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【八百万の河】
どのくらいの時が過ぎたろうか。暗がりの狭い駕籠の中、アマリの意識は寝不足と空腹で朦朧としていた。昨夜から今日一日、社の地下水しか口にしていない。人族の世界――俗世の気を少しでも身体から失せさせる為と聞いた。
窓どころか隙間も無い駕籠の中からは、外の様子は全くわからない。何処を通っていて、どの方角に向かっているのかも、弱った頭や身体では感じ取れずにいる。万が一、尊巫女が役目を放棄し、逃亡出来ないようにする狙いでもあったのだ。
帰り道がわからないよう、アマリは道順を教えられていない。駕籠を運ぶ従者達も、神界への行き方は途中までしか知らず、そこからは別の者が引き継ぐ、という手筈な事は聞いていた。
規則的に左右に揺れる駕籠の中で、懐からふと、布に包まれた一つの陶器の小瓶を手にする。今日、支度の最後に持たされたのが、これだった。いざ贄となる際、なるべく苦しまないよう、せめてものはからいだと、母から渡されたもの。強力な催眠作用の薬らしく、神界に着いたらすぐに飲むよう言われた。暫し後、強烈な睡魔に襲われ、意識を失うという。その間贄になり得る、という事だろう……
そんな曰く付きの代物を改めて手にしても、既に麻痺していた心は、何も感じなかった。ただ、一刻も早く終わってほしい、とだけは思った。
せめて正気を保っていられるうち……恐怖や怨恨に狂い、見苦しい様を晒しながらは逝きたくない。それが、今のアマリに残っていた、唯一の自尊心だった。
――もう、今すぐ飲んでしまいたい……
何に対してかもわからないまま、瓶を握りしめながら祈り、逃避するように視界を閉じた。
「尊巫女様。お待たせ致しました」
「通過地に到着しましたので、お降り下さいませ」
さすがに疲労と睡魔に負け、うつらうつらと微睡み始めた頃。揺れが止まり不審に思った刹那、駕籠から出るよう促す声が聞こえた。寝ぼけた頭を軽く振り、眼を指で擦る。開かれた扉から外を覗くように、アマリは身体を押し出した。
ぼやけた視界に映ったのは、河辺だった。鬱蒼とした竹林が背景にあるが、目を凝らさないと対岸は見えない程の雄大な河。目の前を流れ行く水の音が、未だ粉雪が舞う宵闇の中、静かに響いていた。
「ここは……?」
「八百万の河でございます。人族と神族の世界を隔て、また唯一の繋ぎの場でもあります」
従者の一人が、重々しい口振りで説明する。その名と存在は、尊巫女としての知識の一つとしてアマリも知っていたが、実際に目にするのは初めてだ。ごく限られた者しか行けない禁じられた聖域だとも両親から聞いていたが、どんな時に何の目的で利用するのかは、何となく察しがついていた。
「……我々は此処まででございます。後は、彼方の者達がご同行致します」
続けて告げた従者の言葉に不安になった時、少し離れたところから、彼らとは異なる声が降ってきた。
「尊巫女様。お初に御目にかかります」
声のした方――岸辺に二つの人影があった。藁作りの傘を深く被り、舟番の格好をした男達が、先端に純白の紙垂を幾つも吊り下げた独特の仕様の櫂を、それぞれ手にして立っていた。すぐ傍に木製の舟が停まっている。
「……貴殿方は?」
「厄界の長様の命により、お迎えに参りました」
「我々は、この八百万の河の番人。ここから神界に行くまで、貴女様を無事にお運びするのが役目でございます」
言葉使いや物腰は丁寧だが、その佇まいは明らかに人族では無い、独特のものだった。辺りに唸るように低く鳴り響く、琵琶の音のような声色。纏う空気も異様で、不気味な気が交えているのが本能的に察知出来た。顔形は人族と変わらないようだが、よく見ると彼らの両耳は笹の葉のように尖っており、犬歯が突飛抜け出ている。
ふと、彼らが手にしている櫂の先端と同じ仕様の紙垂が付いた、注連縄のような物が舟全体を護るかのように巻かれているのに気づく。この場で唯一、アマリがよく見慣れた仕様だ。
「――結界、ですか?」
少し意外に思い、おののきながら問いかける。ここは社でも神宮でも無い、人族の住む土地の一つ……邪や妖に狙われ脅かされない、平穏であるはずの場だ。
しかも、彼らは神界ではなく禍神……厄界の者。厄祓いの神具でもある、大幣を彷彿させる仕様の櫂を手にしている状況にも、アマリは戸惑っていた。
「左様でございます。ここは人族と神界の境目。護りが曖昧になり、道中、貴女様を狙った物怪や妖共が襲って来ないとも限りませぬ故」
白地の羽織姿の彼らは、河の番人というよりは、山伏のようにも見える。これから向かう見知らぬ世界の、自身の常識など全く通用しないであろう異質さを、アマリは身に沁みて感じた。本当に人族の世から去り、神の住む異界に行くのだと改めて実感する。
「……では、我々は此れにて。失礼致します」
順々に丁寧に頭を下げ、別れの挨拶を告げた従者二人は、駕籠を軽々と担ぎ上げ、颯爽とした足取りで、来た道を戻って行く。ようやっと、様々な意味合いの重荷を下ろした安堵で一杯なのだろうか……と、少し自虐的な思いで、アマリは見送る。
「「どうぞお乗り下さいませ」」
彼らの姿が見えなくなった頃、異界の番人達が、琵琶の低い音を鳴り揃え、彼女を促した。
ゆらり、ゆらりと今度は不規則に全体が揺らぎながら、闇夜に染まる河をひたすら進む。
「暁の刻までには到着致します故、暫しのご辛抱を」
軽い酔いと雪降る深夜の冷え込みが堪え出し、気を紛らわしたくなったアマリは、近くにいた番人の一人に尋ねた。
「……貴殿方は、妖厄神様をご存知なのですか?」
「これは珍しい。あの方をそのように呼ばれる人族は、貴女様位ですぞ」
彼は愉快そうに、軽い笑い声を上げた。
「何故ですか? 禍神といえ……神様なのでしょう?」
「その通り。が、大抵は『厄神』『妖厄神』と呼び捨てる。むしろ、我々が問いたいものだ。何故、そのように?」
彼女の方は見ず、少し皮肉るような口振りで、番人は逆に尋ねる。アマリは返答に詰まった。無意識に口にした名称だが、今から会いに行く者は、あくまで神族の長なのだという、欠片程になっていた尊巫女の誇りと自尊心の表れだと……自覚したのだ。
「……」
「もうじきです。到着次第、長様が風の如く参られます。お覚悟を」
うつむき、無言になったアマリを一瞥し、淡々と彼は告げた。遂にその時がくる。
懐にしまっていたあの小瓶を取り出し、密やかに栓を開けた。軽く一息ついた後、一気に液体を飲み干す。苦味があるため気をつけるよう注意されていたが、凍てつき切っていた彼女の舌は、もう、何も感じなかった。
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