アダザクラ

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 生まれ変わるなら桜がいい。あの大嫌いな桜に。 「25日頃だって。桜が満開になるの」  男の声が耳に入ってきて、瞼を開けた。カーテン越しの朝陽が眩しい。寝返りを打つと、男の背中越しにニュースを映すテレビが見えて、女性のキャスターがどこかの公園の桜をリポートしていた。 「一緒に見に行く?」  男がシャツを羽織りながら言う。この部屋には私と彼しかいないのに、一瞬それが私に問われたものだと気づかなかった。から、少し遅れて返事。 「奥さんと行きなよ」 「行くかなぁ。子どもいるから〜とか言って出かけたがらないからな」  それは出かけたがらないんじゃなくて、出かけられないほどキャパオーバーなんだよ、とマジレスしそうになるのを飲み込む。一夜を共にしておいて言うセリフじゃない。  起き上がって、ベッドの下に落ちているブラとパンツを拾って身につけた。寝癖のついた髪を手ぐしでまとめて結ぶ。  枕元にある鏡を覗くと、まだアイシャドウの影とマスカラの長さが残っていた。よってアイメイクはせず、口紅だけ軽く塗った。  ワンピースを羽織ると、彼も同じタイミングでスーツに着替え済んだ。そのまま慣れた手つきで香水を吹きかける。鍵を手に取った彼が「アオイちゃん、まだ残る?」と聞いてきたので「うん」と答える。 「そっか。俺もう会社行くね」 「うん」 「じゃあまたね」  手を振って、出ていく彼を見送る。すぐさまクローゼットの中にある消臭剤を手に取って、着ている自らのワンピース目掛けて噴射した。最後に男がかけた香水が臭い。女の匂い消しのつもりなのだろうが、よっぽどあっちの匂いのほうが鼻に悪い気がする。  やたらと奥さんの愚痴を言う男だった。昨日バーで声をかけてきて、ついてきたものの妻子持ち。出産したばかりの奥さんとレス中だから発散したい的なことを言っていたので、だったらお店使えば?と提案したら「そんな底辺なことしないよ」と笑っていた。バーで女引っかけて、赤子の面倒見てる奥さんを放っている自分は底辺ではないのか。思い返せば返すほどクズな男だったが、セックスはうまかった。 「またね、ね」  こういうことは初めてではない。今までも幾度となく遊んできたけど、その中で二回以上会った人はいない。今回も例に漏れずその一人だろう。証拠に名前も連絡先も知らない。  鍵を持って部屋を出た。あ、と忘れ物に気づいて部屋に戻ろうと振り返ると向こうに清掃員さんの姿が見えた。マスクはしているけど男性だとわかる。その人は私と目が合うと「うわっ」と言って、持っていたバスタオルの塊で顔を隠した。 「え?」  謎の行動にこちらが戸惑う。怯えられる要素が分からない。 「…すみません、鉢合わせてしまって…」  ああ、なるほど。こういうホテルではそこらへんのルールというか気遣いがあるのだ。知ってはいたけれど、こうもあからさまだと若干申し訳なさが生まれる。 「いえ、気にしないでください。清掃ありがとうございます」  いい人ぶって部屋に戻った。口紅、口紅……と言いつつ、ベッドサイドのテーブルの上のそれをポケットに入れる。  もう一度部屋を出ると、さすがにもう清掃員さんはいなかった。フロントで鍵を返してホテルを出ると、さっきカーテン越しに浴びていた太陽の紫外線が直にぶつかる。清々しい朝なのに、見知らぬ男性と共にした日の朝はいつも気も体も重い。
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