サクラ・ディストピア

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 「吉野」。行ったことはまだないけれど、一面のソメイヨシノがひどく見事であるという。研究員をしていながら、まだ自分の目で確認していなかったのはうかつだった。明日は休日だ。一人で出かけてみよう──そう真治は決心した。  訪れたことはなくても、白っぽい靄を敷きつめたような吉野山の写真はもちろん幾度も見ている。ただ、いまコンピュータの中にデータ化して隠し持っている古文書の色の褪せた画像はそのような光景ではなかった。もっと様々の、言葉に言い尽くせないような紅のグラデーション、また黄緑の若い葉も混じっている。それは真治が、いやこの世界の誰もが見たことのない景色だった。  桜、つまりソメイヨシノは、多様な桜たちをすべて白い絵の具で塗りつぶした上に花開いたあだ花のようにさえ思われる。  「多様」? ふっとこの言葉が頭に浮かんだが、それは旧人類の頃の言葉だったはずだった。真治は右手で前髪をつかむ。何かを知りたくて、なかなか知りえないときのもどかしさからくる癖だ。それは、このD103タイプの元となった、数百年前のの癖だったのかもしれなかった。
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