第十話

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第十話

 レイが花屋の仕事を終えたとき、時間は夕方の五時だった。この時間帯は上階へ行くエレベーターに乗る人は少ない。地下へ続くエレベーターに乗り込んだのはレイ一人だった。  第七階層は、国の中枢機関が集まっている場所だ。レイとカイエが子供の頃収容されていた中央の研究所もこの場所にある。  機械の案内が目的地に着いたことを知らせると同時に自動ドアが開いた。  降りた場所の光の眩しさに一瞬目がくらむ。  さっきまでレイのいた第二階層の空の色は、西花の外と同じ時間通りで茜色をしていた。けれど、五時を過ぎても第七階層の空は昼間のままだ。第七階層にいると何だか時が止まっているように感じる。研究者たちが快適に勉学や仕事に打ち込めるように環境が整備されているらしい。外がずっと昼間であることと作業効率の関係については眉唾だ。  一日は二十四時間だし、日の入りと日の出はあった方がいいに決まっている。  そんな感覚は外の世界を知ってる人間だけなのだろうか。  レイはエレベーター乗り場を離れて、移動フロアへ向かう。  カイエの話では、現在人間が快適に暮らせる最終地点がここらしい。  現在も掘削は一部分で続けられているそうだが、今の技術だとこれより下に行っても人が暮らすには不都合が出る。第七は、第六まで必ずあるドーナツ型の空洞はなく、同じ場所に直径五千メートルの広大な土地が広がっている。  環状に鉄道が整備され電気自動車も走っている。西花の外の世界と似た部分もあり、第七階層にいると時々、自分の今いる場所が外なのか内なのか分からなくなった。  学校や研究施設、人工芝のある公園。電車から降りると庁舎が建ち並んでいる。上階にあるようなショッピングモールや娯楽施設はないものの、国の中心部として最先端の技術が結集していた。  駅にたどり着きムーヴィングウォークへ乗り込む。手すりに両手を乗せ、ぼんやりと流れる景色を見ていると、レイの通っていた学舎の横を通り抜けていった。  初めてここに来たときは、この地下の世界がレイにとっての楽園だった。  必要なものは全て手に入れたと思っていた。でも時を経て成長するごとに何か足りないと感じている。  完璧を欲しているなんて、人間はどこまでいっても貪欲だなと思った。明るい昼を知ったら暗い夜も欲しくなる。どちらか片方だと物足りない。  家族としてのカイエを知り尽くしたから、違うカイエが見たくなったんだろうか。  だから、レイはカイエに恋をしたんだろうか。  でも、それは違う気がした。  だったら同じ時間一緒にいたのだから、カイエだってレイに恋したはずだ。  けれど、カイエは出会ったときから何も変わっていない。カイエは二十歳のとき、二人の大切な絆だと思っていた鎖を壊す選択をした。  変わってしまったのは自分だけ。バグはレイだけだった。 (こんなに科学は進歩したのに。心だけは、不自由なままなんだよな)  人が閉ざされた地下空間で幸せに暮らせるようにと鎖システムを開発したのに、運用まで実現しなかったのは、きっと心は不自由なままの方が自由だとラボの人間も気づいたからじゃないか。  レイが昔と今に思いを馳せていたら、ほどなくして中央研究所にたどり着いた。 「あー、本当、ここは変わってないな」  五階建ての灰色の建物をレイは見上げた。人工の太陽光に照らされて、外壁が光を反射している。  十五歳でラボのモルモットから解放されて以来、数えるほどしか来ていないが、レイとカイエはこの場所に五年ほど収容されていた。  元々、この銀灰色のキューブ型の建物に被験者としてレイは出入りしていた。  勝手知ったる古巣。  守衛室にいた五十近い職員の男性に挨拶する。昔この場所にいたレイのことを覚えているのか、あるいは左手首の端末の国民番号から判別したのか、止められたりはしなかった。「あー、ご苦労さん」と一言だけ。レイが鎖の定期検診に来たと思ったのかもしれない。  今日レイが仕事帰りに中央研究所へ来たのは、別に律儀にラボからの召集に応じた訳じゃなく、カイエの迎えだった。  放っておいたら研究で何日も泊まり込むような男だったし、今日もその可能性があった。  せっかく帰って来たのに、また黙ってどこか遠くに行ってしまうんじゃないかと思うと、マンションで一人帰りを待つ気になれなかった。  長い廊下を歩いていると顔見知りの女性研究員とすれ違った。世間話のついでにカイエの居場所を尋ねたら、親切にカイエの所属ラボまでの道順を端末に転送してくれた。どうやら別棟らしい。  渡り廊下を通り抜け、教えられた二階奥のラボに着くと、扉は開きっぱなしだった。おそらく人の行き来が多く応対が面倒だからだろう。カイエの考えそうなことだ。勝手に入って勝手に出ていけと。  入り口のネームプレートには、カイエともう一人名前が表示されていた。  ――ナギ・レイノール。  レイやカイエは、元々孤児でファミリーネームがない。ナギという人は、名前から西花で育った人間だと分かった。名前から、家族がいるかいないかは判別出来ても、女性か男性かは判別できなかった。けれどレイの疑問は部屋の内側から聞こえた口論の声ですぐに解決した。  カイエの声と若い男性の声だった。そっと本棚の影から中を覗くと巨大なコンピューターラックの前で、カイエと若い男が向かい合っていた。 「どうして、私に教えてくれないんですかカイエ博士! もし本当なら、すごい発見です」 「ナギ。五月蝿い。お前は、もう少し静かに喋れないのか?」  カイエの前に立っていたのは、可愛らしい雰囲気の男だった。カイエと同じ長い白衣姿で細身。肌は透き通るほど白く一目みた印象は儚げ。その雰囲気に反して口調はきつい。  研究者としてずいぶん若いと思った。カイエだって若いが、普通は博士となって中央のラボに出入り出来るのは二十代後半くらいだ。十代で研究者になったカイエが前代未聞で異例。  入り口に名前があったので研究助手ではないのだろう。カイエほどではないにしても、研究者の中でも上位層だ。  背はレイより頭半分くらい低く、明るい色の髪の毛がくりくりと巻いている。目の中に星でもあるみたいに、瞳がキラキラしていた。興味が目の前にあると昔はカイエもこんな目をしていたなぁ、なんて思い出していた。  そこまで考えて、ナギという男は子供の頃のカイエに似ているんだと納得がいった。カイエに彼のような可愛げは微塵もなかったが、研究者としての気質が似ているのかもしれない。  そんな同僚のナギにカイエは少したじろいでいるように見えた。 「とにかく。嘘は言っていない。大体、僕はレイと家族だと言っているだろう。それが真実だ」  ――あ、カイエ嘘ついた? 「本当かなぁ?」 「あぁ」  どうして今そんなことが同僚から疑われてるんだろうと不思議に思った。 「私なら、秘密を守れますよ。だから一緒に鎖の研究を進めませんか」 「興味がない。やりたいならラボを移れ」 「えー、だって。サイガ博士のラボは、もう鎖に興味ないし」 「僕もない」 「被験者が目の前にいるのに勿体無いです。別に、ただの変異種なら、私も興味ないですけど」 「鎖は永遠だ。勝手に変異したり、ましてや突然消えたりもしない」 「ですよねー。でも心って一番、バグを生むし不確定でしょう。もちろん私も、そこに興味はないです。でも。――もし、三年前に破壊プログラムを博士が完成させていたら、とか」 「それが知りたくて、僕のラボに?」 「いいえ、博士のラボに入ったのは、私があなたのファンだから。あとは実力かなぁ」 「君とは、もう少しまともな研究についての議論ができると思っていたが? 残念だよ」  珍しいなと思った。レイの知っているカイエなら、すぐに言い負かす。でも今は、鬱陶しいと思いながらも、ちゃんとナギの相手をしていた。  もう少し詳しく二人の話を聞きたいとレイが足を踏み出した瞬間。本棚に手が当たり棚から書類ケースが落ちてくる。 「あ……」  今も昔もカイエのラボは、モノが多すぎる。データが専門のくせに。  バサバサと紙の落ちる音に、カイエとナギが入り口に立っていたレイの存在に気づいた。 「レイ……」 「よ、よう。カイエさん」 「どうして、来た? 何かあったのか」 「あー、何ていうか、カイエさんのお迎え? みたいな? だっていつ帰ってくるか分からないし。飯の準備とか」 「迎えに来なくても、ちゃんと帰るが? 僕が帰り道も分からない幼稚園児に見えるのか?」  憎まれ口は本当に変わってないなと思った。ただ、その目は呆れているというよりは、困っているように見えたのはレイの気のせいだろうか。 「そー、だよな。ははは」 「大体、帰りの時間が気になるなら端末で聞けばいいだろう」  レイが笑っていたらカイエの隣に立っているナギが目をパチパチと瞬かせる。  カイエとナギが並んでいると、場が華やかで圧があるなと思った。どちらも系統は違うが整っている顔をしている。空気の密度がその周辺だけ高い。一緒に仕事をしていたら酸欠になるかもしれない。 「はじめましてぇ。カイエ博士と同じラボ所属になったナギ・レイノールです。あなたが、カイエ博士の鎖ですか? すっごく会いたかったです」 「え、ど、どうも」  ナギはカツカツと靴の音を鳴らしレイの立っていた本棚の場所まで歩いてくる。そして落ちた書類を拾って棚に直すと、レイに向かって右手を差し出した。レイは流れで手を握り返していた。 「あ、すみません、書類落として。ありがとうございます。でも、俺に会いたかった? って何で」 「だって、カイエ博士、絶対に自分の鎖には会わせないとか言うんだもん。ダメって言われたら、余計に見たくなるみたいな?」 「レイ。コイツに余計なことは言わなくていいからな」  ナギに続いてレイのところまで来たカイエは、レイをナギから隠すように割って入って来た。 「独占欲、強いんですね? でも、それは、家族だから? それとも……」 「ナギ!」  ぴしゃりと、カイエはナギの声を遮った。レイが聞いたら都合の悪いことでもあるみたいに。 「僕は帰るから。明日の実験で必要なデータ全部食わせたら、今日はお前も帰っていい」 「わっかりましたぁ。じゃあ、また明日。お疲れ様です」  そのままカイエに背中を押されてレイは部屋から出た。 「なんだ? 帰るんだろう」  呼ばれてレイはカイエを追って、その隣を歩く。 「あのナギって子、すげー優秀なんだろう? あの若さでラボに所属してるんだし」 「優秀でも、あいつは、とにかくうるさいんだ。初等部の子供だってもう少し大人しく出来る。ただでさえ中央は、子供が走り回ってて喧しいのに」 「ふーん」  カイエについて歩いていると近くのロッカールームにたどり着いた。止められなかったのでレイも一緒に中へ入り、壁に背を預けカイエを待っている。  着替えるといってもカイエはロッカーに白衣を片づけただけですぐに支度は終わりレイのところまで戻ってきた。 「どうした。レイが静かだと変な感じ」 「そう?」  ナギのことを心底嫌いみたいに口では言うが、レイは知っていた。カイエは本当に嫌いな相手なら口もきかない。  二人で中央研究所の外に出た。  そのままエレベーターエリアまで直通の駅に行くのかと思ったら、カイエに下道を歩きたいと言われた。  別に一駅くらいだし、歩けない距離でもないので並んで歩くことにした。終業時間が過ぎ、ほとんどの人間が駅に向かうので、幹線道路を歩くのは自分達くらいだった。 「ナギくん賑やかでいいじゃん。二十歳くらい?」 「そう。二十歳。今年試験パスして中央に来た」 「俺、カイエが仕事場で楽しそうにしてて、安心したよ」  本当は嘘だ。心配になった。  自分がカイエにとってなんの価値もない人間だと自覚したから。 「研究は楽しい。人付き合いは面倒。それ以上でも以下でもない」 「ところで、さっき、鎖の研究って、言ってたけど、アレ何の話」 「別に。鎖システムに興味持ってる人間なんて、西花には腐るほどいる。あいつもそうだってだけ。珍しくないだろう」 「まぁ、ね。散々、ラボの研究員にオモチャにされてたし。人体実験って楽しい人間は楽しいんだろうな」 「不快だよ」 「全くだ」  あははと笑って見せたけれど、内心は複雑だった。レイ自身本当は、その鎖関係がずっと幸せだと思って感謝して生きてきたから。カイエはそうじゃなかったんだろうか。 (だから、壊したのか? 他人同士になって清々した?)  胸がちくりと痛んだ。 「あの、ナギくんって子さ」 「何だ、さっきから、ナギナギって。お前は、あんな奴が気になるのか?」 「あんな奴って、気になってるのはカイエさんの方じゃねーの。だって、興味ない人間だと、カイエさんは、そもそも会話とかしねーじゃん。嫌いなら嫌味しか言わないよ」 「へぇ、レイは僕のこと、よくご存知」 「それくらい分かる」  機嫌が悪いのは、ナギがカイエにとって面白い人間だからだ。興味のない人間なら喋ったりしない。  だからカイエと家族でなくなったレイは、近い将来カイエと会話も出来なくなる。  カイエにとって、その他大勢の、喋っても楽しくない人に分類されると思ったら悲しかった。自分がナギのように頭が良く、カイエと同じ視点で会話出来る研究者だったら、カイエの心をこの先も繋ぎ止められるんだろうか。  今は長年暮らした情もあるから、レイと関わってくれているのかもしれないが、そのうち見向きもされなくなる。  近い未来。  きっと、ナギのような人間と話す方が楽しいと思うようになる。また捨てられる。怖い。嫌だ。 「――どうせ、俺は、面白くないよな」  嫌だな。こんなこと言いたくないのにと思った。  家族だったらこんなこと思わなかった。こんな調子じゃ気づかれてしまう。  歪なレイの感情を。バグを。このままカイエと家族でいたいのに。これ以上カイエとの絆を失いたくない。 「おい、レーイ。さっきから何の話をしている」  突然立ち止まったカイエに右手を掴まれた。  学術研究都市エリア。この時間人通りはなく世界に二人だけみたいな感覚だった。  ずっと、このまま二人きりの世界ならいいのにと思う。もう、ラボに行って欲しくない。 「レイ。どうした?」 「お、俺は、もうカイエと家族じゃない」 「――うん」 「そのうち、面白くないって、カイエは俺と喋ってくれなくなる、気がした。ナギくん。面白いんだろ。一緒にいて」  以前は喋らなくても、つながりがあった。今はないから不安ばっかり。  そんな情けない、恥ずかしい気持ちを吐露したレイを見て、カイエは目を瞬かせる。呆れて置いていくなら置いていけばいいと思った。  三年前、レイを置いて一人で外スラムへ出て行った日みたいに。  嘘、置いていかないでって思ってるくせに。わざとそんなことを口にして、カイエとの絆を試している。  情けない。  醜い。  恥ずかしい。  悔しい。  首を切られる瞬間みたいな心持ちで、その場で下を向いて待っていたら静かなカイエの言葉が降ってきた。 「――いや、お前ほど、僕にとって面白い人間は居ないな」 「嘘だ」 「嘘じゃないよ」  カイエは、レイの掴んでいた右手を離す。カイエは多分、口を押さえて笑っている。頭の上から、くつくつと笑い声が聞こえた。  なんか笑うところあっただろうか。 「レイは、最高に面白いよ」 「それは、馬鹿だから?」 「それも、ある。でも、それだけじゃない。もっと単純な理由」 「単純って」  顔を上げたら、世界一幸せみたいな顔をしてカイエは笑っていた。それは、レイが初めて見た種類の笑顔だった。その美しく優しい笑顔をぽやんとしたアホ面で見上げている。  ゆっくりと長いまつ毛が一度閉じ、灰がかった緑の瞳がレイの姿を正面から映している。 (誰だよ。こいつを魔王さまなんて名前付けたの)  悪いことをする人間は、こんな優しい笑顔で笑ったりしないと思った。 「嬉しいな。すごく」  突然、両腕を伸ばしたカイエに抱きしめられた。子供のとき、衝動的にひっついていたのはいつもレイの方だった。家の中だったらカイエからもハグしてくれたけど、外でこんなふうに嬉しいときに抱きしめられたのは初めてだ。  なんで今カイエが嬉しいのか、レイにはわからないけど。 「どど、どうした? カイエ」 「以前のレイはこんなこと言わなかっただろうなって。そう思ったら感慨深い」 「こんなこと?」 「僕がナギとラボで二人きりだと嫌なんだろ? レイは」  少しカイエの体が震えているのは笑ってるからだ。人の気も知らないで腹が立つ。 「ッ、それ、は……家族、だから、心配で、うん。多分そう」 「ふーん? 心配? 僕が? 何故」 「な、何故って」 「ナギは男だよ? 心配なんて要らない。研究熱心で鬱陶しいところはあるが」  カイエはレイの顔を探るように見つめてくる。何だか気まずい気分になる。 「そー、だよな。ごめん、変なこと言って」 「いや。全然、変じゃないよ」 「カイエ?」 「僕はね。レイと家族になったときから、僕が一緒にいて当然みたいに思われてるの、ずっと腹立たしかった」 「何だそれ?」  確かに、そんなふうにカイエのことを自分の所有物みたいに思っていた。けれど、それがカイエに伝わっているとは思っていなかった。 「だから嬉しい。――ところでレイ」  何だか小さい頃みたいだなぁって和んでいたら、笑っていたカイエの美しい笑顔が急になりを潜める。  もう一度抱きしめられたかと思った次の瞬間、突然首筋を思いっきり噛まれた。 「お前、何っ、いってぇ、何するんだよ!」 「――レイ。お前、今日、どこに行ってたんだ。仕事は?」  顔を上げたカイエの目が据わっている。  顔が整っている人間の無表情ほど怖いものはない。そのまま手を引かれて、建物の影まで引き摺られていく。  おもむろに壁に背を押し付けられ、顔の横に両手をつかれた。身動きが取れない。  場所を移動したことで薄暗くなり、カイエの目から光がなくなった。  冷たい笑顔で見下ろされた。理由は分からないが怒っていることだけは分かった。 「ねぇ。今、レイから石鹸の匂いがしたのは何故?」  すん、と鼻を鳴らし髪と肌の匂いを嗅がれる。 「せ、石鹸? ……あぁ。さっき、第二階層の配達行ったラボで」 「誰と、何をしたの?」 「シャワー浴びて、な、何で怒ってるの? カイエさん」  言った瞬間、もう一度首を噛まれた。
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