの言葉に、男性は余程気が緩んだのか、初めて笑った。それを見て尋も驚いた。
「いや、これ、ホントのことね。だからこそ、彼らがこんなことをやったとなると、後ろ盾があったと考えるのが自然ね。」
「それってーと・・?。」
男性はワンの目を見た。ワンは静かに頷き、
「恐らく、大陸の連中ね。ヤツらがアナタの所の者達を抱き込んで、太い依頼を呼び込もうとした可能性は高い。そして、ヤツらが今日粛正されたことを、彼らはまだ知らない。だから、アナタを嵌める指示だけが一人歩きしてた。」
「そうか。と、なると、オレをやるようにいった依頼主が消えたら、あいつらはオレの居なくなった組織で我が物顔ってことか。」
「いや、その前に、親爺さんがアナタが居なくなったことを訝るはず。もし、そうなったら・・、」
「親爺さんが危ない。」
男性とワンの会話を聞きながら、尋は推測した答えを、つい口に出してしまった。二人は顔を見合わせた後、尋を見た。
「その通り。」
男性とワンは、どちらからとも無く同じ相づちを打った。そして、
「じゃあ、早速・・、」
と、男性が立ち上がったとき、
「あの、このままいったとしても、まだ拭えてない疑念があります。」
「何だ?、そりゃ?。」
「失礼だとは思いますが、親爺さんが既に丸め込まれているかどうかが、解っていません。」
尋は男性に酷く叱責されるのを覚悟で、敢えていった。しかし、
「そこだ。そこなんだよなあ・・。」
と、男性も、ある程度予想はしていた。すると、
「確かめる方法は簡単よ。アナタが親爺さんに、自身の無事を伝えたらいいあるよ。そして、今日起きたことを端的に伝えて、誰が出迎えるかを確かめればいい。親爺さんだけなら白。そうでなければ・・。」
「オレだけが組から抜ければいいことだ。だな?。」
男性の言葉に、ワンは黙って頷いた。
「ようし。解った。これから白黒をつけにいこうか。尋、今からお前にいいモンを見せてやる。付いて来い。ワン、お前は外にいて、俺の指示を待て。いくぞ。」
三人はワンが用意した車に乗って出かけた。ワンが運転し、後部座席に尋と白いスーツの男が座った。そして、男は携帯をかけ出すと、
「もしもし、親爺ですか?。オレです。」
「おう、お前か。どうした?。」
「今から、大事な話がありますので、そちらに伺おうと思ってます。」
「そのようだな。何やら、下のモンが騒々しくてな。お前の気がふれたとかで、連絡があっても取り合うなというてきおった。」
「そうかどうかは、直接見て、ご判断下さい。」
「うん。解った。」
相手が切ったのを確かめると、男も携帯を切った。
「さて、オレは白が好きって訳じゃ無えが、この件に関しては白だ。だが、白も黒に変えられちまうのが、ま、この世界だ。そこでだ。今からそいつをハッキリつける。だが、その前に必要な物がある。」
「金・・ですね?。」
男の話に、尋が答えた。
「その通り。アイツに頼んで、面白い趣向をお前にみせてやろう。ただ、その場合、現金が要る。恐らく、オレの資金は押さえられてるだろう。」
男がそういうと、
「現金ならあります。」
「本当か?。」
尋は、ワンにトランクルームに向かうように伝えた。数分後、車が到着すると、尋は預かった鍵で、借りたルームのドアを開けた。
「例の報酬です。足りますか?、これで。」
「上出来だ!。」
ルーム内に並んでいる箱を見て、男の目が輝いた。そして、携帯で何処かに連絡を取ると、
「よし、いくぞ!。」
と、三人は箱の中身を黒い大きなバッグ二つに積み替えると、ワンの車に乗って目的の場所に向かった。暫く走ると、車は閑静な住宅街にやって来た。そんな中、一際異彩を放つ黒いマンションがあった。
「止めろ。」
男はワンにいった。マンションから数十メートル離れた場所で車を止めさせると、
「さて、いよいよだ。いいか?。尋、お前は俺と来い。そしてワン、この後、俺から指示が無ければ、それまでだ。だが、連絡を受けたら、」
「受けたら?。」
「祝杯の用意をして待ってろ。」
そういうと、男はワンとガッチリと握手を交わした。まるで、今生の別れであるかのように。
「幸運を。」
ワンは男の眼を真っ直ぐ見つめていった。
「幸運の女神は、コイツさ。」
男は尋の方を見ながら、ワンにそういった。そして、尋と男はバッグを肩に担ぎながら車を降りると、ワンは運転席から手を振りながら走り去っていった。二人は黒いマンションに向かって歩いていった。すると、
「こんばんわ。」
と、突然、暗がりの路地から背の高い男が現れた。ノッポだった。尋は驚いた。
「手はず通りにしておきました。よろしいんですね?。」
背の高い男はしろの男にたずねた。
「ああ、ご苦労さんだったな。これが依頼の金だ。」
そういうと、男は黒いバッグのチャックを開いて、中を見せた。
「解りました。では、後はワタシと彼とで、しっかり行っておきます。」
そういうと、尋を見つめた。彼は一体、どのような段取りになっているのか、全く理解出来ないままだった。すると、
「いいか、尋。お前も大概の地獄は見て来ただろう。これからお前が目にするのは、本当の裁きというやつだ。彼の指示に従って、ちゃんと仕事をしろ。そうすれば、裁きのゆく末が見られる。いいな。」
そう聞いても、尋はこの後一体、何が起こるのかサッパリ解らなかった。背の高い男は、何をいうでも無く、ただずっしりと重いはずのバッグを、軽々と量出て持ち上げて、肩に担いだ。そして、二人に一礼すると、その場を離れた。マンションの入り口付近に来ると、男は部屋の番号を押した。
「誰だ?。」
「ワタシです。今、着きました。」
「よし。上がれ。」
そういうと、重厚なガラス戸が開き、二人は中へ誘われた。そして、エレベーターで二階へ上がると、一つしか無いドアをノックした。すると、中からドアが開き、
「どうぞ。」
と、二人は厳めしい男にいわれるがままに、奥へと進んだ。そして、襖を開けると、そこにはちょっとした酒席が設けられていた。そして、部屋の左側の席には、さっき駐車場で拉致騒動を起こした男達が、神妙な表情で座っていた。しかし、尋達を見るや否や、眼光鋭く二人を睨み付けた。
「おう。よう来た。ま、座れ。」
と、上座に座ったまま、着物姿の老人が、二人を右側に座らせた。
「はて、そちらの青年は?。」
と、老人がたずねた。
「ワタシの内輪同然の者です。杯は交わしておりませんが。」
「ああ、そうか。」
そういうと、老人はにこやかな顔になって、
「両名とも、こんな時間にご苦労やったな。何やらワシの知らんところで、仲違いが起きとるようやが、このままではお互い、気まずかろうと思おてな。で、この際、両方がまみえて、腹を割って話すのが一番やと思おてな。」
そういうと、老人は杯を持って、
「良き会合となるように。乾杯!。」
と、杯を仰いだ。それに伴い、両側の全員も。同じように杯を仰いだ。
すると突然、
「オヤジ。折角の席ですが、この中に面汚しが混じってます。」
そういうと、厳めしい顔をした男が白いスーツの男を睨み付けた。
「ほほう。して、どのようにや?。」
「はい。シノギの計上が二重になっていて、こちらへは僅かに入れて、残りで私腹を肥やしとるようです。」
「そういうとるが、お前はどうじゃ?。」
老人は飄々とした顔で、白いスーツの男にたずねた。すると、男は静かに杯を仰ぎながら、
「口幅ったいことは、此処ではいりません。本当の宴(うたげ)は、これからです。後ほど、ご存分にお楽しみを。」
そういって、尋の右腕を掴むと、
「後は頼んだ!。」
そういって、彼はその場に倒れ込んだ。厳めしい顔の男も、何事かと覗き込もうとしたが、
「バタっ。」
「バタっ。」
「バタっ。」
と、老人と尋を残して、全ての男達がその場に倒れ込んだ。何事かと、尋は呆気に取られていた。すると、
「これで、よいのかな?。」
と、老人はパンパンと手を二回叩いた。
「ご苦労様でした。」
そういいながら、背の高い男が台車に袋を人数分積んで、部屋に入ってきた。そして、尋の方を見ると、
「時間が無い。急げ。」
と、尋に合図をした。そして、尋と二人で男達を次々と袋に詰めると、表まで運び出して、用意してあるトラックに乗せた。
「ご足労願えますか?。」
「うん。無論。」
背の高い男がそういうと、老人は承諾した。そして、尋がトラックを運転し、その横に背の高い男、後ろに老人が乗り込んだ。
「例の場所へ。」
背の高い男は尋に告げた。尋は聞き返さず小さく頷くと、いつもの倉庫に向かった。速度超過や信号に細心の注意を払って、尋は運転をつづけった。程なくして、いつもの埠頭に差し掛かると、背の高い男は携帯で何処かに連絡を取った。
「ワタシだ。もうすぐ着く。」
彼が携帯を切ると、車は倉庫の横辺りに着いた。男と尋はトラックを降りると、一つ一つの袋を倉庫内に運び込んだ。
「よし。首だけ出せ。」
男は尋に指示し、袋の中で眠っている男達の首だけをだして、根元を紐で縛った。そして、全ての袋を横一列に並べて置いた。男は椅子を一つ用意して、老人を座らせた。
「あと九分程で、全員目覚めます。」
尋は外に置いてあるトラックを倉庫の裏に移動させた。すると、プラントのライトが月明かりのように、首が出た袋を青白く照らした。
「うっ、此処は一体・・?。」
九分丁度で、男達は次々に目覚めだした。そして、全員が正面にいる老人に気付いた。
「親爺。これは一体、どーいうことですか?。」
厳めしい顔の男が声を荒げると、
「うん、ちょっとした掃除じゃ。」
と、老人は答えた。白いスーツの男は、目を閉じて微笑みを浮かべてるように見えた。
「何でワシらがこんな目に?。親爺の裏かいて上がりをため込んでたのは、宇ヤツですぜ!。」
「そうだ!。」
「そうだ!。」
酒席で白いスーツの男と対峙して座っていた連中は、口々にそういった。すると、
「うん・・。お前達のいい分は解った。証拠がどうの、裏を掻くがどうのといったところで、所詮は泥仕合。美しゅうは無いわなあ。しからば、どうやって身の証を立てる?。ん?。」
老人がたずねると、
「こうなってしまった落ち度は、オレにもあります。どうかご存分に。」
白いスーツの男はそういうと、涼しげな目で老人を見た。
「そういうておるが、どうじゃ?。」
老人は厳めしい顔の男達に再びたずねた。
「そうだ!、そいつが悪いんだ。そいつが資金を貯め込んで、組織を乗っ取ろうと・・、」
男達の悪あがきに、老人はしかめっ面をした。すると、背の高い男が老人の耳元で、何やら呟いた。
「今、この方から伺ったんやが、大陸の連中なら、もうアテには出来んそうじゃ。みな、逝ったそうじゃ。」
それを聞いて、男達の表情に失望感が滲み出た。
「ま、上のもんを食ってやるぐらいで無きゃ、この世界は勤まらん。じゃが、筋目を違えたもんには、然るべき報いがある。それが、物事の理(ことわり)じゃ。」
老人はそういうと、背の高い男の方を見た。
「お願いしますわ。」
そういうと、男は尋の方を見て、
「もう着いた頃だ。中へ入れろ。」
と、先ほど携帯で呼び寄せた人物を連れて来るように命じた。尋は黙って合図地を打つと、ドアの方まで歩いていった。すると、光の中に、丸くズングリとした男のシルエットがあった。
「神だ。」
尋はすぐに気付いた。尋はドアを開け、彼を中へ誘った。神は何の躊躇も無く、真っ直ぐと背の高い男の元に歩いていった。すると、男は神に指示を出した。神は担いできた道具箱を床に置くと蓋を開けて、中から様々な作業具を取りだした。
「ご協力感謝します。我々も粛正が完了しました。そちらも、獅子身中の虫を一掃出来るかと。ご覧になられますか?。」
男は老人にたずねた。
「うん・・、本来なら、杯を交わした子じゃからのう。最期を見届けるのも務めとは思うんやが、何せこの歳、キツいのはちょっとなあ・・。」
そういって、老人は倉庫を出ていった。
神は早速、作業にかかろうとした。
「アナタはどうされますか?。」
と、背の高い男は白いスーツの男にたずねた。
「親爺が立ち会わないとあっちゃあ、オレが見届けねー訳にはいかねえ。同じ釜の飯を食った間柄だしな。」
白いスーツの男がそういうと、背の高い男は袋の紐を解こうとした。
「いや。このままにしといてくれ。状況が状況なら、オレがやられてても、おかしくは無かったからな。」
「解りました。」
彼の言葉に、背の高い男は紐を解くのを辞めた。そして、
「キミはもう、いきたまえ。」
そういって、尋にこの場を立ち去るように指示した。
「はい。」
尋はそういうと、白いスーツの男に目で合図をして倉庫を出た。
神は道具の準備を整えると、端から一人ずつ処理にかかった。
「ヤメロ!、やめてくれ!。頼む。」
懇願の声も虚しく、その声は瞬時に断末魔の叫びに変わった。次に異聞の順番が回ってくる男は、口から泡を吹いて震えていた。袋から逃れようと、必死に藻掻く者、泣き叫んで運命を呪う者、最後の有り様は、様々だった。背の高い男は外と倉庫内を往復し、処理の終わった検体とクーラーボックスを次々と外に運んだ。努めて作業を見ようとはしなかった。
「おい!、何とかいえよ!。さぞかし勝ち誇って、いい気分だろうよ。」
厳めしい顔の男は、白いスーツの男にそう叫んだ。しかし、男はいたって冷静だった。
「本当に、そう思うか?。オレ達は、漢を売る商売だ。お前達がこうなったのは、自身を金で売っちまったからじゃ無えのか?。そういうのを見ていて、おのれの才覚の無さに鉄槌が下るのを、気持ち良く見てられるとでも思うのか?。」
そういうと、男はひたすら、神の作業を凝視した。それが自分への報いであるといわんばかりに。やがて、最後の一人が作業にかけられ、全ての工程が終わったとき、神は男の前にやってきて、手に持った血まみれの刃物で、袋の紐を切った。
「指示があったから。どうぞ。」
神は男に淡々といった。数々の修羅場を潜った男も、これほどの惨状は初めてだった。袋から自身を出させなかったのは、恐怖の余り、何処かへいってしまいそうになるのを防ぐためでもあった。しかし、そうはならなかった。寧ろ、食い入るように、作業を見つめた。そこには経験したことの無い感覚が飛来していた。
「名は?。」
「ボク、神。」
「神・・か。相応しい名だ。」
男はそういうと、自身で袋から出て来て、ゆっくりと出口に向かった。入れ違いに、背の高い男がやってきて、たずねた。
「どうでしたか?。」
「なかなかのショーだったぜ。」
そういうと、男は右手を差し出した。それを見て、背の高い男も右手を差し出し、握手を交わした。
「これからも、頼むわ。」
「こちらこそ。」
そういうと、男は煙草をくわえながら、静かに波止場を去った。背の高い男が後片付けをしていると、
「あの人、名前聞いた。あの人、いい人かなあ?。」
そう神がたずねた。
「そう思うか?。」
「うん。」
「お前がそう思うんなら、きっといい人だ。」
そういって、男は神の肩をポンポンと叩いた。神も全ての工具を終い、二人は車に乗って倉庫を後にした。
数日後、臨時休業していたワンの店が再開した。大学が終わった尋は、ワンの店に顔を出した。
「こんにちは。」
「いらっしゃ・・、ああ、尋さん。奥へどうぞ。」
尋はカウンターの一番奥に座ると、いつものように炒飯と餃子を注文した。
「あの・・、」
「来てないよ。あの日以来。連絡しようか?。」
「いえ。」
尋は、白いスーツの男が、どのような気持ちであの作業を見届けたのかと、気になった。自分は全く関係の無い人間が処されているのを見ただけだったが、それでも最初は相当にキツかった。しかし、彼は違う。例え自分を裏切って嵌めたとはいえ、元仲間が処されるのを見た。いや、見ようと決心していた。それを考えると、いくら厳しい世界に生きる男とはいえ、そっとしておくのがいいだろうと、尋は思った。
「はい、炒飯と餃子、お待たせ。」
「いただきます。」
尋は湯気の上がった料理を前に、割り箸を割ると早速、料理に貪りついた。
「ハフハフ。美味しいです。」
「ははは。誰も取りゃしないから、ゆっくり食べるね。」
ワンはそういうと、厨房に戻って、調理を続けた。その後も、尋は誰かが来る度に入り口の辺りに視線を送ったが、とうとう、彼は来なかった。
「じゃあ、ボク、いきます。」
「来たら連絡しよーか?。」
「いえ、いいです。じゃ。」
そういうと、尋は支払いを済ませて店を出た。
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