【2】

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【2】

 都心から離れた場所にある、昔から続く商店街が立ち並ぶ下町に、夕貴の父親である柏尾(かしお)滉平(こうへい)が先代から引継いだテーラーがある。  お世辞でも広くて綺麗な店構えとは言い難いが、日本人が手掛けるオーダースーツの技術が世界で注目され始めた昨今、企業家や政治家、一点豪華主義を貫く富裕層からの需要は年々増えていく傾向にあった。  昔に比べれば、後継者問題などにより格段に減ったテーラー。そして、世界に通用する技術を持った者は数えるほどしかいない。  その一人として名を挙げていたのが夕貴の父、滉平だった。一点のオーダースーツを仕上げるのに要する時間は約三ヶ月。デザインやオプションによってその日数は変動するものの、そうそう纏まった数のオーダーを受けることはできない。一人の客と真剣に向き合って仕上げる職人気質は、昔から変わることはなかった。  服飾専門学校を卒業して、二年間イギリスに単身留学しテーラーの技術を学んで戻ってきたばかりの夕貴は、技術力を求められる割には採算が少ない経営方針に難色を示していた。  本物志向を求める反面、リーズナブルで使い回しのきくスーツが若年層からは支持される。その流れに逆らうように、滉平はそのスタンスを崩すことはなかった。事実、店を訪れる客の多くは五十代以上で、夕貴がアシスタントとして店に立つようになってから若者の姿は一度も見ていない。  滉平とは何度か衝突した。その度に、耳にタコができるほどテーラーの存在意義を唱えられた。  そんな滉平の店の常連客であったのが、日本屈指のアパレル企業シゲノ・インダストリーの社長、重野(しげの)好隆(よしたか)――宏海の父だった。  アパレル企業のトップでありながら、すぐに手に入る自社製品を着用するのではなく、滉平の店『テーラー柏尾』にわざわざ長期間をかけてスーツをオーダーする。服飾を知る彼だからこそ生地や縫製、仕上がり後のフィット感に関しては誰よりも拘っていたと言ってもいいだろう。だが、夕貴に言わせれば『変わり者』でしかなかった。  滉平はそんな好隆に一目置いていた。口コミや、紹介で訪れる一見客のように、テーラー任せにすることをしない、本物のスーツを知る男だと絶賛し、彼のスーツのオーダーが入った時は、他のオーダーをすべて断るほどの熱の入れようだった。  夕貴はそんな父親を冷めた目で見ていた。そう――あの日、一緒に来店した宏海と出逢うまでは。  会社主催の関係者を招いたパーティーで、息子が着るスーツを誂えて欲しいと店を訪れた好隆の後ろから、おずおずと店内を興味深げに観察しながら入ってきたのは、細身ではあるがスポーツをしていることが分かる、薄らと筋肉を纏った青年だった。綺麗だと評判の母親譲りで、まだ幼さは残るものの目鼻立ちのハッキリとした美しい顔立ちをしている。 「まだ十七歳の伸び盛りだ。一度着たら二度と袖を通すことはないだろうが、この子が初めて着るスーツをこの店に頼みたいと前々から思っていたんだ。そこで、どうだ? 息子さんに、練習がてら作ってもらえないかな」  何気なく父親同士の会話を聞いていた夕貴は、採寸用のメジャーを首から掛けたまま、驚いてカウンターから飛び出した。もちろん滉平も慌てたように声をあげた。 「とんでもない! 息子はまだ見習いの身で、ご子息のスーツなんて仕立てられませんよっ。何より、私が許しません」 「あえて……だよ。この子には将来会社を継いでもらいたい。だが、その気がまったくないようでね。この店のスーツを着れば何も怖いものはないってことを教えてやりたいんだ。私も何度、それで救われたことか……。不思議とね、自信と勇気が溢れるんだよ。あなたに守られているって思うとね……。だから、あえてマスターではなく息子さんに頼みたいんだ。彼が、この子を守ってくれるスーツを作ってくれることを期待してね」  無茶なオーダーだと夕貴は思った。父親の仕事の手伝いをしながら自分でも数着のスーツを作っていたが、完成度は低く、滉平からも「センスがない」と呆れられているほどだ。 「職人もいずれはその腕を鈍らせる。その前に、この店を継ぐであろう息子さんにやらせてみてはどうだろうか? 頭ごなしに「できない」と言い切るのは、息子さんの才能をちゃんと見極めていないからだ。これに関して、私は何も口を出さない。ただ、それを着た宏海がどう思うか……。それを聞いてからでも、叱るのは遅くないのでは?」  嬉しそうに口元を綻ばす好隆に、眉根を寄せたまま険しい表情で困惑する滉平。そして、期待を込めた眼差しで夕貴を見つめる宏海……。  その、どこまでも真っ直ぐで、意志の強そうなこげ茶色の瞳から目が離せなくなった。  将来を約束された大企業の子息。しかし、十七歳の高校生にスーツの良し悪しが分かるはずなどない。  狭い国内だけでなく、イギリスでいろんな世界をすでに見てきた夕貴は二十五歳。こんな子供が着るスーツの一着も作れないのかとバ|カにされるのも悔しい。  夕貴の意見に耳を貸そうともしない頑固一徹の父親を見返すチャンスかもしれない……そう思った。 「――やります! やらせてください」  咄嗟に一歩足を踏み出して、そう叫んでいた。  滉平が信じられないという顔で振り返ったが、夕貴はそれを視界の端に捉えながら戸惑う宏海の前に立った。 「柏尾夕貴です。あなたのスーツを作らせてください」  彼の体からふわりと香る甘い匂いは、おそらくアルファ性特有のフェロモン。その微かな香りから、まだ発情期を迎えていないことを知る。  夕貴の心臓がトクン……と大きく跳ねた。  少し顔を赤らめて、俯き加減のまま「お願いします」と小さな声を発した彼の目が少し潤みはじめる。  幸い、夕貴の発情期は終わったばかりで、抑制剤を服用していれば宏海が発する程度のフェロモンなら十分耐えることができる。 「生地もデザインも君に任せる。宏海に合うスーツを仕立ててくれ。パーティーは四ヶ月後だ」 「分かりました。ありがとうございます」  好隆と夕貴のやり取りを傍らで聞いていた滉平は何も言わなかった。ただ、自身の首に掛けたメジャーをギュッと握りしめたまま、店内の一角に設けられたソファに向かう好隆の背中をじっと見つめていた。 「今日は、採寸と仕上がりのイメージをお聞きします。こちらへ……」  夕貴は店の奥にあるフィッティングルームに案内すると、メジャーをすっと伸ばした。  着ていた上着を脱いだ宏海の体は夕貴が思っていた以上に逞しく、そして綺麗だった。身長は一七八センチの夕貴よりも少し低いが、長身である好隆の遺伝子を引き継いでいれば間違いなく伸びるだろう。  まず肩先に手を置き、その整った骨格を確かめるように腰へと滑らせる。スーツを作る上で客の骨格や体格、体の特徴などを知ることは大事な要素だ。それによってデザインや長さを変え、不自然な皺が寄ることを防ぐためだけでなく、何より動きやすく体にフィットしたものが作れる。  成長期真っ只中の彼の場合、製作期間である四ヵ月の間に身長だけでなく胸板や腕、足の筋肉量が増える可能性もある。それを考慮して制作しなければならないため、壮年の客よりも気を遣わなければならない。 「なにか、スポーツとかやってる?」 「はい……。バスケットボール部に所属しています」  間違いなく筋肉量が増えるスポーツだ。夕貴は慣れた手つきで次々と採寸を進めていく。余裕を見込む箇所にはチェックを入れながら、宏海の体を採寸表に落とし込む。  顔が近づくたびに恥ずかしそうに視線を逸らす宏海に、夕貴もまた高鳴る心臓の鼓動が聞こえるのではないかとヒヤヒヤしていた。 「あの……汗、かいてますよね、俺。すみません……緊張しちゃって」  高校生であれば誰でも気にする発汗。だが、夕貴はその汗の匂いさえも気にならないほど夢中になっていた。  触れる場所すべてが熱い。薄いシャツ越しに手を滑らせるたびにビクンと跳ねる初々しさも愛らしく、こんなに綺麗で、まだおぼろげではあるが間違いなく雄の匂いを纏った青年を見たことがなかった。  夕貴の手が次第に汗ばみ、息遣いも荒くなっていく。そう――自身が彼に対して発情し始めていることに気づいたのだ。 「――ちょっと失礼」  採寸が一通り終わったところで、彼に勘付かれまいと冷静さを装い、宏海を残して店の奥にある作業場に移動した夕貴は、壁に凭れると肩を上下させて荒い呼吸を繰り返した。  体が熱い……。火照った下肢が、アルファを求めて疼き始める。  オメガといえど、発情期を迎えていない未熟なアルファに反応することはまずない。それなのに、体は舵を失った船のようにふわふわと劣情の波間を揺蕩い続けている。 「どうして……。発情期は終わったばかり……なのにっ」  震える手で自身のスラックスのポケットを探り、ピルケースに入った抑制剤のカプセルを掌に乱暴に落とすと、それを口に放り込んで次々と溢れてくる唾液と共に嚥下した。  即効性の抑制剤はオメガにとって必需品だ。突発的な発作を抑えることでアルファとの過ちを未然に防ぐことができる。  欲情する身体を何とか静め、乱れた髪を撫でつけながら宏海のもとに戻った夕貴が見たのは、フィッティングルームの壁に掛けられた大きな鏡にしがみつく様にして荒い呼吸を繰り返している彼の姿だった。  しなやかな背中を弓なりに反らせ、顎を上向けて短い呼吸を断続的に繰り返している。鏡に押しつけられた彼の中心部は大きく膨らみ、子孫を残すことを運命づけられたアルファ性であることを主張していた。 「宏海……くん」  夕貴の声に慌てたように勢いよく振り返った彼は、くっきりとした二重瞼をきつく閉じて声を詰まらせながら言った。 「見……ないで。俺……体が変なん……だ」  苦しそうに喘ぐ開かれたままの唇の端に、短いながらも牙のような犬歯が見える。綺麗なカーブを描く額には玉のような汗をびっしりと浮かせていた。 「君……まさか、発情してるんじゃっ」 「夕貴さんの……に、匂い……。体が熱くなって……はぁはぁ……く、苦しいっ」 「初めて……なのか?」 「はい……っ。胸が――痛い」  弾かれるように駆け寄って宏海の体を支えた夕貴だったが、彼の体から発せられる強烈なフェロモンをもろに吸い込み、一瞬視界が大きく揺らいだ。  初めて出逢ったアルファとオメガが、その瞬間に発情することはごく稀なことだ。個人差によって体への影響はあるものの、互いが狂おしいほどに相手を求めることはない。ただし、オメガ側が発情していなければ……の話だ。 (このままじゃ、マズい……)  発情しているアルファとはいえ、相手はまだ十七歳の高校生だ。抑制剤を飲んでもなお抗えない宏海の匂いに、夕貴は気を抜いたら粉々になってしまいそうな理性を必死に繋ぎとめ、滉平と語り合っている好隆を呼んだ。 「重野さまっ! 宏海くんが……っ」  その声に気づいた二人が駆け寄り、宏海は即座に店の前に待たせてあった送迎用の車に乗せられた。ぐったりと後部座席に体を沈める彼を見つめている間も、夕貴の疼きは止まることがなかった。  初めての発情が学校内でなかったことは幸いだった。しかも、好隆が通い慣れたテーラーだったお陰で大事には至らず、宏海を乗せた車が発車する頃には少し落ち着いているようにも見えた。彼らを見送った夕貴は店の前で座り込んで頭を抱えた。 『運命の番』――その言葉が頭を埋め尽くしていた。都市伝説とも言われるそれは、体や本能だけでなく魂という深い繋がりを持った、絶対に離れることのできない番。  それは出逢った瞬間に互いが分かるのだという。  今まで何人ものアルファ性の客の採寸を行った。でも――一度も発情したことはない。  初めて触れた宏海の体のすべてが手に取るように理解できた。身体の芯をなす骨格も、筋肉の厚みも、そして夕貴の手が触れるたびに熱くなる白い肌も……。  まるで触れられることを待っていたかのように、自身の情報を夕貴の中に送り込んでくる。  採寸表を見なくても彼のサイズは不思議とすべて頭に入っていた。目を閉じればその質感や匂いまでリアルに再現される。 「まさか……だろ」  八歳も年の離れた、しかも年下のアルファが『運命の番』だと誰が信じられようか。  もし、それが真実だとするならば彼が大学を卒業した時、夕貴は三十歳を目前にした世で言うところの『アラサー』になる。  シゲノ・インダストリーの後継者の伴侶がこんなしがない下町のテーラーで、しかも八歳も年上の男だと知れたら世間はどう思うのだろう。 「――夕貴」  後ろからそっと肩を掴まれてハッと我に返る。そこには、それまで何も言うことがなかった父、滉平の姿があった。 「親父……」 「初めて身に纏うスーツは、その人の人生を左右する。戦場に向かう者は自身が身につける鎧にすべてを賭けるんだ。信頼、希望、夢。そして……最愛の者を守る勇気と愛情。それを身につけて降りかかってくる火の粉を払いながら栄光を勝ち取る。宏海くんはお前にとって大切な人になる。最初で最後のな……。だから、絶対に手を抜くんじゃないぞ。彼を守りたいと思うなら、それなりの鎧を作ってやれ。重くて身動きができないのもいけない、かといって相手の刃をすんなりと通すような軟なものじゃ使い物にはならない。俺はそうやっていつも作っている。世界で一つしかない、この手で使った鎧――それが本物といわれるスーツなんだと思っている」  いつもは聞き流す滉平のウンチク。だが、今はそれが心の奥にズシンと響いた。  今どき流行らないテーラーなんかやめて、アパレル企業で自分の力を見せつけてやりたい。知識と手先の器用さは誰にも負けない――そういった傲りがバ|カみたいに思えてくる。  本当は何も知らない、何もできない小心者。それを見抜いている父親だからこその言葉だったのだと。  それだけじゃない、滉平はすべてを理解していた。自分の息子が初対面であった宏海と恋に落ちたことを。 「――生地の選択はお前に任せる。型紙と裁断は、俺がOKを出すまで妥協は許さない。いいな?」  手や、シャツに残っていた宏海の匂いが、体の脇を吹き抜ける風に流されるように消えていく。やっと抑制剤も安定した効果を発揮したのか、体も落ち着きを取り戻していた。  突然現れた運命の番と思しき青年の鎧をこの手でつくる……。彼に降りかかる幾多の困難から守るために。  夕貴は滉平の言葉に力強く頷いて、その身体をゆっくりと起こして立ち上がった。
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