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深き情絲の最期
泰極王と七杏妃は、久しぶりに空心庵に顔を出した。天民が新たな弟子を迎え空心庵で共に学んでいるとの知らせを、獅火王から受けたからだ。朝顔の庭からそっと庵をのぞくと、ちょうど心如が空心の位牌に香を手向けるところだった。
「そなたが心如殿だね。空心様の教えを天民様から引き継ぐ者だね。」
と、泰極王が声をかけた。驚いた心如は振り返り、雨戸を開け放った縁側の先を見た。
「はい。私が心如でございます。あなた様は・・・ はっ、もしや、泰極王でございますか?」
「うむ。いかにも。よくご存じで。」
「はい。一度、空心様の説法会でお見かけ致しました。ご挨拶もせぬまま空心庵に住まわせて頂き申し訳ございません。」
「ふふっ。いいのよ。心如様。あなたは、獅火王や天民が認め迎え入れた方。こちらで天民のことを頼みますね。もう天民もよい歳だから。」
「はい。七杏妃。もちろんでございます。天民様の事はご心配なく。私が共におりますので。」
心如は微笑んだ。
「あぁ、よかった。空心様が旅立たれ、天民様が一人になってしまわれたので案じていたのです。空心様にも、天民様をお守り致しますとお約束したので心如殿が来てくださり安心しました。どうかよろしく頼みます。
また、王府の力にもなってやってください。お見かけしたところ、心如殿は獅火と歳の頃も近いようだ。話も合うかもしれぬ。」
優しく包み込むように話す泰極王に、心如は駆け寄って、
「あぁ、泰極王。恐れ入ります。勿体なきお言葉です。心如は、敬愛する空心様の庵で寝起きし面影を偲び、残された教えを学べる事や導いてくだる師僧の天民様がいらっしゃる事で幸せでございます。私で王府の力になる事があるならば、いつでも参ります。」
その熱い真心のこもった心如の言葉を聞いて、泰極王と七杏妃は胸のつかえがとれたように安堵した。それから三人で、心如の経に手を合わせ空心の位牌に参った。
獅火王が治める瑞和の世も深まり、弦空も成人し正式に皇太子となった。少し離れて生まれた妹と弟もすくすくと成長していた。その三人の孫たちの成長を見守りながら穏やかな時を過ごしていた泰極王と七杏妃も、髪は白くなり微笑む目尻には雀の足跡が浮かぶ。歳月を経た風貌は、風格を現し誰もが尊ぶ二人となっていた。
しかし、三月ほど前から病に倒れ寝込んでいた七杏妃の様子が心細いものとなり、ついに別れの時が迫っていた。
病床を離れぬ泰極王に、七杏妃は物語を聞かせるように話し始める。
「泰様、不思議なのよ。五色の霧雨が降り天女様が私を呼んでいるの。黄陽に居た頃に吉紫山で会った天女様よ。天女様が私を・・・ 私は行かなくては。一緒に天へ行かなくては、そんな気がするの。」
「杏、まだ早い。もう少し天女様には待ってくれるよう言ってくれ。」
半ば涙声の泰極王に
「泰様、見て。護符がほら、ぼんやりと光っているのよ。ずっとこうなの。もう守り切る法力がないのだわ。泰様は、空心様とした約束を守ってくれましたね。
こうして最期の時まで、私に寄り添ってくださった。私はとても幸せでしたよ。大好きな泰様とずっと一緒でしたから・・・ 泰様との情絲に・・・ 感謝しています。ありがとう。泰様・・・」
かすかに微笑みながら話す七杏妃の言葉が途絶えると、胸の紅珊瑚の護符が強烈に光り、紅き光霧の鳳凰が飛び立った。
そして、七杏妃の息は絶えた。
「杏・・・ 杏・・・」
七杏妃に覆いかぶさり泣きじゃくっている泰極王の胸の辺りから、突如鋭い光が放たれると、螺鈿の護符から白き光霧の龍が飛び立ち紅き鳳凰の後を追って行った。
一瞬の出来事に居合わせた一同は驚き、泰極王を案じた。そして同時に、大きな別れの予感を抱いた。
驚いて顔を上げた泰極王の胸に下がる護符は輝きを失い、ただの白き螺鈿細工のように見えた。その護符を見つめながら泰極王は、静かな笑みを浮かべた。
〈杏。どうやら私も、すぐにそちらへ逝けるようだ。少しの間だけ一人にしてしまうよ。待っていてくれ。先に私の護符から光霧の龍が、君を守りに行ったよ。やるべき事を終えたら、私もすぐに逝く。またすぐに会えるよ。〉
それから泰極王は、七杏妃の亡骸を天藍の鳳凰が描かれた白き棺に眠らせ、葬儀を終えると獅火王と共に王墓へ運んだ。あの金字詩文の天藍の扇を七杏妃の納箱に納め、共に用意した自分の納箱にも片割れの天藍の扇を納めた。
婚礼のあの日、二人で決めた通りに金字詩文の天藍の扇を王墓の守りの品としたのだ。太紫皇太子と守星様から巡る情絲の天藍の扇を、永き時を経た今、二人で決めた通りに泰極王と七杏妃の御霊の守りとして王墓に眠らせたのである。
泰極王は、侍従を下がらせ獅火王と二人王墓の内に残ると、静かにもう一度手を合わせた。
「獅火。これでもう、私がすべきことは全て終わった。杏は、母上はあちらで私たち二人を微笑んで見ているだろう。きっとそなたに感謝しているはずだ。温かい葬儀をしてくれたと。」
「そうだとよいのですが・・・ 父上、これからもまだ、私たちと蒼天を見守っていてください。」
「獅火よ。蒼天を頼むぞ。この蒼き空と水を守ってくれ。民の希望を守ってくれ。頼んだぞ。そして紫雲との情絲を大切に。側に居る信頼し合える友を大切にな。弦空を頼む。これからも蒼天が希望の蒼き国として続いてゆくように。」
泰極王は、成長し王となった大きな獅火をしっかりと強く抱きしめた。
「父上、どうされたのです? 天上の母上も心配されますよ。」
「ははっ。そうだな獅火。」
泰極王は力なく笑った。
そして、七杏妃の石碑に向かい微笑むと、泰極王は立ち上がろうと膝をたてた。すると王墓の内に光霧の龍と鳳凰が再び現れた。
「あぁ、迎えに来てくれたのだね。ありがとう。もう全て終わったよ。私がすべきことは全て。さぁ、私も逝くとしよう。」
泰極王は立ち上がり、輝きを失った胸の護符を握った。柔らかな笑みを浮かべて白き光霧の龍と一体になると、紅き光霧の鳳凰と共に天へ上って行った。
獅火の隣、王墓の冷たい床石の上には、横たわる泰極王の姿がある。
「父上、父上・・・」
王墓に泣き崩れる獅火王の声が響く。
「父上・・・ やはり父上も逝ってしまわれたのですね。母上との情絲は、それほどまでに固く護符で結ばれているのですね。父上、母上と共にこの蒼天を、私たちを見守っていてください。」
獅火王は、王墓の床に横たわる泰極王を抱き起こし、涙声で最期の別れを惜しみ叫んだ。その悲痛な叫びは、王墓の外で待っていた侍従にも聞こえた。
天には光霧の龍と鳳凰が舞い、蒼天の蒼き空に五色の霧雨を降らせている。その五色の霧雨と光霧の龍と鳳凰を見て侍従たちは悟った。天を仰ぎ、とめどなく流れる涙に声を殺し、侍従たちも悲しみと寂しさに耐え獅火王が出てくるのを待っている。
都では、美しく咲き盛りを過ぎた木蓮が、その花弁を次々に青星川に落としている。花弁が落ち白く彩られた蒼き川にも、清らかな音霊は五色の霧雨から降り注いでいる。その音霊に添うように、王府からは悲しみの鐘が鳴る。
偉大なる蒼天の王、泰極王を天上へ送る悲しみの鐘は、民の胸の悲しみを癒すように鳴り響く。舞い落ちる木蓮の花弁と共に今、蒼天の情絲を巡る百年の聖史が幕を閉じた。
完
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