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【3】
夕貴は未だかつてないほどの集中力で、宏海のスーツ製作を進めた。父であり師匠である滉平は、そんな夕貴を黙って見守っていたが、これだけは……という点についてだけはさりげない口調で助言をくれた。
息子が生まれて初めて一から手掛けるオーダースーツだ。職人気質の彼に黙って見ていろという方が無理な話だろう。
色が白く、栗色の髪が印象的な宏海には、年齢を考慮して皺の出にくいバラシアという生地を使用し、チャコールグレーのシャドウストライプ柄を選んだ。大人になる前の清純さを出しつつも、これから大人たちと対等に向き合わねばならない彼の強気を見せたくて。
早朝から深夜まで製作に明け暮れ、時間の感覚が麻痺し始めた頃、作業場に置かれたトルソーに夕貴が初めて手掛けたスーツがかけられた。不思議と疲労は感じない。そのかわり、体中が何かで満たされていくような感覚を覚えた。
最終調整のための試着に訪れた宏海の姿に、夕貴は小さく息を呑んだ。彼の身長は夕貴が予想していた通り伸びていた。身長だけではない、肩幅も胸の筋肉のつき方も変わっている。
発情期を迎え大人の体へと変化した宏海を見た夕貴は、以前にも増した彼の魅力に目が離せなくなった。初めて会った時のおどおどした様子はまったく見受けられない。
宏海に会う今日、夕貴は予めいつもよりも強い抑制剤を服用してたが、彼が発する雄のフェロモンに抗うことができなかった。
火照り出す体を柔らかな笑みで誤魔化しながら、自身が作ったスーツを身に纏った宏海を目にした時、やはり彼が『運命の番』――その人なのだと確信した。
「どこか違和感とかありますか?」
「いえ……。あの、夕貴さん」
「なんでしょう?」
あの時よりも眩しい光を湛えこげ茶色の瞳が、真っ直ぐに夕貴に向けられる。その眼差しを目の当たりにすると、肉食獣に睨まれた小動物のような気分になる。八つも歳が離れているとは思えない大人びた表情に夕貴は再び息を呑んだ。
「あ……っと。肩のあたり、少し余裕があるでしょ? パーティーまではまだ日数があるから、ほんの少しだけ余裕を持たせて作ってある。身長……俺よりも高くなったな」
何かを言いたげな宏海の視線に耐えきれず、気まずさを払拭するように言葉を発したのは夕貴の方だった。
パーティー当日に、ベストなコンディションで着用できるように宏海の成長を見越した製作。夕貴の予想通り、わずか数ヶ月の間に宏海の身長は一八〇センチを超えていた。逞しく『大人の男』へ成長してく彼の姿を思い浮かべながらの作業は不思議と苦痛を感じなかった。
「夕貴さん……」
「ん?」
「俺……あなたに認められるフィッターを目指すことにしました」
「そうか。お父さん、喜ぶだろうな……」
客のイメージを聞き、用途や好みに合ったスタイルを提案し、自ら採寸や補正なども行うフィッター。宏海の場合はそこに企業を動かすビジネススキルも加わる。知識ゼロからのスタートはかなりの勉強量を必要とするが、生まれ持っての才能を持つ宏海なら大丈夫だろう。
「だから、それまで……」
「うん?」
不意に言葉を切った宏海の目に、欲情の色が浮かぶ。夕貴は怖くなって思わず目をそらした。その瞬間、宏海の手が夕貴の顎にかかり、抗うこともできずに上向けられると彼の薄い唇が重なった。
「ん――っふ!」
男性とのキスは初めてではない。でも、そのキスは今までに感じたことがないほど優しくて、胸が苦しくなる。激しく締めつけるような痛みを伴う胸の鼓動。この音が彼に聞こえているのではないかという不安。
離れそうで離れない唇。何度も名残惜しそうに夕貴の唇を啄んだ宏海は、わずかに目を伏せて掠れた声で言った。
「――待っていてください。必ず……迎えに来ますから」
高校生とは思えない極上のキスは、夕貴の腰の奥を痺れさせ、思考までも曖昧にしていく。まるで魔法にでもかかってしまったかのようなフワフワとした感覚に、夕貴はただ頷くことしかできなかった。
「俺以外の男と……キスしないで」
十七歳らしい嫉妬と独占欲。夕貴は照れたように頷いて「約束する」とだけ告げた。
今まで何人もの男性が夕貴の前を通りすぎた。キスをしても体を重ねても、誰一人としてそうやって夕貴を縛った者はいなかった。
元来、社会的最下層に位置するオメガ性の扱いなんてそんなものだろうと思っていた。でも、宏海は違った。アルファでありながらオメガである夕貴を敬い、そして愛そうとしてくれているのが分かる。それは言葉にせずとも触れ合った場所から伝わる熱が教えてくれた。
「待ってるよ……」
夕貴の言葉に、嬉しそうに破顔した宏海はどこにでもいる男子高校生だった。どこまでも純粋な想いを、眩いほどの光と共にストレートにぶつけてくる。
「絶対ですよ! 約束ですっ」
「ああ……。この店で待ってるから、全力で頑張って来い。途中で挫折とかしたら、浮気するぞ」
「させません! あの……電話とかメールとか。してもいいですか?」
「構わないよ。俺が答えられることだったら何でも教えてやる」
「本当に? 嬉しい……。夕貴さん、す――」
言いかけた宏海の唇を人差し指でそっと制した夕貴は、自身の体が熱くなり始めていることに気づいた。このままでは、宏海の子種を求める浅ましいオメガ性が暴走する。
「今は言わないで………」
「どうして?」
「もしもお前の気持ちが変わった時、俺が苦しまずに済むから………」
冗談めいて言った言葉だったが、夕貴にとってそれこそが一番恐れることだった。不老不死でない限り、時間は確実に進みこの体は老いていく。
宏海もまた経験を積むごとに考え方も変わっていくに違いない。思春期の恋愛は移ろいやすく儚い。彼が大学を卒業する頃には夕貴はもう三十代。若い宏海が今と変わらぬ思いで受け入れてくれるとは限らない。
「――変わらない」
宏海は夕貴の手を握りしめたまま、悔しそうに眉根を寄せて呟いた。
「あなたへの想い………変わるわけないだろ」
やけに大人びた低い声に、夕貴はわずかに目を見開いた。柔らかな栗色の髪を落とした横顔が夕貴の心を激しく揺さぶる。
本物の恋――。運命という言葉が二の次に感じられるほど激しくも優しい温もりを感じる想い。
夕貴は溢れそうになる涙を堪えながら、宏海の柔らかな髪をくしゃりと撫でた。
「生意気言うな。大人の世界は甘くないんだぞ」
大人である夕貴の精一杯の虚勢。こんなところでもアルファとオメガの格差を感じてしまう。夕貴の声にゆっくりと顔をあげた宏海は、もう一度顔を近づけると触れるだけのキスをした。
「早く大人になりたい………。夕貴さんを守れる、強い大人に………」
悔しそうに一点を睨む宏海の想いをかわすように、彼が着ていたジャケットを脱がしてトルソーに戻す。
「――サイズはいいみたいだ。最後の仕上げをしてから自宅のほうにお届けしますね」
あえて堅苦しい業務用の言葉で彼を制した夕貴は、身支度の済んだ宏海を店先で見送ったあと、一人作業場で泣いた。
宏海の残り香が夕貴を苦しめる。でも、その心地よさに酔っていたい自分がいる。
「宏海………」
何度もその名を呼んで昂った体を静めようと下肢に手を伸ばす。自分が何をしているか頭では分かっている。八つも年の離れた高校生に欲情している浅ましいオメガ。でも、未だかつて、これほど相手を求めたことがあっただろうか。
「欲しい………」
夕貴は泣きながら熱い吐息を漏らした。手を汚す白濁に後ろめたさを感じながらも、いつか宏海にこの劣情を受け止めて欲しいと切に願った。
もしもこの世界に『運命』というものが存在するのならば、この出会いを『運命』と定義づけることができるのなら、すべてを賭けてみようと思った。
宏海が、この店のドアを開けて自身を迎えに来てくれることを――。
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