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*1 はじまりの朝
人の生活にアンドロイドが溶け込み始めて、どれぐらいが経っただろうか。
特に、長い間人手不足が叫ばれていた教育・保育・介護の世界への進出は著しく、いまや家庭における保育の手助けもアンドロイドなしでは成り立たない場合も少なくない。
中でも、家庭での保育などを請け負うアンドロイドはシッターロイドと呼ばれ、その性能はピンからキリまで様々だ。
開発当初こそ女性型の外見のシッターロイドが多かったが、その辺りは当然ジェンダーの垣根を超えるべきだという意見を踏まえ、昨今は男性型や、女性男性どちらとも取れるタイプなど、もちろん人種も年齢も様々で、家庭によってより合ったものが選ばれている。
いまここに、一体のシッターロイドが床に長座するように置かれている。
このシッターロイドは一昔前に量産された、少し旧式のシッターロイドで、タイプ:RS0412という。
外見は明るい茶色の長めの短髪に、アジア圏の人種の薄い肌なのはここが日本だからだろうか。
いまは閉じられているが開けば黒い瞳が覗くだろう切れ長の眼元、薄い唇。中肉中背の体格の、十代後半から二十代前半の若い男性のように見える。
外見はいくらでも自由にアンドロイドの所有者であるマスターがカスタマイズできるが、基本の型はこのようになっているらしい。
シッターロイドは母親的な役割を課されることが多く、そのために母親のような、もしくは父親の様な年齢層の外見を設定されることが多い中、RS0412はまるで歳の離れた兄の様な姿をしている。
それがかえって利用者に親しみを覚えさせたのか、“彼”はとても人気のシッターロイドとなり、一時代を築いたのかもしれない。
そんな“彼”がいま、このごくありふれた日本の街の片隅に建てられたばかりの、戸建ての家にいるのは何故なのか。
家の二階の可愛らしい部屋――天井からはイルカのモビールが飾られ、真新しい真っ白でやわらかそうなベビー布団の敷かれたベビーベッドや、やわらかな素材でできたおもちゃが並べられている――の中に置かれているのは、もうすぐ“彼”にまた新たにお役目が課せられるからだ。
“彼”は一昔前の、いわば旧式のアンドロイドだが、性能そのものはいまでも評価が高く、知能も知識も一般的な大学生並みで、家事機能も保育機能も専門家のお墨付きだという。
だからなのか、最盛期ほどではないが、今でもこうして親戚からのおさがりと称して新たにシッターロイドとしての役割を担うこともままあるようだ。
「はぁ、ただいまぁ。おうちに着いたよぉ、昴ちゃん」
部屋のドアが開いて、ライトブルーの温かそうなコートを着た若い女性が、ちいさな白いおくるみに語り掛け、ベッドの中にそっと横たえる。
おくるみをそっと開くと、生まれたての赤ん坊がちいさな手足をぎゅっと縮こまらせていた。
昴ちゃん――このちいさな赤ん坊こそが、“彼”の新たなマスターになるようだ。
女性――おそらく、昴の生みの親であろう――が昴をベッドに寝かしている間に、一緒に部屋に入ってきた、女性と歳の頃が同じぐらいの若い男性が、ベッドの傍らにおもちゃと一緒に並べられている“彼”の許に膝をつく。
そして、“彼”の首の付け根辺りのちいさな膨らみに触れた。そこが稼働スイッチなのだ。
数秒の間を置いて、極微かな機械音と共に閉じられていた瞳が開く。そこにはやはり細い切れ長な黒い瞳が並んでいた。
『――おはようございます。名前を、マスター』
「おはよう。えーっと……そうだ、名前を、決めないとだったな」
シッターロイドのマスターは名義上子どもになっているが、その権限は子どもの保護者になっている。
子どもの無茶な要望を聞き入れすぎないためと、子どもの躾や養育もシッターロイドは担うため一線を画するためで、その契約の証となるのが名付けだった。
名付けはマスターがつけることが可能であればマスターが、今回のようにマスターが幼過ぎる場合など、マスター自身での名付けが不可能な場合などはその保護者が名付けることができる。
「優海ちゃん、何かいい名前ないかな?」
「うーん、昴ちゃんの名前のことしか考えてなかったからなぁ」
若い夫婦は我が子の世話を一任するシッターロイドの名前も、想いを込めたものにしようと思っているのか、暫し顔を突き合わせて考え込む。
その時、ベッドの中の昴がちいさな声で何かを発していた。
優海がそっと耳を近づけてみると、昴は、「っりぃ」「っくぅ」と言っているように聞こえるではないか。
「ねえ、空くん……昴ちゃんが、“り・く”って言ってる……」
「ええ? 本当に?」
優海の言葉に空が首を傾げながら問うと、「言ってるよ!」と、言って手招きした。
空が優海を真似て耳を近づけると、確かに、ちいさな声で、昴はそう言っているように聞こえなくはない。
これはもしや我が子が自分の世話をしてくれるシッターロイドの名前を付けようとしているのか……? と、ふたりそろって早速親ばかぶりを発揮し、即決で“彼”の名前を決めた。
「よし、じゃあ、“リク”。君に昴のシッターを任せるよ」
『――かしこまりました』
正式に稼働し始めた“彼”の許に、優海がベビーベッドに横たえていた昴を抱えて連れてきた。
混じり気のない瞳が、まっすぐに“彼”の姿を映し出す。その双眸に映った自らを認めるように、“彼”はやわらかく微笑んだ。
『よろしくね、昴』
RS0412――改め、リク、が、この井筒家の新たな家族となった瞬間だった。
そして、リクの新たなマスターとの日々の始まりでもある。
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