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第8話
「おや、来たの?」
初夏の風吹き抜ける湖畔の木の下。
広げた布上でニナと一緒に昼食をとっていたユーウェルは、屋敷を訪ねたルイスを前にし、意外そうに言った。
本当に予期していなかったらしく、菫色の眼差しには純粋な驚きが映る。
歓迎とは言わないまでも、こんな反応をされると思っていなかったルイスは顔をひきつらせた。
「まさか、あれきりのつもりだったんじゃないですよね?」
「だって、もう用もないだろう?」
「だからって、あんまり薄情じゃありません?」
「嫌がっていたのも、用件がなくなったのも、君の方だろうに」
自ずと非難がましくなったルイスの物言いに、ユーウェルが当惑するように眉根を寄せる。
ニナは我関せずと藤籠から新たにキッシュを一切れ取り出し、かぶりつく。
思わずルイスがそちらに気を取られたのは、ニナの食べようがあまりに豪快で、バター香る生地から今にも具材が零れそうだったからだ。
「君も食べる?」
昼食前のせいか、物欲しそうに見えたのかもしれない。
おかしそうにユーウェルに誘われ、ルイスはお相伴にあずかることにした。
「こういうのは召しあがるんですね」
ルイスはキッシュを取り分けてもらった小皿を持ちあげる。
「ちゃんとした食事っぽいものが好きでね」
「じゃあ、朝露なんてだめじゃないですか」
「そりゃそうだよ。あんなの、お腹が空いて仕方ない。たまに摘むにはいいけど、あれしか食べない妖精の気がしれないね」
ユーウェルの本気か冗談か定かでない言い分を、ルイスは耳半分で聞きながらキッシュを齧った。なるほどユーウェルの言う通り、冷めかけてはいるものの、分厚いベーコンの塩味が味濃い卵に混ざっていて食べがいがある。
「それでどうでしたか?」
ルイスが聞くと、ユーウェルは菫色の目を瞬かせた。
「もしかして、わざわざそれを聞きに来たの?」
やっぱり案外暇しているんだねぇ、とユーウェルは思案気にひどく失礼なことを言う。
「上々だったよ。正直、戴冠する兄より目立っていた。義姉も感激していたし。ねぇ、ニナ」
話を振られたニナが、口にキッシュを入れたまま、こくりと頷く。
「それって大丈夫なんですか?」
妖精の国どころか、この国の戴冠式もどうだか知らないが、国の節目となる重要な儀式であることはルイスだって理解している。
誰よりも目を引けばいいと願ってはいたが、さすがに主役の座を奪うのは不味いのではと思う。
「当の本人が羨ましがっていたくらいだから、いいんじゃないの?」
ユーウェルはなんてことないように首を傾げた。
そこには明らかな自負があって、ルイスはあの日のユーウェルが、光り輝くシャンデリアのもと、堂々と兄である妖精王と渡りあっているのを見た気がした。
ルイスが白昼夢の余韻にかられていると、ユーウェルは細い背にかかる髪と同じ銀糸の睫毛縁取る菫色の目をほっそりと眇めた。
もう随分慣れたとはいえ、こういう顔をされると何もかも見透かされ暴かれるような妙な迫力を感じる。
今度はまだ何もやらかしてないはずと慎重に息を詰めたルイスは、「君、このまま妖精の御用聞にならない?」というユーウェルの思いがけない誘いに拍子抜けした。
「突然、何の話です?」
ルイスは不審を込めて聞き返す。
ユーウェルは心外そうに肩をすくめた。
「何の話も何も、美しい翅がより特別に見えるよいドレスだって、あっちで散々羨ましがられて、みんなが欲しいって言うんだよ。私一人じゃ、とても捌ききれないから、聞かなかったことにするつもりだったんだけど、ルイスならできるだろう?」
「無理ですよ。あれは、ユーウェル様の翅だから美しく際立つのであって、同じものでも他の方では全然意味が違ってきます」
「そう。だから、私の時みたいに、その妖精にあったものを選べるんじゃない?」
「簡単に言わないでくださいよ」
「いいじゃないか、簡単に考えたって」
それにほら、とユーウェルは空からひらりと飛んできた紙を苦い顔で手に取った。
「きっちり閉じているというのに、隙間から注文書を差し込む輩が後を立たなくて困っている。父のことがあって以来、行き来は国が管理していると言うのに」
ぴんとユーウェルの指先で弾かれた紙が、さらさらと宝石の砂粒となって湖へ飛んでいく。
「王である兄すらこれじゃ、どうしようもないよね?」
「つまり面倒ごとを押し付けたいだけじゃないですか!」
うんざりしてルイスが言い返せば、ユーウェルは素知らぬふりをして笑う。
「さて。君の店の名前はどうしようか」
ユーウェルの菫色の目がルイスを見つめる。
澄んだ眼差しは、これからを期待して楽しそうな煌めきに満ちている。
「君がくれたブローチもいたく気に入られていたから、ガラス職人に話を取り付けておいて。それから、ニナからお菓子の話を聞いて食べたくて仕方がないという者もいた。全員分の注文を聞き終えるまで何年かかるかな? もう人を騙している暇なんてないよ」
「だから、ちょっと待ってくださいって! 誰も引き受けるなんて言ってませんよね!?」
「悪くない話だと思うけどね。妖精の国には、まだこちらにないものもあるし、代金代わりに貰ったものをうまく活用すれば、きっと高く売れるだろう。ニナだって君の国の未来の女王だから、貴重なツテも既に手にしている。何かいい品を仕入れたら、売り込みに行くといい」
「は?」
さすがに聞き流すことはできなくて、ルイスは固まった。
信じられないと首を巡らせれば「本当です」とニナが応じる。
「え、ニナ嬢って喋れたんです? 無口にも程がありません?」
聞きたかったのは、そっちではないとすぐさま頭によぎったものの、驚きが先に口をついて出た。
「あなたが喋りすぎなだけでは?」
ニナは、普段通りの呼びかけにも気分を害した風はなく、いつも通り、つんとすまして言う。
「代々、王太子はユーウェル様の元に数年おつかえし妖精の国のことを学びます。詳しいことはお教えできませんが、彼の国との国交は、我が国が担う重大な国事の一つです」
「この子は生来、体が弱かったせいもあって確かに早めに預かったけどね。私はそもそも人間と妖精の国の架け橋となる扉の守り手だから指南役というわけだ。まぁ、親戚のよしみだね」
「……もう情報が多すぎてついていけないんですけど!?」
「だって、まさか君がもう一度ここを訪ねてくるとは思わなかったから、ちゃんと来るよう、これからの手を打っておかないと」
「これとそれ、今、何か関係ありました!?」
大混乱するルイスの絶叫が空に溶けて、代わりにうららかな午後の日差しが降り注ぐ。
まばゆい木漏れ日の下、朝を迎える空に似た淡色の翅をさやさや揺らしながら、ユーウェルはひとしきり笑った。
【おしまい】
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