子ども恋唄 大人の恋の唄

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『やくそくだよ?』 『うん! やくそく! わすれちゃ、だめだよ』  幼い声が震えていた。 理不尽な大人たちが決めた、小さい子どもたちの別れの挨拶。  夢に見るまで、忘れていたかわいらしい唄。叶うことのない、ちょっぴり切ない唄。  ぼんやり、授業のスライドを眺めながら、今日見た夢を思い出していた。  なんで、昔のことを夢に見たのだろう。  ここ最近、忙しくて過去を振り返るどころか、彼氏のことすらも放置しぎみなのに。遠距離愛というだけでも、離れてしまいそうなのに連絡もできていない。  一応、次のデートの日程は決まっている。それでも、カップルらしい会話何て最近していない。マンネリというかなんというか。  窓越しに見える今にも泣きそうな空を眺めながらそう思った。  そういえば、一年生の時に取った心理学の授業で「遠距離恋愛は相手を近くに感じられないから心が離れていく」と習った。 まさに、今の自分たちはそんな感じだろう。  授業のスライドに視線を移しつつ、重たい溜息を一つついた。 予鈴が鳴る。授業は終了だ。  今日は図書館に行かずに帰ろうか、そう思いながらカバンに荷物を詰めていく。  荷物をまとめ終えるころには、いつものメンツも帰り支度を済ませていた。じゃあ、帰ろうか、そう言って一緒に教室の外に出る。 エレベーターに乗って、建物に出るまでの会話は他愛のないもの。卒業後の進路とか、自分たちの卒業論文の進捗状況とか。  学部や所属しているゼミによって全然違うのが面白い。 大学院の話をすると、一人だけ羨ましそうに、寂しそうな顔をする仲間もいたけど、特に気にせずそういう話をする。気にしたら、いけないのだ。 他愛ない取り留めもないはなしをしながら建物を出ると、男に今日も図書館に行くのか聞かれた。  行かない、と答えると男はちょっと困ったような顔を押していた。どうやら、図書館に行きたいが、場所がわからなかったらしい。そこで、いつも図書館に行っているから付いていこうと思ったらしい。  別に急いで帰る用もなかったので、図書館まで案内することにした。 特に理由はないけど、なんとなくそうしたい気分だったというのもある。  私と男は、二人に別れを告げて図書館に向かうことにした。  図書館まではそんなに時間はかからないが、沈黙せず他愛のない話をつづけた。  将来の話、ゼミの話、それから今とっている授業の話。どれも他愛なく、いつも通りの会話。ただ一つを除いて。  どうして、そういう話になったのか、自分たちにもわからないが何故か最近見る夢の話になった。多分、私が睡眠の質に関する研究論文の話をしたからだとは思う。  よくわからないまま、夢で見た小さい頃の思い出の話をした。男は、最初は笑って聞いていたが、どんどん顔が曇り、やがて立ち止まった。  どうしたの? と問えば、男はちょっと寂しげに笑っていた。 「小さい頃の約束って、もう時効なのかな」 「うん? どうだろう、漫画とかだとそこから恋愛に発展したりするけどね」  そうだよね、と男はまた笑った。やっぱり、どこか寂しげで苦しそうだった。男はちょっと黙った後、もし、もしもだよ、と言った。声が少し震えているような気がした。 「もし、あの日の約束をした相手が今目の前にいたとして、その相手がまだ、好きだったらどうする?」 「どうって……」  答えに詰まる。自分には彼氏がいるのだから、当然断るべきだ。  でも、もしあの日の続きが、幼くて甘い日々の続きが見れるとしたらどうだろう? 「俺は、さ、覚えてるよ。引っ越す前にした約束のこと。あの日、泣きそうになりながら指切りげんまんしたこと」  すべてがスローモーションになったように、ゆっくりと時間が進む。お願い、その先を言わないで。その先を行ってしまえば、私は完全に揺れてしまう。そんなの、大人として最低だ。 「すごい、時間かかったけど、好きです、ずっと一緒にいたかったくらい」  完全に、心が大きく揺れた。泣きそうなほど、嬉しい。彼氏からも最近聞けていなかった言葉。それが、約二十年の時を経て初恋の相手から聞けた。もう少しで、手が届きそうな恋。  でも、もう私は子供じゃいられない。だから。 「ごめんなさい、私、今好きな人いるから駄目だよ」  俯きながらつぶやくと、寂しそうな、それでいて安心したような声色でそっか、と相手が呟いた。 「そう、だよね。時間たちすぎたもんね。ごめん、変なこと言った。明日から、また普通に友達として接してよ」  それじゃ、なんて不細工な笑い顔で図書館の中に消えていった。  友達として、なんてずるいよ。そんな無理なお願いするくらいなら、何も言わないでほしかった。  涙をこらえるように、ため息をつく。明日からは、友達同士。 「遠距離恋愛って辛いなあ」  いつの間にか降っていた雨に、私の声はかき消される。  若干やけになって彼氏に、夜電話できないか聞いてみる。きっと、返信は帰ってこないだろう。  でも、それでいいのだ。今は、そうあらねばならないのだ。  割り切れない思いも、思い出も、全部雨に流れればいいのに。柄にもないことを思いながら、雨の中傘もささずにバス停まで歩いた。  さよなら、幼き日々と初恋のときめき。                *  彼女と別れた後、俺は図書館で勉強しながら考えこんでいた。  もし、あの時彼女がオッケーしていたら自分は何て返したのだろうと。正直、ああなることをわかっていて告白した。幼い日に置き去りにした恋心を煩わせたせいで。  初めて彼女を見たとき、どこかで見たことがあると素直に思った。見覚えのありすぎる面影、ちょっと癖のある字。そして、俺が何より好きだった仕草。  彼女の挙動の一つ一つがあの日を思い出させてダメだった。  でも、ようやくこれで区切りがつけられた。これでようやく、大人になれたのだ。  スマホが振動する。誰だろう、と思い通知を開くと自分の恋人からだった。このタイミングで来てほしくなかったな、そう呟きながら返信を返していく。  ふと、もし、彼女がオッケーしてしまったら、自分はどうしたのだろう? 傷つけることを覚悟で冗談と笑うのか、それとも、よくないことをわかっていて二股するのか。ああ、今の恋人と別れて付き合うのかもしれない。  でも、どの選択肢をとったとしてもとても最低だ。そう考えると、フラれて正解だったような気がした。  ちょっと、寂しいけれど。それも、よかったと思える。  さようなら、幼い日の恋心。せめて、この思い出が美しく風化されますように。 窓の外を見上げると、泣けなくなった自分の代わりに空が泣いていた。
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