「名領主でいらっしゃいます」

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 まず大前提として、通常、使用人の部屋は地階と呼ばれる地下に設置されている。その上で、男女は分けられていたとしても、ぎゅうぎゅうに詰め込まれるようにして、窮屈で不衛生な共同生活を送るものなのである。  だがこの邸宅では、地下にあるのは倉庫と食品貯蔵庫くらいで、使用人の部屋は存在しない。使用人部屋も使用人ホールも全て一階にあり、大きく取られた窓からは、いつでも明るい光が差し込み、新鮮な空気を吸うことができる。  そもそも使用人の数が少ないということもあるが、人数に対して十分な広さも確保されている。男部屋はネイサン、ダグラス、ロウの三人だけであるし、女部屋はリリーと、コックを務めるベロニカの二人だけだ。  その上、些細な人数の変化に対してまで細やかに使用人の様子を気遣うエヴァンは、世間一般からすれば、変人と呼ばれてもおかしくはない。  一四歳の時からフットマンとしてエヴァンに仕えているネイサンでさえ、エヴァンの今の言葉には、敬愛の情をいっそう深めずにはいられなかった。 「ご主人様、伺ってもよろしいでしょうか」 「構わないよ、なんだい?」 「ありがとうございます。僕はお仕えすること自体ご主人様が初めてで、他の使用人をめし抱えている方々が、どのように使用人と接しているのか、詳しいことはよく知りません。しかし、ご主人様ほど使用人を大切にしてくださる方は、この世に二人といらっしゃらないということは、理解しております」 「そんなことはないと思うが」  軽く笑って否定するエヴァンにネイサンは首を振り、言葉を続けた。 「ご主人様は、どうしてそこまで使用人を気遣ってくださるのですか? 実はギルバートさんから、ご主人様は一二歳頃からルテスーンの邸宅にいた使用人たちと、よく接するようになったと聞いたことがあります。何かきっかけがあったのでしょうか」  ネイサンからの問いかけに、エヴァンは少しだけ間を置いた。二口残っていたタルトをぺろりと食べてしまうと、再度カップを持ち上げて、芳しい香を放つ紅茶を口に含み、嚥下する。 「たいしたことではないのだが。きっかけは、父について王都へ行った時に見た光景だな。あれはどこの荘園のことだったか忘れてしまったが、王都へ向かう途中に通りがかった町で、小さな暴動のようなものが起きていたのだ」 「暴動ですか。それは物騒ですね」  ネイサンの相槌にエヴァンは軽く頷きながら、言葉を続ける。 「俺はすぐに警護をしてくれていた騎士たちに離されてしまったし、何がきっかけで起きた、どういう種類の暴動だったのかはわからない。だが、農民や平民たちがフライパンとか農具とかを持って、必死に兵士たちと戦おうとしていた。なぜかパンとか野菜とかも宙を舞っていてね。まずその、様々な人の入り乱れる状況が幼い俺には刺激が強かったが。もっとも印象深いのは、その暴動があらかたおさまった後だ」  話しながら、エヴァンは口元に笑みを浮かべる。 「暴動の後に道端に転がっている食べ物を、拾って食べようとしている、俺と年齢の近そうな子どもがいたのだ。どれも踏み荒らされてぐちゃぐちゃになっているものだったのに、だよ。そうしたら、それを見ていたどこかのメイドがやってきて、少年に綺麗なパンと、干し肉を与えていた。少年はその場で与えられた食べものを全て食べきってしまった。彼らには、上等な服を着た俺のことは、見えていないかのようだったよ。存在している場所が違うみたいだった」 「それで、使用人というものに興味が湧いたのですか?」 「そうだね。暴動で見えた、身分を超えての人としての言動、メイド自身も決して豊かではないだろうに、それでも他人に食べ物を与えようとする姿勢。そして、その場とは奇妙に隔離された自分。そんなものがすべてないまぜになって、身分とは何か、使用人とは何かと考えるうちに、俺の身近にいる者たちのことが気になりだした。そして人となりを知れば知るほど、身分というものがよくわからなくなったよ」  エヴァンの顔に浮かんでいた笑顔は、いつしかどこか切なそうな表情へと変化していた。主のそんな顔を見て、ネイサンは思わず言葉を返す。 「僕は、ご主人様にお仕えできることを、心から幸せに思います」  エヴァンはネイサンを見て、碧玉のような瞳を細め、嬉しそうに微笑んだのだった。
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