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第2話 凶賊の総帥(4)
つややかな黒絹のようなそれは床へと落ち、凶賊たちは我が目を疑った。
メイシアの白磁のうなじが露わになっていた。
「なんの真似だ?」
今までどこか余裕綽々の感があったイーレオが、初めて狼狽の色を見せた。
貴族が膝を折る相手は、王族のみであるはずだった。しかし、彼の目の前で、貴族のメイシアが床に跪き、頭を垂れている。
「イーレオ様、先ほどの、私を興味深いと言ったお言葉は、本心でらっしゃいますか?」
「……何が言いたい?」
「あのお言葉を、褒め言葉として頂戴してよろしいですか?」
「あ、ああ……。お前は見どころがあると思う」
メイシアは顔を上げ、にこり、と笑った。
「ありがとうございます。……あのお言葉は『貴族の藤咲メイシア』に対して向けられたものではなく、ここにいる『私』に向けられたものです。大華王国一の凶賊の総帥が価値を認めた小娘を……あなたは欲しくはありませんか?」
じっと、イーレオの瞳を捉え、メイシアは宣言する。
「私はあなたに忠誠を誓います」
しばしの、沈黙。
そして――。
「………………参った……」
イーレオが観念したように呟いた。
彼の体が小刻みに揺れた。彼は、ふるふると腹筋を震わせていた。次第にそれは激しくなり、ついには苦しげに腹を抱えて体を二つに折る。
「は、ははははは……」
イーレオは笑っていた。爆笑である。眼鏡の奥の目には、うっすら涙さえ溜まっている。
彼は、何かを振り切るように数回、首を振った。
「外見は嫋やかなくせに、本質は恐ろしく強いな……」
大きく息をつき、とりあえず座れと、床のメイシアに目線で命じる。
「お前、結局、初めと変わらずに、自分を差し出すと言っているだけだってのは、分かっているか?」
半ば呆れたようにイーレオは言った。しかし、「……だが、悪くない」そう、続ける。
「メイシア」
イーレオが初めてメイシアの名を呼んだ。
「俺はな、世界で一番、人を魅了するものは『人』だと思っている。俺は、俺を興奮させてくれる奴をたまらなく愛おしく思う。……俺はお前に魅了されたよ」
慈愛の眼差しだった。彼はそうやって、鷹刀一族を護ってきたのだろう。すべての生命の源たる海のように。
「俺に忠誠を誓うと言ったな」
「はい」
メイシアは毅然と答えた。
「ではお前は俺のものだ。その代わりお前の父と異母弟は助けよう」
「ありがとうございます」
歓喜の声をあげるメイシアにイーレオは複雑な表情を返した。一呼吸おいて冷たい海の波音を立てる。
「念のため訊いておくが、女が『なんでもする』と言った場合、どういう意味か分かっているな?」
メイシアの頬にさぁっと紅がさした。それは覚悟の上のはずだった。それでも無意識のうちに、彼女は自分の体を抱きしめ身を硬くする。
「貴族のお前を娼婦に堕とす。客はさぞかし喜ぶだろう」
「……はい。承知いたしました」
「いい返事だ。とりあえず、しばらくは俺の愛人として、この屋敷にいてもらう」
「はい」
自らが望んだこととはいえ、いざ現実になると、メイシアは恐ろしくてたまらなくなった。
「ミンウェイ、適当な部屋を見繕ってやってくれ。それから……」
イーレオの声が遠くで響いているように、メイシアには感じられた。しかし、それも耳鳴りによって、だんだんと不明瞭になっていった。
半ば意識を失ったような状態で、メイシアはミンウェイに手を引かれ、部屋を出て行った。
「おい、助平親父」
メイシアとミンウェイの姿が消えると、ルイフォンが口を開いた。彼はふと気づいたかのように立ち上がり、空いた向かいのソファーに席を移す。それから足を組み、肘掛に肘をついた。
「愛人、ってなぁ。髪染めて若作りしても、親父はもう六十五なんだから、いい加減『引退』しろよ」
癖のある前髪を掻き揚げ、呆れ顔で父を見る。見た目はせいぜい五十代だが、寄る年波には勝てないはずだ。
「初めに言うことはそれかよ」
イーレオは溜め息をついた。
「さすがにあのお嬢ちゃんを悦ばしてやれるほど若くはないさ」
ルイフォンは父の答えを「ほぅ」と嗤笑した。けれどそれ以上の言及はしなかった。
ひと呼吸おいて、彼は、すっと目を細める。獲物を狩るときの猫の顔になった。
「何故あいつを受け入れた? 貴族が凶賊の世界に馴染めるわけないだろ」
「お前も存外、お人好しだな」
「茶化すなよ」
ルイフォンが睨みつけると、イーレオは困ったように肩をすくめた。
「言外に思いとどまれ、諦めろと言い続けていたつもりだったんだがな。凶賊なんぞには関わらないほうがいい、ってな」
自ら凶賊の総帥となった男が言う。
「なら何故だよ?」
「お嬢ちゃんに言った通りさ。俺はあの娘に魅了された。あれはいい女になるぞ」
「色キチガイが」
そう言いながらルイフォンは足を組むのをやめ、自分の座っているソファーに手をついた。ほんの少し前までメイシアが居た場所だ。艶めかしげな温もりが、革の座面に残っていた。布張りのソファーだったら、消えていたかもしれない。ルイフォンは少しだけ、幸運を感じる。
「親父はあいつが本物の藤咲メイシアだと思うか?」
「お前は、どう思っているんだ?」
「本物だろ。……けど、エルファンとリュイセンはどう思うだろうな?」
「さてな」
他人事のようにイーレオは軽く笑った。
ルイフォンは、今、屋敷を留守にしている『鷹刀家の常識』のふたりの反応が気になったのだが、『鷹刀家の非常識』は、その問いには無視を決め込んだ。おそらく、なるようにしかならない、とでも思っているのだろう。
返答を求めても無駄だと悟ったのでルイフォンはそのまま引き下がる。それより眠気が襲ってきたので、部屋に戻って仮眠を取ろうと考えた。その矢先に「ルイフォン」と険しい声で呼ばれた。
「引き続き、藤咲メイシアについて調べろ」
ルイフォンはぞっとしない顔をした。
「俺、昨日は徹夜だったんだけど」
「どうせ、趣味のお遊びをしていたんだろ。こっちは、〈猫〉の仕事だ。若者なら働け」
ルイフォンは「人でなし」と毒づくと、自分の髪を弄び、金色の鈴を揺らした。
あくびを噛み殺しつつ部屋を出て行くルイフォンを、イーレオは楽しそうに見送る。
「イーレオ様は相変わらずですね」
今まで黙って事態を見守っていた護衛のチャオラウが、低い声で呟いた。イーレオは後ろに向けて首をかしげ、気を悪くしたふうでもなく純粋な疑問として尋ねる。
「どういう意味だ?」
「そのままの意味ですよ」
「俺が相変わらず若々しいということか」
「そういうことにしておきます」
そう言って、チャオラウは小刻みに無精髭を揺らした。
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