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一度家に帰って、制服から私服に着替える。なるべく目立たない黒のロングTシャツとカーゴパンツ。黒は汚れやすいかもな、と一瞬躊躇したけれど、そのまま着ていくことにした。
そんなに長い時間いるつもりはなかった。一瞬、確かめに行くだけだ。幽霊ならあまり早い時間にはいないのかもしれない。また出るとしたら日が暮れてからだろう。そう思いつつ、簡単に夕食の下ごしらえをした。今日はシチューの予定だから野菜と肉を切るだけでいい。家を出る頃には日が暮れ始めていた。きのうと同じ時間帯だ。わざと同じ時間を狙おう、と思っていた。そのときしか現れない幽霊もいるかもしれないから。
(これじゃあ、まるで幽霊に会いたがってるみたいだな)
そう思って苦笑する。
前に母親が言っていた台詞が脳裏をよぎっていく。
『幽霊でいいから会いたいね』
父親が死んだ直後だった。
そのときはまっぴらだと思った。どんな機会があったとしても、もう二度と会いたくないと。過去の記憶がせまって、一瞬目の前が暗くなる。
気づけば、廃屋は目の前だった。
ドアの付近にはきのうの水たまりが残っている。知らず鼓動が速まった。そこに幽霊がい
るのか確かめに来たはずなのに、まわれ右をして帰りたくなる。
なんで確かめたいのか、本当は知っていた。でも、今その理由を考えることはできなかっ
た。意を決して、一歩踏みだす。引き戸のドアは、触れると簡単に開いた。カラカラと乾いた音が響く。
(何を期待してるんだ、僕は)
幽霊なんていない。
いないに決まっているし、きっといない方がいい。子供のようにそう思う。それなのに相反するように動悸が速くなっていく。次第に目が慣れてくる。奥の方に目を凝らす。重く淀んだ空気が、一瞬だけ動いた気がした。でも、それはただの錯覚か幻影かもしれない。
そう思った矢先、暗い部屋の隅から呼びかけるような声がした。
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