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弐.二律背反
【保護】
――…………
……遠い、遠い彼方から、何か……聞こえる。
キャン、キャン、と悲鳴のような子犬の鳴き声。『かえして。おねがい。しんじゃうわ』と必死に乞う自分の弱々しい叫び声。その場に座り込んで、ひっく、ひっく……としゃくりあげる。
涙と鼻水で濡れた顔がみっともなくなり、慌てて拭おうとした瞬間――自分と変わらない大きさの柔らかな手が、その手を包んだ。
続いて、ぶたれた痛みがまだ残る額を、ぎこちなく撫でてくれた大きく固い指……二種の淡い温もり……
『ねえさま…… じいさま……』
見上げた二人の顔は、其々霞みがかかっていて判らない。けれど、静かに、哀しく、優しく微笑んでいた気がした――
――…………
霧が薄らいだように朧気な脳裏が覚醒していく。頭は鉛のように重い。ぼやけた視界に、見慣れない木目調の天井が映る。身体は柔らかな布団と寝具に包まれ、白無垢は襦袢らしき寝間着に変わっていた。髪もほどかれている。
布の柔らかな感触。軽い頭痛に喉の渇き……暗がりだが冥土ではなさそうな事、どうやら自分はまだ生きているらしい事にアマリは戸惑い、動揺する。
――どうして……?
ふと、強烈な視線を感じ、反射的に眼球をぐるり、と動かす。朱の瞳と目が合いおののいた。あの夜、妖厄神の青年が連れ、黎玄と呼んでいた鷹がいたのだ。
あの時は、怪しげな光をギラギラと放っていたが、今は紅珊瑚のように澄んでいる。半分が障子で閉じられた円形の窓の縁に留まり、じっ、と観察するように、自分を見ていた。
「……?」
困惑する彼女を確認すると、焦茶の翼をバサッ、と羽ばたかせ、外へ飛び立って行った。後に見える空は宵闇に染まっている。細々とした上弦の月が浮かんでいた。あれから何日経ったのか、今いる場所はどこだろう……と不安に駆られる。八畳程の畳部屋……という事位しか判らない。
「失礼致します」
暫し後、突然、凛とした女性の声が襖の向こうから聞こえた。
「お身体の具合はいかがですか?」
すっ、と襖を開けて入って来たのは、菖蒲のような青紫色をした、忍装束の若い女性だった。濡羽玉の艶やかな黒髪を後ろに束ね、団子状にして銀の簪を挿している。琥珀色の猫目に笹形に尖った耳が、涼やかな顔立ちを一層映えさせているのが、暗がりでもわかった。
小鍋や急須などを乗せた盆を手に、無表情に佇んでいる。……何故だろうか。どこかで会ったような、懐かしく温かい思いが、アマリの胸の中にわき上がった。
「貴女は……? ここは、何処ですか……?」
「厄界の長……荊祟様の御屋敷の離れでございます。私はこちらの警護などを担っている者。貴女様が目覚められたと伺い、お食事と薬をお持ちしました」
颯爽と傍に寄って正座し、礼儀正しく頭を下げる、くノ一のようなこの女性が纏う冴えた空気に、アマリは圧倒された。
「長様より、貴女様の看病と身の回りの世話、そして護衛を申し付けられました。今後は私がなるべく同行させて頂きます。どうぞよろしくお願い致します」
「……せ、世話? 護衛⁉」
予想外の単語の連続に耳を疑い、困惑する。
「……この界には……貴女様を良く思わぬ者もおります故…… どうかご容赦ください」
「そ、そうでしょう……⁉ 妖……長様は、私を生かしておかれるのですか……?」
すっかり錯乱したアマリは、早口でまくし立てる。信じられない事態に、まだ覚醒し切っていない頭がなかなか追いつかない。
「……殺される、と思っていらしたのですか?」
静かに頷く彼女に女性は初めて表情を崩し、眼を見開いた。労りと情けの交じる複雑そうな素振りを見せる。紅の唇が一文字に結ばれ、長い睫毛が扇のように臥せた。
「あの方が、そうお決めになられた事ですので……ご自分でお尋ね下さい。貴女様のお身体が回復次第、お会いされるそうです」
そんな事があるのだろうか。何故、今更自分と対面するのか……理由が全く解らない。アマリが困惑する中、女性は部屋の行灯に火を点した。暖かな光が、室内をほのかに包む。
「私は隣の部屋に住まいます。何か御用がありましたらお呼び下さい。……多少の異変は察知できますが」
つまり、アマリが何か仕掛けたりしても分かるという事だ。おそらく、このくノ一の仕事は、妖厄神……荊祟への報告も兼ねてなのだろう。彼女に罪は無いが、少し悲しく思った。
――ここでも監視されるのね……当然だけれど……
膳を布団のすぐ側まで運び、改めて正座した女性は、小鍋の中の湯気立つ白い物を、てきぱきと椀によそい始める。
「玉子粥です。長様も召し上がっておられる、人族の身体に合わせた物です。毒などの類いは入っておりませんのでご心配なく」
「……わかりました」
――確かに、今更改めて……なんて無意味よね
不可思議で複雑な思いを抱きながらも、少し安堵して頷く。あの時、彼は、確実に自分を殺せたはずなのだから。
「後程、湯浴みのお手伝いも致します」
終始、毅然とした態度を崩さない、この礼儀正しい女性に、アマリは尊敬と感謝の意を抱き始めていた。
「何から何まで、ありがとうございます」
「務めですので。お気遣いなく。仰々しい格好で申し訳ありませんが…… いつ何が遭っても御守りできるように、なるべくこの姿でご一緒させて頂きます」
手際よく食事の支度を進める彼女に、少し遠慮がちに申し出た。
「それは……大丈夫です。ただ、あの……」
「何か?」
不都合な事があるのか、と言いたげな様子だ。
「お名前を……伺ってもよろしいですか?」
手を止め、女性は驚いたように眼を見開き、戸惑いが垣間見る声色で問い返す。
「何故でしょう?」
「これからお世話になる方なのですから、知っておかなくては……と思って。その、貴女のご迷惑にならなければ、ですが」
彼女があの冷徹非情な厄神に叱られるのなら知らなくてもいい。だが、声も顔もはっきりと覚えていないが、先に神界に旅立った、姉の雰囲気にどこか似ている気がしたのだ。個人的な思い入れだったが、彼女に親しみを感じ始めていた。
そんなアマリの答えに、女性はまた表情を崩す。今度は、微かに和らぎを見せた。
「――カグヤ、と申します」
「まぁ、綺麗な名……お似合いだわ」
いつか読んだ古のお伽噺を思い出す。彼女なら月から来た姫だと言われても納得する。それほど聡明で理知的な美しさがあった。
「……私共からしたら貴女様の方が、異星からいらしたようなものですよ」
――それは、違うわ……
自虐的に哀しく思った。自分は歓迎されていないし、持て囃されている訳でもない。
「あ、申し訳ありません。私は……アマリ、と申します」
我に返り、慌てて自分も名を告げる。
「アマリ様。了解致しました。――それから」
律儀に復唱し、深く頷くカグヤは、また少し表情を和らげ、付け足す。
「私は貴女様と同年ですので、そんなに気負いされないで下さい」
てっきり年上だと思っていたアマリは、不意打ちを突かれ茫然とした。そんな彼女を他所に、カグヤはこれまた手際よく、薬膳茶を淹れ始める。
独特の臭いが漂う湯呑みを差し出され、反射的に口を付ける。今度はしっかりと苦味を感じた。
同刻。屋敷の主人である荊祟、側近と従者数名が、奥座敷の一室で神妙に話し合っていた。勿論、議題はアマリの件だ。
この百年程、尊巫女の輿入れが皆無だった彼らにとって、彼女が献上されるという知らせは、それこそ天変地異並みの大事件だったのだ。
「カグヤの報告ですと、随分な心身の疲労、睡眠不足で未だに衰弱しているようです。何も看病までしなくとも……」
「そうですよ。放っておけばよろしいではありませんか……そのうち死にます。厄介払いになり、結構ではありませんか」
行灯の灯りに照らされた素顔の主人に、従者達はそんな非情な行いを促す。明らかに渋い表情をしている彼らを横目に、荊祟は重く、深いため息を吐いた。
「どんなに忌み嫌われようが、汚れ腐ろうが、我らは神族の者。神々に仕える女……増して尊巫女。見殺しにする訳にはいかないだろう」
「長様…… まさか、情を懐かれたなんて事はあ……」
従者の言葉は途切れた。切り裂くような黄金の眼光がギラッ、と向けられ、ヒッ、と喉奥が引きつる音が鳴る。
「全く……本当に面倒な事になったものだ。相も変わらず、人族共はいらぬ事ばかりする」
心底うんざりしたように、一族の長は、鋭利な眉を思い切りしかめた。
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