記憶の紐とき

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「お持ちしましょうか?」 「えっ」 「小雨も降ってきましたし、私がお宅まで運んだ方が早いと思います」 20代と思しき女が、そう言って、酒井道子の両手に下げられた買い物袋をものの見事に取る。 すたすたと先を行く娘にあ然としながらも、特売の味噌や瓶詰めの調味料などを買いこんだ重荷から解放されたのは有難かった。 女は、初対面にも拘わらず、道子が米寿の夫と二人住まいの家に迷うことなく突き進む。 「後は家の中に入れるだけだから、ここでいいです」 「そうですか?あっ、私、こういう者です。 宜しければ、お見知りおき下さい」 と言うが早いか、女は、さっと身をひるがえし道子の家の敷地外へと消えた。 10月中旬、居間には、高齢となりめっきり寒さに弱くなった夫の為、炬燵が出してある。 買ってきた商品を所定の場所に収めた後、道子は炬燵で背を丸くしてテレビを見ている夫、昌平に一連の話をした。 「で、その名前に心当たりはないのか?」 「多分、私らが八百屋をやっていた時の関係だとは思うんだけど…」 「確かに、当時、幼い子を連れたお母さん達がよく来てくれたしな」 50年ほど前、酒井昌平と妻、道子は、駅裏の商店街の一角で青果店を始めた。 二人共、千葉の農家の出で、野菜の品定めにはそれなりの自信を持っていた。 当時は、夕刻、主婦達が挙って夕飯の食材を買いに街に繰り出し、肉屋、魚屋、青果店、豆腐屋と、各小売店を回って、商品を買い求めたものだった。 今となっては、その面影もないが、かつて道子は、店で評判の肝っ玉母さんとして、その名を知られる存在だった。 高度成長期という時代背景もあり、市場から仕入れた青果は全て売れ、昼の休憩も夫婦交代で20分取れれば良い方だった。 そんな中、道子が懐妊し 「流石に商売にも影響が出るのでは?」 と夫婦で危惧したのだが、客達の協力などもあり、昌平一人で何とか乗り切れた。 しかし、その時授かった一粒種の息子も、大学時代の登山にて滑落死してしまう。 がっくりと気を落とし、心の中にぽっかりとあいた穴を埋める事もままならなかった酒井夫婦に、馴染み客から励ましの言葉がかけられ、尚且つ店の忙しさも手伝い、二人は時間の経過と引き換えに日常を取り戻す。 息子の事を忘れる事は1日たりとも無いとしていた二人ではあったが、時を経て、遺影に目を留める事も少なくなってきていた。 目黒薫は、勤務先での講義を終え、行きつけのカフェで一息ついていた。 中学入学と同時に、東京から、母の実家がある栃木県へと引っ越し、地元の高校を卒業後、トリマー養成学校で学んだ。 在学中、講師でも手こずった猫のシャンプーをやってのけた薫は、その腕を買われ、将来は学生を教えるインストラクターになるよう勧められる。 薫自身、学校を出て、実践の場で経験を積む必要があると考えていたので、いくつかのペットショップでのバイトを掛け持ちするようにして、トリミングの技を習得していった。 修行の二年を終えると、各トリマー養成学校から声が掛かり、フリーのインストラクターとしてのスタートを切る。 仕事は順風満帆で、栃木にいる母への送金もそれなりに出来るようになった。 母は電話で 「50になったら、身体にガタがくると思ってたけど、まだまだ行けそうだよ。あと、20年は働きたい。何もしないでいたらボケてしまいそうで」 と言い、まだまだ引っ込む訳にはいかないという意思を表明する。 「そういうのを、貧乏性って言うんだよ」 「あんたが結婚して、孫の顔でも見せてくれたらね。どんなにいいか」 最終的には藪蛇となり、お互いに煮え切らないまま電話を切る。 母は栃木の高校を卒業後、就職先の信用金庫で、ある男性客に見初められ三か月の交際を経て結婚する。 地元の有力者を呼んで、盛大に行われた披露宴。 母にとっては、人生初の海外旅行となるアカプルコへの新婚旅行。 それら全てが今までの母の人生とかけ離れたもので、母自身、その変化に対応しきれていなかったと言う。 さらに、家では、小姑からの陰湿な嫌がらせに悩まされた。 義姉はいわゆる出戻りだった。 義理の両親は、不平不満言う事なく、たんたんと家事をやりこなす嫁を褒める。しかるべき時に精神の鍛練が為されてこなかった義姉にはそれが面白くなく、事あるごとに義妹である母をいたぶった。 母が義母に、短時間でも外に出て働きたいと申し出ても 「とんでもない。うちの嫁が外で働くなんて」 と却下されてしまう。 少しでも義姉から遠ざかりたいとしていた母の画策は、打ち砕け  ”こんなはずではなかった”という思いは日増しに強くなっていく。 父は父で余所に女を作り、母にとっては、八方ふさがりの結婚生活に何の価値も見出せず、私を連れて家を出た。 小作農から抜け出せなかった家で育った母にとって、自力で稼ぐ事は、常に心に抱き続けた願望だった。 やっとの思いで婚家を出た母は、3Kだろうが4Kだろうが、どんな仕事であれ、やってのけた。 出先で、もらった菓子などは、大切に家に持ち帰り、一人娘に食べさせる。 母は常に自分を一番に考えてくれ、育ててくれた。 そのおかげもあってか、時に横道に逸れる恐れもあった薫の人生は見事にそれらをはね返していった。 夫とのささやかな夕食の後、酒井道子は、ふと思う所があって、仕舞ってあった古いアルバムを探しだし、うつらうつらしている夫を無視してページを繰る。 「あの若い人、何か引っ掛かるのよね。満更、知らない人でもないような素振りだったし」 そう考え、ページをめくっていくと、八百屋時代の写真に出くわす。 夫と道子は、客の相手で、撮影どころではなかった。にも拘わらず、店頭でのスナップ写真が多いのは何故なのだろう。 客の誰かが街を離れる際、挨拶に来て撮っていったり、カメラが趣味のご近所さんが撮影してくれたものなのだろうか? そうこうしているうちに、ある数枚の写真に目が留まり、見当違いのパズルのピースが所定の位置に収まるような感覚を覚える。 咄嗟に道子は、傍らで居眠り中の夫の肩を揺らして、意見を求める。 「何だよ」 「この写真の親子、覚えてる?」 「うん?あぁ、覚えてるよ。母親が翳りのあるいい女で、その反面、子供の方は愛嬌たっぷりの笑顔がかわいい子だった。親子でこうも似てないもんかねと思ってた記憶がある」 「名前、何だっけ」 「その隅に書いてあるじゃないか。えーっと」 昌平は、老眼鏡をかけて名前を読み上げる。 「そうそう。目黒かおるちゃんだ。他のお客さんにも可愛がられて、店のアイドルみたいな存在だった」 「アルバムなんか引っ張りだして。 俺がボケてないか確かめてみたのか」 「違うって。ほら、先日、荷物を家まで運んで来てくれたお嬢さんがいたでしょ。かつてのお客さんに関連しているんじゃないかと思って、見てみたの」 「偶然の一致にしては、話が出来すぎている気もするが、これだけ長く生きてるとそういう事もあるのかね」 昌平は、目的を果たした道子からアルバムを受け継ぐと、懐かしそうに写真を見始めた。 2週間が経ち、酒井道子は夕方、いつものように買い物に出掛けようと支度をして家を出た。 通りに出ると、50m先に停まっている1台の乗用車から女性が降りてきて 「こんにちは、先日はどうも」 と、笑顔を向けてくる。 「あぁ、あの時の…」 「目黒薫です」 「あなた、薫ちゃんだったのね。 先日は思い出せなくて失礼しました」 「いいんです。 私がお目にかかりたいと思って押し掛けた形ですし。 これからお買い物ですか? お店までお送りします」 道子は、むげに断る理由もないと考え、車に乗る。 薫は、道子が告げた店の前に来ると 「おばさん、あのベンチに座って待ってて。私、地下駐車場に車を入れてきますから」 と言い、道子を降ろす。 道子と薫は、20分ほどで買い物を済ませ、家に戻った。 「薫ちゃん、どうぞ、上がって頂戴。 あなたの分のおかずも買ってきたから」 「えっ、いいんですか?申し訳ない。 あっ、これケーキです。冷蔵庫に入れておいて下さい」 「あら、悪いわね。じゃ、そこに入れておいてくれる?」 そう言って道子は、夫婦二人には不相応な容積の大きい冷蔵庫を指し示す。 居間では昌平が一人でテレビを見ており、突然の来客に驚きながらも、次第に記憶が甦ってきたようで 「いやー参ったな。あの薫ちゃんが、こんな綺麗なお嬢さんになって現れるなんて」 と手放しで喜んだ。 「お父さん、今日は天婦羅よ。温めて終わりだから、すぐご飯にしますね」 道子はそう言い、慣れた手つきで、味噌汁を作る。その間に惣菜を皿に盛り付け、炊飯器からご飯を装う。 凡そ10分程で食膳は整えられ、三人は黙々と食事に取りかかる。 テレビからはニュースが流れ、若いグループのようにワイワイガヤガヤとした雰囲気は無いものの、それぞれが咀嚼する音が静かにリズムを刻み、皿から惣菜が片付けられていく。 食後は、薫が買ってきたケーキが、コーヒーと共に振る舞われた。 「あの当時、私は子供で、何もわかっていなかったんです。母は日中、夜間と働きづめで私の片言のおしゃべりに耳を貸す余裕もなかった。 だから保育園の帰り、お店で色々な人に”いくつ” ”可愛いわね”って、声を掛けてもらえるのがうれしかった。構ってもらえるのが喜びだったんです。 それで御礼という訳ではないのですが、お二人に会いたくなって。 お元気な姿を見届けたら帰ろうと思ってたんですが」 「そうだったの。そうだ、アルバムがあるのよ」 道子は、隣室から一冊のアルバムを持ってくると、薫が写っている写真のページを開いた。 「本当に、今日はすっかりお邪魔してしまい、さらに夕飯までご馳走になりましてすみませんでした」 「薫ちゃん、また、遊びに来てね。こんな老夫婦の所で良かったら」 「そんな。私、この三時間ですっかり、パワーがみなぎりました。 仕事でエネルギーを消耗したら、又、寄らせて頂きます」 道子は、玄関先で薫を見送った後、薫が台所まで下げてくれた食器を洗う。 そして洗い物をしながら、薫に、先に逝った息子の話をしなかった事に気づいた。 「だって、もう50年になるのよ。人生これからの人に話して、しんみりしたってしょうがないじゃない。 悲しみに浸るのはもうたくさん。前向きに生きて行かなきゃ」 道子の両眼には、ぷわーっと涙が溜まっていったが、それが頬を伝うことはなかった。
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