第九話

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第九話

 いつも通りレイは、夕方からは花の配達をしていた。  ティエの所属するラボは、研究棟の部屋が全て個室になっていて、チームでなく個人研究している人間ばかりだった。  レイが花の配達に来ても、長い廊下で人とすれ違うことがない。話し声もなく静かすぎて、いつも本当に研究室へ入っていいのか不安になる。タイミングが悪いと、もれなく怒られる。研究者っていうのは気難しい人間ばかりだ。  二十歳ごろまでカイエが所属していた研究施設は、常時人の出入りがあり賑やかだった。ラボの雰囲気も色々だなと思った。研究分野の違いもあるかもしれない。  花を抱えたレイがドアの前に立つと、特に不都合がなかったのか、すぐにドアは開いた。廊下の床材はリノリウムだが、研究室の床は別らしく、歩くたび靴裏と擦れて塩ビっぽい音がした。 「ティエさん、今日の花ですけど」 「あぁ、こっち」  ちょうど使うときだったのかティエは手を上げる。レイはティエが座っているベンチスペースに近づく。そばには凍結標本を作るための無骨な機械がありレイはそれを避けてティエのところへ回り込んだ。 「……いや。おい、まて! そこを動くな」  机の上で顕微鏡を見てたティエは、唐突にレイをその場に静止させる。顔を見ると、今にも大粒の涙を落としそうだった。四十くらいの大人の男に目の前で泣かれた経験がなく、レイは目を見張って驚いた。 「え、ど、どうしたんですか、ティエさん」 「お前、今日どこに行った」 「どこって、そりゃ花屋ですから、外の自分の庭で仕事してましたよ。普通に」 「何を触った」 「触るって、花とか木とか」 「それ以外!」  悲しくて泣いているというより、どこか苛立っているように見えた。 「あぁ、あと今日、珍しいんですけど、庭に猫がいて」  言った瞬間、ティエはマジかよと言って天を仰いだ。見たところで低い白の天井しかないけれど。 「ねーこー」 「はい、二匹」 「……ちょっと、お前来い」  ティエはレイの手を強引に引っ掴むと、そのままラボの部屋を出た。そして、すぐ横にある階段を降り、一階奥の仮眠室へ連れていかれる。 「服を脱げ」 「は、何で? てか宿泊用の設備もあるんですねー、このラボ。やっぱり忙しいんですか? ブラック」 「いーから、黙って、さっさと脱げ!」  白衣の肩口に手をかけられ、乱暴に白衣を奪ったティエは、仮眠室の横にあるランドリーエリアにレイの服を投げ込んだ。 「おねがいだ、猫が触ったもん、全部脱いでくれ。頼むから」  ティエは、げほげほと咳をしながら、顔を涙と鼻水で情けなくグシュグシュにしてる。 「あー……。アレルギー。西花の人、免疫過剰に反応する人多いですよね。花は大丈夫なのに」 「とりあえず、全部洗え、お前は、そこでシャワーを浴びろ。いいな!」  やっと、ティエが怒っている原因をレイは理解した。  昼間、レイの白衣の上で猫が寝ていた。ティエは猫アレルギーで涙が止まらないのだろう。レイ自身、元々外の人間だったので食べるものも含めて気にしていなかったが、ダメな人はとことん外のものにアレルギー反応が出るし、ひどいとアナフィキラシーのショック症状まで起こす人もいる。 「――お前は、全く、何のための白衣だと思ってんだ。猫を乗せたって……」 「勝手に乗ってたんですけどね」 「黙れ。管理の仕方が悪い、白衣は普段着じゃない、復唱して腕に刻んでおけ」  横の洗面所でバシャバシャと顔を洗っているティエの恨み節を聞きながら、レイは隣のシャワースペースで頭から湯を浴びていた。外で畑仕事をしていたし土と汗を流せてありがたかった。 「けどティエさん白衣って、制服みたいなもんですよね」 「それもあるけどな。清潔、衛生面、災害予防とかあるだろう。くそっ、わざわざラボに災害を持ち込みよって! バカが」 「すみませんね。服まで借りてしまって」  レイはカーテンを開けて脱衣所から出た。  ティエは、よくこの仮眠室を使うのか、勝手知ったる部屋の備品をぽいぽいとレイに渡した。シャワーを浴びて綺麗になったレイは、洗面所の横にあるパイプ椅子へ腰掛ける。 「別に、もういいよ。怒ってないし。つか、さっき、見たんだけどさ」  ティエはタオルで顔を拭って首にかけると、洗面台に背を向け椅子に座っているレイと向き合った。 「お前、(つがい)がいたんだな」 「……つがい?」 「悪魔の実験、洗脳、あー、(チェイン)だよ」 「首の、みたんですか」 「あぁ」  レイの首には施設に収容された時、鎖を打たれた痕が残っている。正方形の小さな縞模様。  周囲へ鎖がいるのを隠しているわけじゃない。中央の国家研究所にいた頃は、周りにはカイエが自分の鎖で家族だと普通に話していた。  それはもう、幸せそうに言いふらしていた。子供だったのもある。今思い出すと、ちょっと恥ずかしい。親バカとかブラコンとか、そういう感じだった。  ただこの三年間は話す気になれなかった。カイエが行方不明だったから、なおのこと辛くて無理だった。 「鎖システムの被験者でしたよ」 「苦労してたんだな。あれは、人格まで、狂わされる実験だって聞いてる。辛かっただろう」  レイは幸福だったし、辛くなかった。  けれど、この感情は鎖を持たない人間には一生分からないだろう。ただ、幸せでも失った時は気が狂うほどの痛みと苦しみがあった。 「俺、そんなに人格歪んでますか?」  レイはティエに向けてうっすらと笑った。 「いや、普通の人となんも変わらん。むしろ人間らしい人間だな」 「俺も、そう思いますね」 「自分の感情をコントロールされるなんて、私は聞いただけで恐ろしくて。昔、実験内容を知ったとき、吐き気がしたのを覚えているよ」 「鎖を打たれる前と後で、後の方が幸福度は上がっているらしいですよ」  皮肉ではなく、それは事実だ。  ただ、正しいか正しくないかは、今のレイに判断出来ることじゃない。 「で、今、お前の家族は? 中央の隔離施設出てもやっぱり、番(つがい)同士は離れられないもんなんだろ? けど、お前家族いるように見えなかったから」  ぽたぽたと横のシャワールームから水音が聞こえている。  鎖がいるのを秘密にしていたのは、ティエと出会ったときは既に、カイエと離れたあとだったからだ。  別に今なら言っても不都合がないと思った。  もう家族じゃないけれど、誰かにカイエと自分の繋がりを知って欲しかった。システムもレイ自身の体も既に、カイエを家族として判定しないから。一人でもいいから、今、この瞬間に自分達の関係を知って欲しいなんて思っている。馬鹿げてる。  そんなことをしたところで、鎖は戻らないし虚しいだけ。 「言ったら、驚くと思うんですけど」 「何が?」 「魔王さまも、鎖システムの被験者ですよ」 「……えー。え、あれ、本当、だったのか。噂では聞いていたが」  ティエは目を丸くする。 「俺の、鎖、カイエなんです」 「はぁ」  レイの予想通りティエは口をあんぐりと開けて驚いている。 「なんて? 言った今」 「だから! あなたが傾倒している。カイエ博士が、俺の家族です」 「いやいや、待て、お前が? 魔王さまの? あの天才の家族? 嘘だろ!」 「嘘じゃないですよ。傷つくなぁ……」  つかつかと歩いて距離を詰めたティエは、レイの両方の肩の上に手を置いた。そして上体を揺さぶられる。 「いやいやいやだって」 「カイエは、ティエさんが言うほど、人間離れしたやつじゃないですけど。まぁ、頭いいし、偏屈だし、笑いの沸点は変ですけど」 「それは、お前にとっては、そうかもしれんが、いや。カイエ博士に、お前みたいな普通の」 「当たり前ですけど、鎖システムは、元々、他人同士ですから。そりゃ、俺は普通ですよ」 「お前を貶すつもりは、ないが、あー、驚いて。すまん。彼は、俺にとっては雲の上の人っていうか」  驚いているのか口を押さえてティエは目をきょろきょろさせている。一研究者が会いたがって会えるような人じゃないと、いつも懇切丁寧にティエはレイに説明してくれた。 「会わせてくれ! カイエ博士に! 話がしたい」 「え」  ティエは真剣な目をしていた。 「会うって、そもそも、研究分野違いません? ティエさんとカイエ。よく知らないけど生物学の話とか……するんですか?」  言いながら、カイエなら分野が違っても研究者同士、話くらいは出来る気がした。比べるまでもなくレイと話すよりは高度な会話になるだろう。 「たとえ分野が違っても話をしてみたい。西花の研究者なら誰だって思うさ」 「カイエ、すごい人当たり悪いですよ」 「かまわん!」  なんだか馬鹿みたいだって思った。自分の欲を満たすためだけの子供じみた自慢話みたいなものだ。身内感をみせつけたいだけ。 「――でも、やっぱり、しばらくは……すみません。色々あったので」  レイはティエに対する申し訳なさと恥ずかしさから口を濁した。  三年間、どうして外にいて、なぜ今戻って来たのか。レイ自身が何も分からない今、カイエに負担をかけてはいけないと思った。  自分がひどく嫌な人間に思えた。  カイエとの関係を誰かに知って欲しいと思っているくせに、自分だけのカイエでいて欲しいなんて。  もう、どこにもカイエを出したくない。自分のそばに閉じ込めておきたい。――そんなことを考えている自分が怖い。 「そうか、そうだよな。――今日、研究所の在籍名簿にカイエ博士の名前が上がってたから。てっきり、お元気になられたと思っていたが、やはり」  ティエは、言い淀んだレイの気持ちを汲み取ってくれたようだった。 「……元気、ですよ。大丈夫です。今日も仕事に行きましたから。ちゃんとご飯も食べてます」  大丈夫じゃないのは、レイだと思った。何も分からない今が辛い、苦しい。  以前と同じように家族だったら、少しはカイエの感情を共有出来ただろうか。今は何も分からないから、一緒にいてもカイエにレイは何も出来ない。それがもどかしい。 「そうか、あれから三年間。お前はカイエ博士ために、ずっと陰で支えてたんだな。尊敬に値するよ」 「尊敬とか……そんな、俺は、全然」  一緒じゃなかった。何も出来なかった。無力だった。家族じゃなかったから。  カイエはレイを置いて、一人で今日まで生きていた。 「鎖なんて、非人道的なことをって私はずっと思っていたが、考えを改めよう。カイエ博士に、お前という支える家族がいてくれて本当に良かったと思うよ。彼は西花の宝だから」 「――家族の定義って、何なんでしょうね」  レイは、ティエに聞こえない声で、息を吐くように言った。 「どうした?」 「いえ、なんでもありません」
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