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第四話
* * *
旋風が巻き上げた土と草の匂い。その場に佇んで遠くにあるはずの山や川に思いを馳せる。
いつだって、レイの立っている場所からは地平線の彼方まで何も見えない。乾いた砂の嵐。
これが、レイの原風景だった。
夢に見る場所に、もっと自然があったらいいのにと思う。
無機物に囲まれている生活より、夢の中で思い浮かべる何もない荒地の方が、まだ好きだ。
空を見上げれば、赤や青のネオンサイン。穴あきのコンクリートの地面には常に割れたガラスや電子部品が散乱している。
レイは物心ついた頃から薄汚れたスラムで物乞いをしていた。
けれど夢で思い浮かべる懐かしい風景は、いつも馴染みのない平原。
カイエと収容施設で出会ったとき。レイは十歳だった。
荒れた生活をしていたから、すでに見た目も中身もかなりすれていた。それに対してカイエは、王侯貴族のバラ園で紅茶でも飲んでいそうなオーラを身に纏っていた。金持ちで気位の高そうな、いけ好かない雰囲気。
もちろん身なりはお互い汚く、似たり寄ったり。でも同じように薄汚れていてもカイエは自分とはまったく違う人間に見えた。
頭の先から足の先まで、見えない絹糸がピンと張られているみたい。
そんなカイエと施設の部屋で初めて二人きりになったときのことだ。
――なぁ。そんなで、どうやって生きてきたんだよ。
レイの口は自然に開いていた。
「そんなって」
一拍あとに抑揚のない冷めたトーンの声が返ってきた。
そんな、とはカイエを貶すための言葉じゃなかった。思った疑問を素直に口にしただけ。物静かで腕っ節の弱そうなカイエが、荒れた街で今日まで無事だったのは奇跡だと感じた。
「だって、喧嘩とか出来ないだろ」
真っ白な壁。清浄な空気で満たされた人工物に囲まれている部屋。十歳くらいの子供たちへ与えるにしては広すぎる部屋だった。
与えられた部屋に入るなり、カイエは中央の薄緑色のソファーを陣取っていた。
その時点で、既にカイエの鎖になっていたレイは、聞きたいことはなんでもカイエに聞いて当然だと感じていた。――だって俺たち家族だしな、って頭が勝手に考えている。
家族だから、何を訊いたって絶対大丈夫だ。
まだ冷静さが残っている脳の一部では変だと思ったけど、感じてしまうのだから仕方がない。
「力が無い奴は、頭を使うんだよ。僕はそうしてきた」
カイエは腕時計みたいな端末を熱心に触りながら答えた。最新式のオモチャを与えられて、カイエはご機嫌らしい。
(いま、コイツ、ご機嫌なんだよな?)
他人の細かな喜怒哀楽まで分かるなんて、家族ってすげーなって思った。カイエは別に表面的には一ミリも笑っていなかった。
何だか今ならお腹空いてるとか、体調が悪いとか、カイエのことなら全部分かる気がした。
実際のところ『本当の家族』にそんな便利機能はないと、あとでラボの研究員に聞いた。愛着って感情をお互いの思考に植え付けた効果らしい。
好きな人のことは、何となく分かるものだって言われた。
特別親しい他人なんていなかったから、レイは人として当然のことも知らなかった。
スラムでゴミのように生きていた不幸な子供が、施設の人間から家族という素敵なプレゼントを与えられた。しかも、この先ずっと明日の寝床と食事の心配をしなくていい。ハッピーエンドだ。
これはレイが思っていたことに過ぎない。
真実は、西花という国が「永遠に幸せな場所」であるために行われた人体実験。
レイたちは、その犠牲者で、モルモット。
けれど、別にレイとカイエは施設の人間に騙されたわけじゃない。連れてこられたときにメリットとデメリットは事細かに説明されていた。無論、十歳のレイに理解出来る内容ではなかったけれど。
――西花という国が、安全で安心な社会であり続けるため思考実験に協力して欲しい。
――レイとカイエは家族になる。
――この家族の定義は、擬似的な血縁関係で、一種の洗脳。システム名は鎖(チェイン)。
レイとカイエが撃たれた鎖は、心理学でいう愛着感情だという。
親が子供を大切と思うように、あるいは、子供が母親を求めるような強固な結びつきが二人の間に出来た。
ただ、同時に、お互いのことを一番好きにはならないし、一番嫌いにもならない、と研究員は言っていた。
(それって、なんか俺に悪いことある?)
って思った。
幸せと引き換えに背負った義務は、カイエと家族として生きることだけだったから。
レイにとっては別に不幸でもなんでもなかった。
家族になることを受け入れたその日から、二人は一緒の部屋で暮らすようになった。
最初は第七階層にある施設で、他の収容者と一緒に飼われていた。飼われているといっても、定期的にラボの人間からの質疑応答や体の検査があるくらい。二人が住むのに十分な広さの部屋も与えられていたし、毎日研究所傘下の学校にも通っていた。
レイは学校の勉強なんて嫌いだったけど、地頭のいいカイエにとっては、逆に物足りなく、つまらないようだった。
十五歳までの監視下での暮らしは、窮屈だった。でも、それがあったからカイエと本当の家族になれたのだとレイは思っている。
そもそも、同じ外スラムで生きてきたのに、レイとカイエには共通点がなかった。
施設暮らしのあいだ、レイはカイエに質問ばかりしていた。
カイエはレイのつまらない質問責めにも、嫌々ながらなんでも答えてくれた。多分、家族じゃなかったら、カイエはレイと最後まで関わってくれなかったと思う。
レイに原風景について教えてくれたのもカイエだった。
――旋風が巻き上げた土と草の匂い、地平線。
「な、カイエー。地平線の彼方まで何もないところって行ったことある?」
それは、レイが覚えているなかで、一番なんの脈絡もない唐突な質問だった。それなのに、いつも嫌々答えていたカイエが、その時は何故か食いついてきた。
学校から出された面倒な宿題のあと、カイエは訳の分からない記号だらけの本を読んでいた。今日も「ない」だけで素気なく会話が終わると思っていたのに、その日は、ちゃんと本から顔をあげてカイエはレイの顔を見た。くっきりした三重瞼をぱちぱちとゆっくり瞬かせる。
「無いけど、知ってるよ」
「なんじゃそりゃ」
「ずっと昔から行きたいって、思ってるから」
その頃には、レイはカイエの興味の範疇を知っていた。だから自然を欲していると聞いて驚いた。カイエは自然より、無機物に囲まれた部屋で勉強してる方が好きなんだと思っていた。
コンピューターとか、電子部品とか。プログラミングとか。
「……俺も、なんでだろうな、知らないのに、ずっと覚えてるんだよ。懐かしいっていうか」
「原風景。人の心の奥にある一番最初の風景って、そういうものらしい」
「なぁ、でも変じゃね? カイエも同じなんて。それって俺と鎖になったから?」
「どうだろうね。レイと鎖になる前から、僕も、そう思ってたけど」
「けど?」
カイエは、ふっ、と息を吐くように笑った。
「けど僕の場合、寂しいから、そこに花があったらいいなって、ずっと思ってる。だから、正確には、僕のは原風景じゃない。希望、だな」
「へぇ、ふーん」
急に胸がドキドキして、頬が熱くなっていた。嬉しくてひどく興奮していた。全然同じところがなかったのに、一つ目の同じを見つけたから。
「レイどうかした? 顔が赤い。熱でもある? レイは、馬鹿みたいに走り回るから。汗はちゃんと拭かないと、体は冷えるし、風邪をひく」
カイエは首を傾げてレイに向けて手を伸ばす。当たり前のように額や首筋に触れて熱を確かめてきた。こういうとき、あぁ、カイエと家族なんだなって思った。
ここに来るまで、人から当たり前のように心配を向けられた経験がなかった。
「だ、大丈夫! つか、そんなやわじゃねーよ。カイエじゃあるまいし」
「レイよりは強いつもりだけど。体力測定、僕に負けただろ」
「う、うるせーな」
「で、その記憶だけど。気になるならラボの人に聞いてみたら? 嬉々として「事情聴取」してくれると思うよ」
ラボの人がする検査のことをカイエは、事情聴取だといつも言う。
「い、いい! したくない」
「それは、僕も同意見だな。面倒だし」
なんだか、ラボの人に、この話を教えるのは、もったいない気がした。
自分と同じように、荒地に花や木があったらいいなとカイエが思っていたことが嬉しかった。
カイエと家族になって、嬉しいことはたくさんあった。けど、だからといって、毎日楽しく穏やかに会話していた訳じゃない。小さな喧嘩はしょっちゅうしていた。それでも、同じ部屋で毎日食事をするし、片方が熱を出せば心配して看病する。
そういうのが家族らしいと知った。
そんな些細な日々の喧嘩も含めて、レイにとって、カイエと過ごした日々は、とにかく幸せだった。
鎖で思考をプログラムされているといっても、自分の意志が完全になくなっているわけじゃない。基本的にお互いの人間らしい気持ちは、システムに尊重されていた。
そこまでラボの洗脳が高性能ではないのは、最初から聞いて知っていた。
ただ、一番最初に説明された「一番の好きと一番の嫌いがない」って話だけは納得していなかった。
なぜなら「俺のこと一番好き?」と聞けば、いつもカイエは「うん」と言ってくれたから。
レイもカイエのことが一番だった。
一番がないなんて、ラボの人は嘘を言っていると思っていた。
もちろん、歳を重ねれば学校でいろんな話を聞くようになったし、比較的早い段階で、割とあっさり、自分でその言葉の真意には辿り着いていた。
ラボの人は、子供のレイとカイエに分かるように「一番の好きと嫌い」と言っただけだった。
その言葉の本質は、家族の基本的な機能の中で、性的な、生殖機能、子孫を残す機能は持たないという話だった。
ラボの人がいう、鎖の擬似的な血縁関係とはそういう意味だ。
十歳の子供へ、どんなにお互いを好きになっても、欲情はしないと言えなかったのだろう。
言ったところでレイも理解出来なかった。
確かに、鎖関係の二人が家族じゃなくて、恋人になってしまったら、実験の継続が出来なくなる。
レイは「一番の好きがない理由」に気づいてからは、鎖は前提条件が、そもそも間違っていると思うようになった。
レイがいたスラム街には、歪な利害関係で結びつくような家族がたくさんいたから。
世の中の全てが、仲良し家族じゃない。
それでも、レイは家族が欲しかった。
寂しかったから、誰かと繋がる幸せが欲しかった。
もし誰かと繋がることが幸せの本質なら、実験に使う鎖は「友達」でも「恋人」でも良かったはずだ。家族として固定された理由だけが、分からなかった。
――まぁ、だから、実験なのか。
レイは、それで無理やり納得していた。
幸か不幸か、擬似家族の実験は成功し、十五になってもレイとカイエの家族関係は破綻しなかった。
引き続きラボとの契約は続くが、収容施設での監視下の生活ではなく、レイとカイエは、施設の外で生活することになった。
レイは変わらずカイエにべったりで、さらに、思ったことを何でもすぐにカイエに聞くのも、相変わらずだった。
だから、件の一番の好きに関しても、気づいたその日にカイエに聞いていた。
「なぁ、俺とお前は絶対生殖する可能性ってないだろ?」
「は?」
夕食後、レイはソファーでゴロゴロしながら、隣で座って本を読んでいるカイエにさらりと言った。
カイエは、呆れて物が言えないみたいな顔をしていた。
「いや、だって、男と男で子供は産まれないんだし、なんでラボは一番の好きを選択肢から消したんだと思う?」
「レイは、子供だね」
「何でだよ」
カイエも同じ歳で子供だろうってほっぺたをつねったら、額にキスをされた。
「……あのさ、前から思ってたけど、カイエって、キス好きだよな」
カイエからの過剰なスキンシップは、今に始まったことじゃなかった。口では、馬鹿だアホだとレイに辛辣なこと言うくせに、ベタベタとくっつくのは好きだ。
「ただの嫌がらせだよ」
「別に、俺、キス嫌じゃないけど?」
カイエは、にこりと綺麗な顔で笑う。
「こうすると、ラボの人間が青い顔をするから面白いんだよ」
カイエは、そう言って部屋にある監視カメラを指差した。
初対面では喧嘩もできない優男に見えた。けれど、猫被りなだけで、中身は大人になっても人を小馬鹿にする悪ガキそのものだった。
施設の人間はカイエのことを良い意味でも悪い意味でも手に負えない子供だと思っている。
十五のときカイエは飛び級して学校を卒業し、ラボの研究員になった。
研究用のモルモットとして施設に連れてこられたはずなのに立場が逆転していた。
「あと、自分達の鎖がどれくらい強固なのか、試してみたくて。研究者としての本能」
「それを俺で試すなよ。つかキスで鎖の強度が分かるのか?」
レイはソファーから上体を起こした。
「嫌なら、もうしないけど」
「別に、したいなら好きにしていいけど。実験みたいに言われると、なんかムカつくから嫌だ」
「そう、ごめんね。じゃあ、ちゃんとするよ」
そう言って頭を胸に引き寄せ、もう一度額にキスされる。
レイはカイエにキスされたり抱きしめられると、いつも不思議と眠くなった。何だか落ち着く。
「ラボの人間は、鎖システムにバグが入る可能性を考えないから、いつまでたっても無能なんだ」
「キスするのがバグ?」
カイエの話はいつも意味が分からない。
「そう。学習データが人間である以上、想定外のバグは「想定の範囲内」なのに、あの人たちは五年経っても、それに気づかないから馬鹿なんだよ」
「分からねーけど。じゃあ、そのカイエ博士が言うところの馬鹿な研究者に付き合って、何で五年前、俺の鎖になったんだよ」
「――レイくんが可愛かったからね」
情感たっぷりに言うくせに、ちっとも気持ちがこもっていない声だった。
「嘘くせーの」
「半分は本当。あとは、単純に環境とデータだけで、人間が幸せになれるなら、見せて欲しいと思った」
出来るもんならやってみろって心だったらしい。
実に可愛げのない子供だなと思った。けれど、それはカイエがスラムで生きていくために身につけた武器なんだろう。
「あーあ。一度、カイエ博士の頭ん中見てみたいね」
「どうぞ、レイが医師免許取れたら、一番最初に僕の頭捌いていいよ」
「こえーこと言うなよ。そういう意味じゃねーし。そもそも、医者なんてなれないっつの。あと、俺、学校出たら花屋になるから。自分だけの広い庭持てるし」
花屋、とは。外で実験用の植物を育てる仕事だ。汚染区域を出入りするし、言ってみれば汚れ仕事だ。
安全安心な地下の西花に保護されたのに、また結局、外が恋しくなっている。
無いものねだりだろう。
「それは楽しいね。完成したらレイの庭に招待してよ」
「カイエさんが自分で庭作る方が早そうだけど。お前、何でも出来るし、器用だし」
「何でもは出来ないよ。それに、レイに見せてもらうのがいいんだ」
「んー、分かった。あんま期待しないで待ってて」
とろりと瞼が落ちてくる。カイエの膝を枕にしてそのまま横になる。
遠くで、ここで寝るなよと、不機嫌そうな声が聞こえたけど、結局そのまま心地よい眠りに落ちてしまった。
その時は、まだカイエと自分は、この先どんな「家族」になるんだろうって思っていた。
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