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第十九話
地下エレベーターで第三階層まで戻ってきた。にぎやかな第七階層の公園と違い、午後の静かな時間が流れている。
住宅エリアは学生や社会人が出入りする朝夕の時間帯以外、誰かとすれ違うこともない。体調の悪いレイがカイエに寄りかかって歩いていても、声をかけてくる人はいなかった。
自分達の靴音だけがやけに響く。
カイエに支えられたまま自宅マンションまでゆっくりと歩いた。レイを支えるその均整のとれたしなやかな体に爪を立て、一生消えない傷を残したい衝動に駆られる。同時に世界一美しい花を愛でるように、傷つけたくないと思う。二つの気持ちは、ずっと等しく心の中にあった。
初めて研究所で出会ったときも同じだった。
カイエはレイにとって特別な存在だった。一番大切にしたいと思いながら、カイエを傷つけていいのは自分だけと傲慢な心で接していた。自分だけのものだと思っていた。
大好きだった。
(――きっと気づいていなかっただけだ)
鎖があったせいで気付けなかった。
出会った瞬間、自分とは違う存在に惹かれていた。王侯貴族のように見えた美しい存在と深く関わりたいと願った。
鎖で繋がってなくても、結果は同じだったかもしれない。
世界で一番、愛していた。
そうでなければ、こんなに悲しくて悔しい気持ちになったりしない。
あの日カイエが失踪すると知っていれば、レイはカイエを自分の部屋のなかに閉じ込めて一生外へ出さなかった。それくらいの狂気はレイだって持っている。
こんな暴力的な衝動が本物の愛だというなら、一生隠し通さなければいけない。受け止めて欲しいなんて傲慢だ。
自分のそばからカイエを離したくなかった。自分だけのものにしたい。
鎖で繋がったままだったら、今も、カイエを独り占め出来た。そう思ってしまう自分が心底嫌になる。
カイエがナギに向けて放った声が、耳の奥で何度もこだまのように響いて聴こえた。
――人殺しの僕が。
知っていても自分なら離れたりしなかった。傷ついたり拒絶もしなかった。同じくらいの気持ちで、そう思われていなかったことが腹立たしい。
家族なのに、信頼されていなかった。
信じてもらえなかったことに、何度も傷ついている。切り捨てて置いて行かれたことが腹立たしい。
(そんなに、俺の心は柔じゃない)
あの晩。ラボで厳しい選択を迫られていたカイエ。カイエが何もしなければ、西花は一夜にして滅んだだろう。何万人という人間の命が消えた。だから仕方がなかった。どうしようもなかった。
真っ白な人間じゃなくなったからなんだ。償えないほどの罪を背負ったからと家族の縁を切る必要なんてなかったはずだ。
カイエの優しさが許せそうにない。レイを心の内側に入れてくれなかったカイエが。
家族以上に深い繋がりがあれば、カイエをそばで支えられたのだろうか。
鎖を消して姿を消したこと。大切な宝物みたいに自分が扱われていたこと。レイは、そんなことを望んでいたわけじゃない。
あの日連れて行って欲しかった。離れたくなかった。レイの望みはそれだけだった。
玄関の扉を開けリビングを横切り、そのまま寝室へ連れて行かれた。
ベッドの上に座らされカイエは部屋の外へ出て行く。レイは暫くぼんやりと白い壁を見つめていた。
壁が白い。それは頭で知覚しているのに世界が灰色に見えた。遠くで蛇口をひねる音が聞こえた。カイエがキッチンに立っているのだろう。
その音を聞きながら力無く布団に顔を埋めた。
(全部、元に戻して欲しい。怖い、苦しい)
寂しいと感じることがなかった。完璧だった世界に戻りたかった。戻ったところで、また何かが足りないと不安になるのは分かりきっているのに。
扉の開く音でカイエが寝室に入ってきたのを気配で感じた。レイは布団から顔を上げなかった。着替える気力もない。仕事着にしている藍色のチノパンに白のカットソーのままだ。
白衣は公園のベンチに置いてきてしまったかもしれない。
「レイ。水持って来た。起きられる?」
ゆっくりと落ち着いた声で語り掛けられる。心配をかけているのは分かっていた。けれど、どう話せばいいのか分からない。身の内から湧き上がる怒りと不安を爆発させてカイエを傷つけたいわけじゃない。
レイは布団に顔を埋めたまま顔を横に振った。ベッドサイドのチェストの上にコップを置く音が聞こえた。
枕元にレイが腰掛けて、ベッドが重みで深く沈んだ。
「朝は元気そうに見えたけど。何かあった」
無言のまま、もう一度首を横に振った。その一拍あと、レイの顔の近くにあった右手にカイエの手が重ねられた。その温かさに感情が昂り瞳が涙で潤む。顔を埋めた布団が呼気と涙で湿度を上げた。
布団に顔を埋めていたから涙はこぼれずに済んだ。一生懸命呼吸を整えた。声が震えないように。
「多分、二日酔い。寝てれば治る」
「そう。落ち着くまで一緒に居ようか。吐き気はある?」
「いい。仕事戻っていいよ」
「僕が、調子の悪いレイを置いていけないことくらい分かるよね」
「大丈夫、だから」
「病院行こうか」
「二日酔いで? 行かねぇよ」
いつも通り明るい声で話せているだろうか。どんなに努力しても涙がじわじわと次から次へと湧いてくる。
「じゃあ少し話、しようか」
ぎゅっと手を握られる。
「何でだよ。仕事行けよ。悪かったよ心配かけて」
絞り出した明るい自分の声が震えていた。
「……ナギと何を話していた」
びくりと手が震えてしまう。
「何も、話してねぇよ」
「レイ、言って」
嗜めるような、それでいて優しい声だった。
「嫌だ」
流されそうになる。まとまらないバラバラの気持ちを全部カイエにぶつけたくなる。
「何故」
重ねられた手、指先で先を促された。
「怒らないから」
「カイエさんに怒られても怖くねぇよ」
「そう。じゃあ何を怖がってる。ナギの言うことなんて気にしなくていい。あいつは、人の気持ちに疎いんだ」
「ナギさんも、お前にだけは言われたくないだろうよ」
「……だから、言いたいことは、そうじゃなくて。困ったな」
困った、と言いながら少し苛立っているような声だった。知らないことなんて何もないような男なのに。言葉を選んで探している。
――俺、だからなんだろうな。
昔からレイはカイエに守られてきた。
レイが黙ったままだと、カイエは仕事に戻らない気がした。
「……心配なんだ。レイが大事だから」
カイエは、らしくなく絞り出すような声で囁いた。
「俺だって。カイエさん、大事だよ」
「レイ」
一番、大事だ。それ以外に何もいらないと思うくらい。レイは観念したように言葉を紡ぐ。
「なぁ、カイエさん、どうするつもりなんだよ。心を操作する完璧な鎖なんか作って」
吐き出すような声で布団に向かって喋っていた。カイエの表情は見えない。だからカイエが今どんな気持ちで聞いているのか分からない。
「ティエさん、か。彼は優秀だね。西花も優秀な人材をもっと有用に使えばいいのに」
「……うん」
「レイ、お前が心配するようなことは何もないよ。あと、そのことは誰にも言うな」
我慢できなくて布団から顔を上げた。困った顔をしているカイエの表情に苛立ちが抑えられない。
ずっと布団に顔を押し付けていたから、頬が上気して赤くなっているだろう。
泣いていたから顔は涙でぐしゃぐしゃだ。
そんなレイの顔をカイエは、じっと不安そうな目で見つめている。
「怖かったんだな。大丈夫、大丈夫だからレイ」
レイが落ち着くように頭を優しく撫で、薄茶色の痛んだ髪をすかれる。そんなことで今の気持ちを流したくなかった。こんなふうに甘やかされて大事にされていて。それで、一人だけ幸せだった。それが腹立たしい。
あの日、レイは邪魔だからカイエに置いて行かれたんだと思った。
カイエの中でレイは、まだ西花の地下が恐ろしいと泣いていた子供なんだろう。
「レイは昔から、敏感で、繊細だったよな。分かってたから黙っていた。怖がらせたくなかった」
「それで、どうしてって答えは? 俺には何も教えてくれないんだな。全部……全部秘密にしたままで、一人で決めて」
泣きながら話しているから、声を出すたび引き攣るように呼吸が乱れる。
「レイ、何を怒ってるんだ」
「分からねぇのかよ! 分かれよ、家族じゃなかったのかよ!」
至近距離で近くの枕を投げつけていた。ふわふわの枕じゃ、ちっとも衝撃にならない。
カイエの膝の上に枕が落ちただけだ。
「レイ、鎖は悪用されると自分たちみたいな不幸な人間を作ることになる。僕は、あの研究を終わらせたいと思った」
目の前が真っ暗になった気がした。今までの自分の幸せだった日々が全て否定されたようだった。
「俺は、不幸なんて、思ったことない。今まで一度も。ずっと、幸せだった」
それはカイエが、くれた幸せだった。カイエの本当の気持ちを犠牲にして成り立っていた偽りの幸せだった。
「レイ」
カイエに背中に腕を回されて胸に抱かれていた。
「分かってる。分かってるから。僕も幸せだったよ」
「嘘つき、今、違うって、言ったくせに」
「――どう言えば、レイに伝わるのかな。僕が考えているのは、いつだってレイが幸せになって欲しいって、それだけなんだ」
ストレスが極限に達して息が出来なくなった。酸素を取り込もうと何度も息を吸うのに、息をすればするほど苦しくなる。
このまま死んでしまうと思った。
カイエに抱きしめられたまま死ねるなら本望だと思った。正しく呼吸が出来ない。手が痺れて頭がくらくらした。
「俺は、俺だけが、幸せだったのかよ!」
ベッドで向かい合って座っていた。心配そうな表情でカイエに顔を覗き込まれている。
レイの左腕に付けているセンサーが体の異常を知らせるアラートを鳴らしていた。カイエが手を伸ばしてレイの腕の端末のアラームを切った。
「息、し過ぎだね。興奮したらダメだよ。過換気の発作起こしてる」
苦しくて、もう何も考えたくなくてぽろぽろと情けなく涙をこぼしていた。
「ッ、は、俺っ、大丈夫、だから」
「うん」
優しく背中をさすられている。
「俺は、カイエさんといられて、幸せだよ」
「ありがとう。嬉しいよ」
「カイエさんは、俺といて、幸せじゃ、なかった、の」
「……レイ」
「カイエさん。俺……カイエさんがいれば、他に何も要らないって、思ってたよ。今も、昔も」
「僕だって」
「だから、カイエさん。ねぇ、全部、元に戻して、鎖を切る前に」
縋り付くように訴えるレイに、カイエは首を横に振った。
「――戻せない。僕が無理なんだ。我慢できなかった」
そこで言葉を切ったカイエに、ベッドに押し倒された。
美しい、魔王さまの顔を陶然とした目で見上げている。悲しいのも苦しいのも与えられるならカイエがよかった。
このまま一思いに殺して欲しい。
「そんなに、俺のこと、嫌いかよ。邪魔でお荷物だった? 家族でいたくないって思うくらいに」
「……そんなことが言えるようになったんだな。レイ」
唇を優しく塞がれていた。
息が出来ない。
何度も何度も、繰り返し寂しく苦いキスを送られた。
「カイエ……さ……」
「同じ運命なら、僕はレイと家族じゃなくて本当の番になりたかったよ。あの日、僕は、他の国なんて全て滅べばいいと思った」
ゆっくりと、レイに言い聞かせるようにカイエは続けた。
「僕は、ね。レイが考えてるより、ずっと悪い人間なんだ」
「ッ、な、何だよ、それ」
「少し寝ろ。――横に居るから」
訳も分からずカイエとキスを繰り返すうち、思考が散漫になっていった。いつ持って来たのか、キスの合間に口の中に薬を入れられる。
レイがそれに気づいたのは目が覚めてからだった。
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