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神子の神頼み
塀を越え屋根を越え、雪治はおりんを抱えたまま市中を駆け抜けたが、さすがに川は渡れない。誘拐されたおりんが銭を持っているわけもなく、この時代に住んでいない雪治も当然持っているわけがない。どうしたものかと川岸でふたりは佇む。
「あんたはどうやって渡ってきたのさ」
「逢引しているところへ足先だけお邪魔して飛び移って渡りました」
「そりゃあんたにしかできないし、私を抱えながらじゃ無理だね」
「さすがに転覆する可能性が高いですね」
清之助から金を借りればよかった、と雪治が零す。雪治は橋があると思っていたし、清之助は雪治が1銭も持っていないとは思っていなかった。
誰にも見られていなかったのか、幸いにも追っ手らしき気配はない。しかし、さすがにこのまま朝まで時間を潰すわけにもいかない。身軽になるために脱いだおりんは襦袢しか着ていない。朝まで外にいては風邪を引いてしまうだろう。
考え込む雪治の隣で、おりんが自ら襦袢をはだけさせる。雪治はぎょっとし、慌てて胸元を閉じさせ周囲の視線を確認した。幸い誰も見ていなかったようだ。
「ちょっと、何してるんですか!」
「船頭を誘惑してタダで乗せてもらうのが1番早いじゃないか」
「だめですよ、そんなの」
「……私はもともと吉原にいたんだ、平田もそん時の客でさ。私、一応花魁にまでなったんだよ。だから、うん、上手くやるよ」
「上手くやれるかどうかじゃなくて!……だったら尚更、渡し舟代の代わりにしちゃだめだ。おりんさんの誘惑の代金にしては安すぎますよ」
「あんた……ほんとにいい男だね」
小声で叱る雪治におりんが軽く事情を告白して説得しようとするが、雪治は尚更だめだと首を横に振った。「吉原にいたなら生娘じゃあるまいし少しくらい触らせろ」と言われることもある彼女の心には雪治の言葉が甘く響いた。吉原にいた頃も含めておりんの人生を認め、大事にしてくれる。
おりんは思わずうっとりとしたが、すぐに元の問題を思い出して首をかしげた。
「だけど、他に何かあるかい?」
「うぅん……まぁ困った時は神頼み、ですね」
こんなに何とかなりそうな神頼みはない、と考えておりんは小さく笑った。雪治は神社のある方向へ向いて両手を合わせ、それから右手を少しずらして2拍手。目を閉じて心を鎮め、心の内で神へ呼びかけた。
(神様、神様。見ていただけていますか。今だけでいいのでどうか、お力をお貸しください)
雪治が呼びかけ願うと、声が頭の中に直接響いた。夢で話した声ではなかったが、それが神の声だということはすぐに理解できた。穏やかで優しい、高いけれど男性とわかる声だった。
「愛する神子の頼みであれば、喜んで力を貸しましょう。もう少し下流の人影のない処へ橋を渡します。私の力では木や石の丈夫な橋はつくれません。どうか気をつけて渡るのですよ」
「……ありがとうございます」
深く頭を下げ、目を開けると雪治は再びおりんを抱えあげて下流へと向かう。おりんは雪治が神の遣いであることを知っているし、そうでなくても雪治を信じている。何か自分には聞こえない神託がくだったのだろうと安心した。
下流へ行くと確かに人影も舟もない。そこへ薄く光を放つ橋が架かっている。よく目を凝らして見るとその橋は織物でできているようだ。風に揺れてはいないから固く織られているのだろうが、たしかに気をつける必要がありそうだ。
「神様が橋をつくってくれましたけど、少し不安定かも知れないのでしっかり掴まっていてください」
「わかった」
おりんは雪治の言葉で川を見るが暗くてよく見えなかった。何か架かっているような気もしたが、雪治と違って光が見えておらずハッキリと認識できない。それでも雪治が言うならと頷き、おりんは雪治に掴まる力を少し強めた。
雪治は片足で布の橋の強度を確かめひとつ頷くと、橋のしなりと幅に気をつけながら駆け抜け川を渡った。神が様子を見ていたのか、雪治が渡りきって振り返ると橋は跡形もなく消えてしまった。
最大の難関だった川を通過した雪治は無事におりんを長屋まで連れて帰ることができた。雪治に抱えられているおりんが清之助の部屋の戸を叩くと、ずっと待っていたのか勢いよく戸が開いて清之助が出てきた。
「おりん!雪治!!……よかった、無事でよかった!」
目を潤ませた清之助が思い切り雪治を抱きしめるものだから、挟まれたおりんが清之助を叩く。慌てて身を離した清之助が、おりんの格好に気付き目を見開いた。
「ちょっと、痛いじゃないか」
「おお、すまねぇ!……って何だその格好は!雪治おめぇ手ぇ出してねぇだろな!」
「出すわけないでしょう、この緊急事態に!」
「私は雪治になら……」
「ややこしくなるんで今それ言わないでください」
小声で騒ぎながら、まずおりんに服を着せようと、3人は清之助の持つ灯りを頼りにおりんの部屋へ行く。着替えたら部屋に上がって寝て行けと言うおりんの誘いを丁重に断り、雪治は清之助の部屋へと上がることにした。
用意してくれた茶をいただき、布団を借りて目を閉じる。戦闘は大してしていないが、移動で体力を使った上、何よりも精神が疲弊していた。清之助の礼も聞き終える前に雪治の意識は途切れ、静かに寝息を立て始めた。清之助はそれを聞いて頬を緩ませ、眠りにつく。そうして目撃する者がいなくなった時、雪治は光に包まれて自らの時代へと送られた。
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