記憶の海に沈む

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 おばあちゃんが死んだ。  九十四の歳になったあとだった。  昔から孫の私を可愛がってくれて、会いに行けばその都度お小遣いをくれるような優しいおばあちゃんだった。  裁縫が得意で、浴衣やドレスを作ってくれた。  編み物も得意で、人形の服を編んでいたりして。  年をとるうちに、目も足腰も悪くなってきたので、しばらく裁縫をやってはいなかった。  数か月に一度、おばあちゃんに会いに行ったら、毎回言われたのは 「よく来たね」 「体に気を付けるんだよ」  私を気遣う言葉。  それに対していつも「またね」って言って別れて帰る。  当たり前だと思っていたこの日々はもう来ない。だって亡くなったのだから。  目の前には、もう二度と目覚めることのない冷たくなったおばあちゃん。  体をきれいにし、まるで生きているかのように化粧をしている。  強く口を閉ざし、冷え切った体。  小さい頃は大きな背中に見えたけど、今はもうこんなに小さくなっていたのかと痛感する。  私が大人になって働くようになってから、会えた回数はどのくらいだっただろう。  どんな話をしただろうか。  冷たいおばあちゃんを前にして思い返す。  でも。  ――思い出せない。  最後に顔を会わせたのはいつ?  どんな話をした?  最後の会話は?  思い出せない。  おばあちゃんの声ってどんな声だったっけ?  記憶の引き出しをあちこち開けるも、数多の引き出しにはしまわれていないらしい。  見つからない記憶の海に溺れて、私の目から涙が落ちていく。  両手で顔を覆い、嗚咽をこぼす。  思い出せない。  大切な記憶のはずなのに。  最後の会話は。最後の声は。最後の話は。最後に会ったのは。  死んだ人との記憶のうち、どんな声だったかという記憶が先になくなるらしい。  毎回、これが最後かもしれない。そう思いながら過ごしてはいなかった。また会えると思っていたから。だから記憶に刻むことをしなかったのだ。  忘れてしまった。  最後の日を。  何も思い出せず悲しみに暮れているうちに、おばあちゃんは骨になり、空に昇った。  きっとそこで先立ったおじいちゃんに会えたと思う。  二人一緒に、空の上で私を見ているだろう。  私が最後にそこへ行くまでは、見守っていてほしい。
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