第一話 廃屋の彼女

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第一話 廃屋の彼女

 廃屋に足を踏み入れたのは、雨脚が急に強くなったからだ。僕ひとりだったら何もかまわず濡れて帰っただろう。でも、そのときは借りたノートを手に持っていて、それを濡らすわけにはいかなかったのだ。  少しのあいだ、軒先で雨宿りするつもりだった。そうしてじっとしていれば、そのうち小雨になってくれるだろうと。降り始めた雨の雫はアスファルトを強くたたき始め、独特のにおいが辺りに充満する。 (ペトリコールっていうんだよな、確か)  そんな言葉を思いだしながら、僕は少しでも雨が弱くなるのを待った。  夏が終わりに近づいていく九月の夕方だった。目の前の景色は鈍く煙っていき、雨音しか聞こえない。風が吹くのにともなって、ザアッと雨の飛沫が舞う。  僕はふと、後ろの引き戸が開いていることに気づいた。開いているといっても、数センチの隙間だ。てっきり鍵は閉まっていると思っていた僕は、なかに入ってみようと思いたった。軒先にいるより濡れずにすむだろう、と。  引き戸はカラカラと乾いた音をたてた。なかは暗く、思った以上に埃っぽい。 ―― と、奥でユラリと何かが動いた気がした。 (猫でもいるのかな)  最初はそう思った。そんなに広い家じゃない。目が暗闇に慣れてくると、僕は動いた影の 正体を見極めようと、さらに奥に進んだ。ハッキリと今度は黒い影が見えて、僕は今さらながら、何かの気配にかすかな恐れを抱いた。それはどう考えても猫ではなかったから。  僕は目を凝らす。  なかにいたのは人のようだった。 (ユウレイ?)  真っ先に浮かんだのは、そんな言葉だった。幽霊なんて一度も見たことないし、信じても いないくせに。でも、こんな暗がりに明かりもつけず廃屋の片隅でジッとしているなんて幽霊じゃなきゃ何だというんだろう。 (見てはいけないものを、見てしまったかもしれない…… )  気づいたら背と腕に鳥肌が立っていた。  僕はその影がゆっくりと視線をむけるのを感じて息を呑んだ。  頬に長い髪がかかっている。暗闇のなかでも、その人の目が僕の姿をとらえるのが分かっ た。その人はまっすぐ僕を見つめていた。でも、何も言わなかった。口がきけないのかもし れない。先に沈黙に耐えられなくなったのは僕の方だった。
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