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第二話
抱えた沢山の花をラボのティエという初老の博士に見せる。すると顎で置き場所を指示された。どうやら手が離せないらしい。レイは、展望室でのことを思い出して左腕の端末でデータを表示した。
「――なんだよコレは」
ティエは表示されたデータをまじまじと見る。面倒臭いと思っていても、データを出されると目を通してしまうのは研究者の性なのだろうか。
「なんでしょうね。ティエさん読めますか? さっき、植物園に来た女性に見せたんですけど」
「お前が見せたんじゃねーのかよ」
レイと違って国家ラボの人間の白衣の裾は皆、膝丈で長い。草花を育てて畑仕事をするようなレイは、長い白衣だと裾を踏んづけるから短く作ってもらった。
どうせなら上下ジャージが良かった。けれど花を届けにラボへ入るには、それなりの格好をすべきだと上長から嗜められて、折衷案でこうなった。下は動きやすい伸縮性のあるデニムだ。
「こりゃ、あれだ。本日の料理、火鍋の作り方だな」
ティエはデータに目を通すと再び目の前のディスプレイに視線を戻す。眉間に皺を寄せ、顎髭を触りながら研究データと睨めっこしていた。
「火鍋?」
「知らんのか。辛いんだよ。クコの実とか八角が入っててなぁー」
「クコの実って、あの赤くて可愛い? 別に辛くないですよね」
第一階層の植物園にもクコはある。低い木で薄紫色の小さい花が咲くので、観賞用として好きだった。
「そうじゃなくて、あーもう、お前がうるさいから、間違えたじゃないか!」
部屋中にビービーと不快な電子エラー音が鳴り響いた。ティエは、集中力が切れて諦めたのか、近くの紙袋からガサガサと中身を漁り、ラムネを口の中に放り込む。疲労回復用のドラッグより、子供の食べるような菓子が一番作業に集中できるらしい。成分はブドウ糖だとか。
レイも、それなら地に足ついている感じで納得できる。化学だとかデータのことはふわふわしていてレイは好きじゃないし、いつも納得感がない。
ないものよりあるものが好きだ。
「邪魔して、すみません、気になって」
「自分で、読めばいいじゃないか。端末のデータなんだから」
「データより、人から耳で聞いた情報の方が楽しくないですか?」
「私は、お前の娯楽に付き合わされたわけか」
「まぁ、そうですね」
「つか、お前の名前レイだろ。中華圏の出なら、火鍋くらい食べたことあるんじゃないのか、まぁ、お前らの頃は、もう食品規制があった時代か、若いし、そういうの気になるか」
「花屋ですよ? 気にしてるなら一階で植物育てたりしていませんって。俺は、スラムの出なので。まぁ、施設に収容されて幸せに育って、こうして仕事も持てましたが」
「そりゃ大変だったなぁ。けど、中央の国家研究所の施設っていえば、あの有名な『魔王さま』がいるだろ? 私も死ぬまでに一回くらいは話してみたいんだが。育った場所なんて関係ない。彼は本物の天才だよ! カイエ博士、知ってるか?」
興奮気味に話すティエはいつもより饒舌だった。
「えぇ、有名人ですから」
「まぁ、今は、ラボにも、顔を出してないが、あの事件がなければなぁ。私は、彼を支持しているんだが世論が――」
「俺は……」
「カイエ博士、今はどこに居るんだろうなぁ。定期的に研究データは送られているし、生きてはいるんだろうが、メンタル面も心配している」
「はい」
「そういえば、魔王さまには、鎖がいたって噂が前にあったなー。多分間違いだと思うけど。お前、知ってるか?」
「あ、ティエさん、次のラボまで、花を届けにいくので、俺、そろそろ失礼しますね」
「おぉ、お疲れ。またよろしく頼む」
レイは、そこで、ぴしゃりと無理やり話を終わらせた。
本当は、今日のラボへの花の配達は全て終わっていた。会社にも戻らず直帰だ。
巨大エレベーターに乗り、地下、第三階層の住居エリアに戻る。ドアが開き降りたその場所は、はるか昔、地上にあった住宅街そのものだった。その大部分が映像出来ていて手で触れれば消えるような魔法の箱だ。
本物とは程遠いが生活には困らない。見た目は百年ほど前にアジア圏にあった暮らしができることが売りのエリアだ。
ここが現在レイの住んでいる場所。
ドーナツ型に出来ている居住区の真ん中には、向こう岸が見えないくらいの穴がある。そして昼間は広告や季節が感じられる美しい映像が投影される。
夜は真っ暗闇。
レイの歩いている道路から見下ろしても、地下がどこまで続いているのかは見えない。地下にある宇宙。ブラックホールにも見えるディスプレイ。その外は温度も気圧も異なる空間だ。生き物は生活出来ない。
見上げれば、いつも偽りの空が広がっていた。
明るい青空も、星の綺麗な夜空も全てデジタル。今、レイの目に映る空間全てが、プラネタリウムみたいなものだった。
たどり着いた自宅マンション。十階建ての最上階。一番奥の部屋。扉を開けると暗かった自室に自動でライトが付いた。
洗面所へ行けば鏡には、くせのある茶髪を短く襟足で一つ結びにしている自分の姿が映っていた。外にいるとき首に髪が張り付くのが気持ち悪くて、豚の尻尾みたいに結んでいた。
結び目を解いて、部屋のローテーブルの上に投げる。そのまま外のベランダに出ると、夜風が吹いて髪が靡いた。けれど、その風が偽物の風だとレイは知っていた。
西花の風は、いつもシステムによって濾過され柔らかく優しい。
外の風は、もっと無遠慮で、熱くて冷たいものだ。朝整えた髪は、すぐにぐしゃぐしゃにするし、何なら建物を吹き飛ばすような暴風雨もある。
けれどレイは西花より、意地悪な外の環境が好きだった。ここでカイエのいない毎日を過ごすくらいなら、一人、不自由な外で生きた方がマシ。
それをしないのは未練や執着かもしれない。
レイは、いなくなったカイエの帰りを西花のこのマンションの一室で待っていた。
鎖がなくなりカイエと家族でなくなった今、カイエがレイの元に帰ってくる保証はどこにもない。
既に赤の他人同士に戻ってしまったのだから、帰ってくる理由がなかった。
レイは鎖がなくなってから、胸にぽっかりと穴があいたままだ。
アルコールなんて飲んだことがなかったのに、一人で暮らすようになってから体に悪いものばかり口にしている。
アルコールが、その一つだ。
ベランダで偽物の風に当たりながら、冷蔵庫から出した缶ビールを飲んだ。本当は高級品だけど、体に悪い物は誰も飲まないからと、ラボからタダで横流ししてもらっている。
「あー、まっず……」
別に酒は美味しくないと思っているのに、晩酌が癖になっている。それ以外の寂しさの埋め方が分からない。
レイとカイエは、鎖といわれる関係だった。
鎖(チェイン)システムは、国家政策で行われた洗脳プログラムだ。スラム街出身で家族がいなかったレイは、施設に収容された日、国から偽りの家族という幸せを与えられた。
擬似家族の名前は、カイエ。
地下のラボで初めて出会ったカイエは、外で見たカラスみたいな真っ黒の髪をしていた。無口で、全く笑わない自分と同じ年頃の少年。
育った環境のせいかもしれないが、とにかく可愛げがないし、愛嬌もなかった。
絶対に自分とは相容れないって思っていたのに、ラボの人間から、体にプログラムを打ち込まれた瞬間、カイエのことが世界で一番愛しい人になったのを覚えている。
「もう一度、会いたいな。カイエさんに」
偽物の夜空に、何度目か分からない独り言を呟いた。
あんなに幸せだったのに、レイはカイエの手で家族関係を一方的に解消されてしまった。
あの絶望の日からずっとレイは寂しいままだった。
確かにカイエとの家族の繋がりは消えたのに、愛しいと思う感情だけが、ずっと治らない怪我のようにレイを苦しめていた。
「バカ、カイエ」
レイが空に向かって恨み言を呟いたときだった。
静かだったベランダに突然小さなデジタルの雑音が響いた。空間の故障だろうかと訝しんだ。重ねて大きなため息が聞こえた。
「レーイ。アルコールなんて、やめろ。体に悪いだろう」
酒のせいで聞こえた幻聴だと思った。
「……五月蝿いな、俺の勝手だろう」
レイは長年染み付いたくせで、偽物の愛しい声に悪態を返す。
「前は、もう少し可愛くて素直だったのにな。酒のせいか? 馬鹿になるぞ」
「うるせー、元々馬鹿だよ、お前と比べたら」
「そうだな」
やけにはっきり聞こえる幻聴だなと思った。
そう思った瞬間、ホログラムが消えて、実映像が現れた。手が、腕が。レイは、それを視線で追う。
ずしりと確かな重みが、背中にのしかかってきた。レイとは違うアルコールの匂いがした。さっきリビングを通ったとき、自分で出した記憶のないウィスキーのボトルがテーブルの上にあった気がした。
それはレイが棚に置いていた秘蔵のウィスキーだ。カイエが帰ってきたら一緒に飲むつもりだった。
先に飲まれている。
「レイ、会いたかった、愛してるよ」
振り返ると、夜会用の洒落た中華服を着たカイエが立っていた。
どこに行ってたんだよ、と怒りが込み上げてくる。
「ッ、こ、殺してやる。俺が、どれくらい……」
震える声で物騒なことを言っていた。何度も繰り返した独り言に応えが帰ってくることが嬉しい。生きていて嬉しい。偽物でも、愛していると言ってくれて嬉しい。
「いいよ。レイに殺されるなら、どうぞ」
そう当たり前のように言って両手を広げられる。
「嫌だ、絶対、死ぬな」
反射的に抱きついていた。データじゃない、本物のカイエの体だった。
「どっちだよ」
「……おかえり」
涙でぐちゃぐちゃで前がよく見えない。
「あぁ、ただいま」
三年間、レイの前から姿を消していた「魔王さま」がなんの前触れもなく、突然帰ってきた。
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