サクラ・ディストピア

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 翌朝、ホテル前で桜子と別れ、真治はすぐに帰宅して荷物をまとめた。もはや、いても立ってもいられない気分だった。早く「吉野」に飛んでいって確かめたい。確かめるといっても、そこには現実にはソメイヨシノが咲き乱れているだけだとしても。  そわそわと落ち着かない気分をなだめるように、電車内ではひたすらコンピュータの画面を睨みつけていた。何度も読みかえした旧人類の文書。そこに掲載されている多様なる200種もの桜たちの画像。息をのむような美しさ。それをなぜ、旧人類は葬り去り、自らもまた新たな「進化」を遂げたのか。  今「吉野」の山は閉ざされており、ふつうの人間はその中に立ち入ることはできない。遠くから眺めわたすだけだ。しかし、真治は研究者としての許可証を持っている。それを、現地の研究センター分会の事務所に提示し、遺伝子検査で本人確認を済ませたのち、一人この桜の世界に足を踏み入れた。  人気のないしんとしたソメイヨシノ。樹間に、樹木を傷つけないように注意深く張られた綱の合間をまっすぐに歩く。折しもソメイヨシノは満開をやや過ぎた頃。はらはらと花びらが降りしきる光景は、永遠に続くかのようで、研究者として長らく触れてきた真治にとっても別世界のようだった。  「花酔い」という言葉が頭をかすめた。これは旧人類の頃からある言葉だ。初めてその意味を感覚としてつかみ取れた。道を静かに歩きつづけながら、真治は考え詰めていた頭の中が空っぽになっていくのを感じていた。  ソメイヨシノは十分に美しかった。自分は何に拘ってここまで来たのだろう。かつてのこの地の様子が残っているわけでもない。古来からの山桜たちはすべて伐採され、打ち捨てられた。その後を挿し木で育てたソメイヨシノが埋め尽くした。  ソメイヨシノは実を結ぶことがない。いや、結んでもそこから新たな生命が生まれることはない。だから、すべて挿し木で人間が増やしつづけたクローンであり、同じ遺伝子を持つ。  人の力なしに存在しえない特異な桜。  だが、動植物を問わず、生殖に何の意味もなくなったこの世界で、それが何だというのだろう。    
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