第十一話

1/1

36人が本棚に入れています
本棚に追加
/24ページ

第十一話

 西花の環境システムは、空調を含めて全てが快適になるように設定されている。それなのにレイの背中には今じとりと気持ちの悪い汗が浮いていた。ティエのラボでシャワーを借りたのに、もう一度頭から熱い湯を浴びたいくらいだ。 「第二階層のラボは配達先だろう。何故そこでシャワーを浴びる必要が?」  静かなのによく通る綺麗な声。こんな尋問みたいな状況でなければ、うっとりと、その心地よさに酔うことが出来た。探るように顔を覗き込まれ、レイは顎が少し上がる。カイエのサラサラとした絹糸のような黒髪が頬を流れる。それを断頭台に立つ囚人のような気分で見つめていた。 「だ、だから、ティエさんに言われて、仕方なくシャワーを」 「仕方なくラボでシャワーを浴びる状況って、なに? 家族でもない人間の前でレイは服を脱いだの?」  ぐっ、と首元にあったカイエの手の力が強くなる。 「んっ、ぐっ、カイエさ、どうしたの」 「はぁ。育て方を間違えたか」 「育て方って、おい」  呆れてため息を吐くようなポイントがあるように思えない。訳が分からなかった。 「ティエ。確か、生態系の研究所の所長だったか」 「何で知ってんだよ。会ったこともねーのに」 「研究所の人員名簿くらい一度見たら覚えるだろう」 「普通覚えねーよ! 何百人いるんだよ!」  自分の研究に関わる人間だけならまだ理解出来るが、ティエとカイエは分野が違う。レイが聞けば、それ以上のこともチャットボット並みに答えが返ってきそうで怖い。どんな記憶容量だ。 「で、そのティエが? 何?」  カイエの笑いのツボは変だ。それ以上に怒るツボは、もっと意味不明だった。 (さっきから、何、怒ってんだよコイツ)  ホログラムではない実体のある壁がレイの逃げ場を塞いでいた。薄暗い壁と壁の間。空気まで薄くなったみたいに感じる。何も後ろめたいことなんてないのに、この場から逃げたくなった。  カイエの端正な作りの長い指先がレイの頬から首筋へと探るように動く。さっきカイエが噛んだところで止まった指先が、トントンと動いた。レイの返答を促している。噛まれた患部がじんわりと熱を持っていた。 「痛かった? 首、血が滲んでる」 「いぃ痛いに決まってるだろ! 首なんか噛みやがって動物か!」 「人間も広義では動物だよ」 「知ってるよ! そうじゃなくて、あー、もう。どうしたんだよ?」 「別に」 「別にで、噛むか?」  話しているうちにカイエは怒っているんじゃないって分かった。  多分これは拗ねているのだ。以前よりカイエの感情の機微をすぐに掴めないのは、やっぱり鎖を解消したからだろうか。  カイエが肩を落とす。 「――悪かった。人が中央で仕事している間に、お前が遊んでたんだと思ったらムカついた」 「ムカついた」  カイエの言葉を言われたままリピートしていた。 「だから噛んだ。僕が悪かった」 「だからって、お、お前なぁ二十三にもなって、噛むって、餓鬼か!」  レイを拘束するために壁と首元にあった手は、今は降参したみたいに両手を肩の位置で上げている。ちょっとは反省しているらしい。  らしくなく子供じみた「ムカつく」なんて言葉を選んだカイエにイラッとする。  レイが一人百面相している間に、勝手に納得したのか唐突にカイエは落ち着きを取り戻していた。本当にわけが分からない。人に噛み付いただけで癇癪が落ち着くなんて、動物じゃなくて何なんだと思った。 「悪かったよ、子供みたいなことして。それで、どうして研究所でシャワーを浴びる必要があったの?」 「あー、だから、ね、猫がね」 「ねこ」  ため息混じりの色っぽい声で発せられた「ねこ」という言葉が、とてつもなく艶かしい単語に聞こえる。人工甘味料じゃない天然由来の甘さだ。  三年前まではカイエの一挙一動に、こんなにドキドキして狼狽えることなんてなかった。カイエと再会して以来、初めての感情に振り回されっぱなしだ。 「だから今日さ、外で作業している時に俺の置いてた白衣の上で猫が昼寝してて」 「白衣の扱いは再考した方がいい。白衣は普段着じゃない」  同じことをさっきもティエに言われて怒られた。呆れ声で返事をしてしまう。 「なぁ研究者って、そんなこと言う奴ばっかりなのか」  そもそも白衣はラボへ出入りするために強いられて着ているだけだ。面倒だし普段着でいいなら普段着で通したい。 「白衣が泥で汚れていたら、白衣の意味がないだろう。それで?」  カイエは先を促す。 「だから、その白衣着てラボ行ったら、ティエさんが猫アレルギーで涙ボロボロ」  くしゃみとか咳も出て大変だったと続けたら大きなため息で返事をされた。カイエは大袈裟に眉間を指で押している。お前は何をやっているんだって声には出していないけれど声が聞こえた。 「分かった」 「そーかよ。遊んでたんじゃないからな俺は、ちゃんと労働してたし」 「あぁ。ほら、行くぞ」 「行くって、何、ちょっ、カイエ!」  カイエはレイの手を握って歩き出す。さっきまでいた明るい幹線道路へと戻った。急に昼間の陽光の下に帰ってきたせいで目がくらんだ。地面に何もないのにつまづいて転びそうになったところをカイエに抱き止められる。 「危ないよ」  そのまま倒れるかと思ったのにカイエは転ぶことなく立ったままだった。力強く広い胸に驚いた。 「危ないって、カイエが、いきなり手引くからだろ。どうしたんだよ急いで」 「今から第二階層のラボに行こう」 「え、何で」 「何ででも。急がないとラボの受付が閉まるから」  カイエは左腕の端末で時間を確認すると、急ぎ足でエレベーターホールのある方向に向かって歩き出した。速度は変わらないはずなのに、カイエと一緒に歩くと少し遅れて小走りになる。 「ラボって、今日の仕事終わったんだろ」 「お前は学校で学ばなかったか。家族の不始末は家族が謝罪に行くものだ」 「え? なに、何で謝罪?」 「レイが汚れた白衣で行ったから、ティエは体調不良になったのだろう。アレルギーは甘く見てはいけない」 「そう、だけど」 「ティエに会う。この時間なら急げば、まだラボにいるだろう?」 「そ、そりゃ、いるだろうけど」  例えば初等部の子供同士が喧嘩をして親が呼び出されるのは、よくあることだ。「うちの子がすみません」「いえいえ、こちらこそご迷惑を」って奴。  けれど、いくら家族が何かやらかしたからって二十三の大人がやることじゃない。確かに昔もレイがクラスメイトと喧嘩したとき迎えに来ていたのはカイエだった。呼べるような家族がカイエしかいなかったから。ただ言うまでもなくレイの代わりに相手の親に頭を下げたりはしなかった。喧嘩の経緯を一通り聞いたあと「喧嘩ならもっと上手くやれよ」と言ってさらに状況をややこしくした。僕なら証拠が残らないようにやる、とも。 (コイツ、ティエさんに会って、なにを言う気だよ)  カイエの昔の毒舌録を思い出して嫌な予感がした。 「いや、でも、別にさぁ」 「何か問題あるか?」 「だって、お前が謝罪とかするたまかよ」 「レイのためならね。するよ」 「本当かよ……嘘くせーの」 「謝罪もだけどティエにレイは、お世話になっているのだろう? 僕がいなかった三年の間も」 「そりゃ、ティエさんのラボは、うちのお得意様だけど」 「なら、挨拶くらいしてもいい」 「で、でもなーティエさん。カイエ博士に傾倒してるからなぁ。お前見たら感激して鼻血出すんじゃね」 「鼻血?」 「カイエ博士のことが大好きなんだよ、ティエさん」 「へぇ、僕のファンなの? 趣味が悪いんだな」  手を繋いだまま隣を歩くカイエの目が笑っていない。誰が誰を好きとか本当に興味がないんだなと思った。今この瞬間レイの心臓の音が手を伝ってカイエに聴こえればいいのにと思った。そうすれば、ままならないこの気持ちを少しは共有できる気がする。  ――恋愛感情って、カイエにもあるんだろうか。  コンマ数秒の思考ですぐに答えは出た。ない。  十年、鎖同士として一緒に生きてきたからこそ分かる。家族か、研究か、カイエはの好きは、それだけだ。  自分だけ、バグが生まれたことが悔しい。  それなら、いっそのこと、ずっと鎖同士でいたかった。そうすれば家族としてだけはカイエを独り占め出来たから。 「趣味が悪いとか、そういうこと言うなよ」 「僕は学者バカらしいから。人に好かれたところで、ね」 「でも、研究職なんてある意味人気商売だろ、人には好かれた方がいいじゃん。恩は売っておいて損はない。あーあと愛嬌もね。金ないと研究は続けられないんだから」  嘘の気持ちはスラスラと言葉に出来た。  きっと家族だったら、こう言う。家族目線で返したけれどカイエの返事はレイの想像と違ったものだった。 「――変わったな。レイ」 「え、え? 何で、どこがだよ」  自分のカイエに向ける感情の変化に気づかれたのかと思って焦った。気づいて欲しいと思ってるくせに、いざその場面になると怖い。 「僕以外の世界を見てるところ」  レイの世界は今もカイエばっかりだ。カイエしか見ていない。  鎖関係だった時も、鎖を破棄されてからも。カイエを自分だけのものだと独占したい。  変わってないよ。気持ちの種類が変わっただけ。そう心で返事した。  さっきカイエが噛み付いた首筋の傷がじくじくと痛む。同じようにレイもカイエの首筋に噛み付きたかった。けれど、もし噛み付いたら違う感情までぶつけてしまいそうだった。 「きっと鎖じゃなくなったから。やっぱり寂しいね」 「ただの、成長だろ。子供じゃなくて大人になったから」 「そう? ――僕はね、好きはレイだけでいいよ」 「え」  カイエは、いつだって欲しい言葉をくれた。今も同じだ。けれど、昔みたいな安心は心に満ちてくれなかった。代わりに不安ばかりが募っていく。いつまで、この偽りの家族ごっこをカイエは続けてくれるんだろう。 「……家族だけ、好きでいてくれたら、僕はそれでいいな」 「カイエ、それじゃダメだ」  家族じゃ嫌だ。けれど、家族じゃないとカイエと一緒にいられなくなる。気持ちのぶつけ方が分からない。どうすれば安心できるのかも。せっかくもう一度カイエに会えたのに。不安ばかりだ。 「どうして? 僕はレイが僕を好きでいてくれたら、それでいいよ」  それは家族愛としてだ。恋愛感情じゃない。レイが欲しいのは後者だ。 「カイエ!」 「なぁに」  隣を歩いていたカイエがレイを見下ろす。 「す、好きって、家族愛だけじゃないからな。カイエも近い将来、俺以外の誰かを好きになる、よ。……絶対」  歩いていたカイエが、また突然立ち止まる。 「ねぇ……レイ、今のもう一回言って」 「何をだよ」 「今、言ったこと」 「家族愛だけじゃない?」 「その次だ」  目を丸くしているカイエは何か驚いているようだった。言いたくないことをもう一度言わされて、何だか泣きそうだった。じわりと目が潤む。 「か、カイエも、俺以外の誰かを、好きに、なる」  言い終わるとカイエは、考えるような仕草をした。そんな悩むようなことを言ったつもりはなかった。まるで難しい問題でも解くような顔だ。 「――僕はね、この先、永遠にレイは、恋心を理解しないと思っていた」 「は、はぁ、何を! 喧嘩売ってんのか! こ、恋くらい、する」 「そうだね。僕も、恋くらいする」 「は、はぁ? え、何で、カイエさん、仕事が恋人なんじゃ……」  今度はレイが驚く番だった。無口で無愛想なカイエが他人に恋するなんて考えたことがなかった。今日まで、そんなそぶりをレイにみせたことがない。いつ? 誰に? カイエが恋を? 混乱していた。 「あと、僕は無機物に恋する趣味はないな、仕事は恋人じゃない」 「そうじゃなくて!」 「確かに、僕は、ずっと自分はアセクシャルだと思っていたけれど」 「あ、何?」 「他者に性欲を抱かない人」 「せ、せい、よく」 「性欲はあるよ。普通にね」  カイエの性欲って言葉は、全然いやらしい感じがしない。 「カイエ、さんは、誰に、こ、恋したの、俺、知らなかった。全然。付き合ったりとかしたの、ねぇ! いつ!」  小さな子供みたいに戸惑って、カイエの両手を掴んで質問責めにする。カイエは心底楽しいみたいに余裕の表情をしていた。ムカつく。 「誰だと思う?」 「ら、ラボの人、とか」 「違う。そもそも付き合えなかったから。そういう運命だったよ」 「片想い、か」  カイエも人並みに誰かに恋して、失恋していたんだと分かった。恋なんて知りもしないで、カイエのことで頭がいっぱいだったレイとは違った。 「ねぇ、レイ」 「な、なに」 「僕はレイが年相応に他人の感情を理解できるようになったことが、とても嬉しいよ」 「感情を理解って、お前にだけは言われたくない」 「だって、生殖とか言ってたレイがねぇ。恋とかいうんだもん。笑えるよね」  くすくすとカイエは綺麗に口角を上げて笑う、そのまま不思議と上機嫌になり、レイの前を歩いてエレベーターホールに向かった。  レイは、その背をドキドキしながら見つめていた。
/24ページ

最初のコメントを投稿しよう!

36人が本棚に入れています
本棚に追加