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母が自殺したのは、私が大学生のときだった。上京した私は、東京で一人暮らしをしていて、あまり実家に帰らなかった。知らぬ間に優しかった母が命を絶った。
母はとても美しかった。父との間に私が出来たことをきっかけに結婚したらしいけど、私が上京したと同時に酒狂いの父に暴力を振るわれ始めたらしい。
ブス、醜い、老いるお前なんか価値が無い。そんな言葉を吐かれながら、蹴られ続ける日々。元より優しさを見せる父ではなかったが、そこまでクズだとも思わなかった。とうとう母は自らに多額の保険金をかけて、それをすべて娘にやると残してこの世を去った。母の遺体には無数の痣が残っていた。
「ぜんぶ遺書で知った。父は警察に捕まって、もう随分会ってない。私はもともと父に似ていたの。とても醜い顔よ。そんな奴が、ただ歳を重ねただけの母を殺した。自らの醜さを棚に上げて母を殺した父に似ていた私は、母の保険金を使って顔を変えた」
カフェモカを飲み干す。生クリームの塊がストローを通ってどろ…と流れ込んできた。
「私の名前はアオ。愛に桜で愛桜。桜が好きだった母がつけてくれた。春生まれでもないのに」
「…いい、名前ですね」
「本当にそう思う?私、桜なんて大嫌い。昔から女は桜に例えられて、花言葉にも"優美な女性"なんてあるけど、桜は散り際すら評価される。でも女は違う。老いていく女性に価値なんてない。だから母は死んだ」
脳裏に棺桶の中の変わり果てた母の姿が浮かんで、すぐにかき消した。初めて過去を誰かに話したけど、しんどい。
「これが私が整形した理由。くだらないでしょ」
「……」
蒼くんの目が揺らぐ。しっかりとこっちを見てはいるけれど、なんて声をかければいいのかわからなくて困っている。さっきより背もたれから背が離れてるのは、今この場から逃げたいと思っている証拠。
この反応がくることを望んで私はこの話をした。現実を見せるには十分だっただろう。君の生きていく世界と私の世界は遠い。
伝票を持って立ち上がった。「待って」と手を掴まれる。
「俺が払います」
「"次"のない相手に奢るのはやめたほうがいいよ」
「違っ、今はまだ何言えばいいか分からないけど、愛桜さんのこと、」
「蒼くん」
努めて笑った。
「手、離して?」
絶望を目の当たりにしたような彼の目。手が緩むのを待って、テラス席を抜けた。お会計をして、カフェを出る。足元を見ると、靴の上に花びらが乗っかっていた。
「…っ」
喉が熱くなって口を手のひらで押えた。暴力的で凄惨な泣きごとを吐き出してしまわないように、無理やり押し留める。さっきまであんなに楽しかったのに、今はこんなに気持ち悪い。
だんだん私は私がわからなくなっていく。年をとることに怯えて、シワの数を数えようと鏡を見ると、作り上げた顔が写っていて。ああ、男はみんなこの顔に縋るのかと反吐が出そうになる。本当の私を愛してくれる人なんて、どこにもいない。愛されたいのに、特定の人に愛されるのが怖い。
フラフラと、足はいつものバーに向かう。そうしてまた今日も、束の間の愛を見知らぬ誰かから搾取する。いつの間にか蝕まれてしまった。かりそめの幸せに気づいているのに抜け出せない。
生まれ変わるなら桜になりたい。大嫌いな桜に、結局私はいつまでも夢を見ているのだ。
終
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