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上に立つ者としては、時にはハッタリも必要だ。虚勢を張り、そして必要なら歯を食いしばってそれに見合う努力をする。有朋は常にそうして這い上がってきた。
「おめえが腰を抜かしたら、わしは一人で東京へ歩いて帰って、すぐに職務怠慢で減給処分にしてやるけえにの」
慎吾は苦笑する。有朋もおかしくなってつい笑みが洩れたが、すぐに少し真顔になって言った。
「仮にもこの国の兵制を担う兵部小輔が、そねえな我儘を言うもんじゃねえ」
傍らにいるこの時は、慎吾は自分の恋人だ。だが、一旦褥を離れれば、この男は鍛え育てるべき部下であり、そして―――
「おめえは………わしの未来の片腕なんじゃけえに」
慎吾は、じっと有朋を見つめた。押さえつけていた手が離れ、慎吾の大きな手のひらが、有朋の痩せた頬を包んだ。そのまま顔がゆっくりと近づいてきて、唇に、慎吾の温かいそれがそっと触れた。
どこか儀式めいた神聖な口づけだった。
「どげん時も―――やっぱい、山縣さあは山縣さあじゃのう」
唇を離し、真面目な表情で有朋を見つめながら、慎吾はしみじみとした口調で言った。
「おいが腕では、とても抱ききれん。今こん時も、山縣さあん中は、いっつも昔と未来で一杯じゃ」
「………」
慎吾………
有朋の眸は、その時かすかな不安に陰ったのかもしれない。それに気づいたかのように、慎吾はふっと口元を綻ばせ、今度は額にそっと口づけを落として囁いた。
「じゃっどん―――好きじゃ。そいじゃっで、おいは山縣さあが好きじゃ」
有朋は、慎吾の肩を引き寄せた。思いを込めて抱きしめる。
この至福の時間は、あるいはうたかたの夢かもしれない。旅人のひとときの憩いかもしれない。
夢でも一時の慰めでもいい。
その記憶を、この身に刻み付けろ。癒えない傷を刻むように―――幾度も、幾度も。
恋人のたくましい背に、有朋はぎゅっと爪を立ててしがみついた。
「………ちっと」
掠れた声で、苦笑交じりに慎吾が言った。
「そげん煽ったら、もう止まらんで」
望むところじゃ。
そう言う代わりに、有朋は抱きしめる腕に力を込めた。
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