1人が本棚に入れています
本棚に追加
その者、闇を駆け抜け
江戸が宵闇に包まれた頃、清之助に見送られた雪治は御家人屋敷を目指して長屋を出た。雪駄では音が鳴るからと清之助から草鞋を借り、夜の闇に紛れて市中を駆け抜けた。極稀に人影があれば屋根の上へ登り、また駆ける。
この移動で最も大きな問題は川だ。うっかり現代の感覚で橋があると思っていた雪治は、何も架かっていない川を見てどうしたものかと立ち止まった。だが、ふと見れば渡し舟が何艘か浮かんでいた。響く声から察するに、なるほど、恋人たちの目合いの場として貸し出されているようだった。
「これなら行けるか……」
小さく呟くと、雪治は川岸を全速力で駆けて助走をつけ、浮かぶ舟に足先だけ邪魔をして勢いで川を渡りきった。どれも転覆していないことだけを確認し、雪治は再び駆け出した。
住んでいる者たちが違うからか、長屋の方よりも全体的に"人ならざるもの"の気配が多い。日頃から身分を感じて妬み嫉みが生まれやすく、比較的高価で良質な物が手に入るからか、悪いものも良いものもそこら中にいた。雪治は木刀を抜き、時折襲ってくる小者どもを斬り倒しながら市中を進んだ。
そろそろ目的の御家人屋敷という辺りで、雪治は思わず足を止めた。屋敷から"人ならざるもの"の圧を感じたのだ。これまでと違い明確な殺意は感じないが、雪治は強い不快感を覚えた。やはり来て正解だったと頷き、霊力を纏わせた木刀を手にしたまま、雪治は音もなく塀を越え、御家人屋敷に潜入した。
雪治は既に寝静まった屋敷の中を慎重に歩き、不快な気配が2番目に強い場所を目指す。恐らく最も気配の強い場所は平田がいる場所、2番目に強い場所がおりんを監禁している場所だろう、と雪治は当たりをつけていた。
音も気配も消して監禁場所と思しき部屋の前にいた見張りを、声を出す間も与えずに気絶させ、部屋の戸をそっと開けた。そこではやはり手足を縛られたおりんが華やかな着物を着せられて横たわっていた。
おりんも何とかして逃げるつもりで起きていたが、戸の開く音で咄嗟に目を閉じて寝ている振りをした。だが近づいてくる香りでそれが雪治だとわかると、目を開けて身を返し、縛られている箇所を彼に差し出した。雪治もそれに無言で頷き手足の拘束を解く。
おりんが着せられていた花魁を思わせる着物は袖も裾も長く重く、逃走には不向きだ。おりんは躊躇いなくその場で着物を脱ぎ捨て襦袢だけを身に着けた姿になった。
ふたりは頷いて、雪治がおりんを姫抱きにして部屋を出た。そのままおりんを長屋へ届けたいところだが、雪治は恐らく取り憑かれたか何かの平田を放置するわけにもいかない上、往復する時間はない。
「すみません、怖い思いをさせます。おりんさんのことは髪の毛1本も傷つけさせませんので、少々俺の務めに付き合ってくれませんか」
「あんたのためなら怖くもないよ。いくらでも連れ回しておくれ」
部屋を出た雪治が足を止め小声でおりんに申し出れば、おりんは勝ち気な笑みを浮かべた。まったく頼もしいことだと雪治も笑みを浮かべ、おりんを抱えたまま最も気配の強い部屋へ向かった。部屋の前でおりんを優しく降ろし、黒い靄で覆われている戸を勢いよく開けた。
平田は雪治たちが来ることをわかっていたように部屋の中心に立っていた。その手には刀が握られ、その鋒は真っ直ぐ雪治の喉元へ向けられた。手本通りの綺麗な正眼の構えだった。その瞳が赤黒い光を宿していなければ、雪治は剣術の師範として褒め言葉さえ口にしたい姿勢だった。
本来の平田の性格では考えられない行動におりんは妖の関与を感じ取って雪治を見た。視線に気がついた雪治が小さく頷くと、おりんは平田から見えないように彼の背中に隠れた。
「おりんを返せぇええ……!」
おりんが雪治の背に隠れた瞬間、平田が叫びながら刀を振り上げて真っ向斬りを狙う。その太刀筋は美しいが、動きも遅ければ力の乗せ方も下手だ。恐らく元々の平田が小心者過ぎてあまりちゃんとした実践を積んでいないのだろう。
雪治は振り下ろされる刀身の側面に木刀を添わせ、そのまま滑らせるようにして軽く振り払った。平田はそれだけでよろけてしまい、雪治がその大きな隙を見逃すはずもなく、木刀に纏わせた霊力を平田の身に流し込むように袈裟斬りをした。
途端、平田は気を失い開いた口から黒い靄が立ち昇った。煙のように広がるそれがおりんを襲わぬよう雪治は後退り、ぶつからないようにと後ろへ下がったおりんが部屋から出た瞬間、戸を閉めた。
「雪治!?」
「少しそこにいてください。俺を信じて」
「……わかった」
おりんはすぐに戸を開けようとしたが、雪治の言葉で戸から1歩離れて待つことにした。おりんは雪治を心から信じている。故に信じろと言われれば従う以外の答えはなかった。
最初のコメントを投稿しよう!