たかが甘さが八神を殺す

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 心臓が苦しかった。寝起きにしては早すぎる脈のせいで、呼吸をするのも一苦労だ。  目を閉じる。ゆっくりと深呼吸をして、八神は真っ白な寝台から身を起こした。膝を立て、両手で顔を隠してうなだれる。 (ああ、嫌だ。今日戻ってくると聞いただけじゃないか。優秀な教え子にただ会って、近況を聞いて、労ってやって――それだけだ。たったそれだけのことなのに)  水無瀬 楽(みなせ がく)は八神の大学時代の教え子だ。バイト代わりの家庭教師で、かつて八神が担当していた生徒だった。小学校を卒業すると同時にアメリカに渡った水無瀬は、飛び級に飛び級を重ね、わずか二十歳で博士号を取得した。二十五になった今では、八神と同じ准教授の地位につき、世界で活躍する第一線の研究者だ。  のろのろとベッドを降りた八神は、いつも通りに顔を洗う。鏡の中にうつる顔は、相変わらずどこにでもいそうな平凡なもので、嫌になった。平凡な顔に、平凡な才能。今日もきっと、水無瀬と顔を合わせた瞬間、いやというほど己の無才を思い知らされることになるのだろう。  髭を剃り、髪をワックスで整える。きっちりとアイロンをかけた白いワイシャツを身にまとえば、人当たりの良い八神准教授のできあがりだ。  幼いころから、人より勉強ができることだけが八神の取り柄だった。  小中高と教科書を読めばすべて理解できたし、教師の間違いが気になるせいで、進みの遅い授業は苦痛でしかなかった。地元に近い京都大学には、勉強の甲斐あって首席で合格。学部三回生に進んだ時点で、早く研究がしたくて飛び級で大学院に進んだ。家庭は裕福とは言いがたかったし、友人が多いわけでもなければ、恋人もいなかった。それでも八神の人生は順風満帆なものであったと思う。  水無瀬 楽に出会うまではの話だ。    水無瀬は、いわゆるギフテッドと呼ばれる賢い子どもだった。田舎の貧乏暮らしだった八神とは違い、裕福な家庭に生まれた水無瀬は、その才能を正しく開花させるための環境にも、手段にも恵まれていた。 『お子さん……楽くんを、アメリカで学ばせる気はありませんか。誰にでも自分のペースがある。彼のペースで学べる環境は、この国ではまだ整っていません』  あの日、八神は水無瀬の受験勉強の息抜きにと、戯れに自分の研究を見せていた。素直で覚えのいい水無瀬と話すのは楽しくて、以前から中学受験をはるかに超えた範囲のことまで教えていた。その延長だった。  水無瀬と話した直後に、八神は水無瀬の両親に真剣に進言した。そうせずにはいられなかった。  幼いころから海外で学ぶ。そんな手段があると知ったのは、八神が大学院に進んでからのことだ。裕福な留学生と関わるようになって、はじめて知った。頂点を歩んできたと思っていたのに、蓋を開ければもっと高みへ至れる道があった。あると知っていたなら、そこに至れるだけの環境があったのなら、八神が掴めていたはずの栄光だった。  知ってしまった以上、知らないふりをすることは、八神にはできなかった。きらめく才能を、ゆるやかに沈みゆく母国で腐らせることなど、到底許せなかったのだ。 『アメリカですか? そうですね。海外赴任は希望すればできますけど……。たしかに、その方がいいのかもしれません。あの子にとっても、差別の少ない国の方がいいのかもしれないと、最近考えていたところなんです』  唐突にもほどがあっただろうあの日の八神の言葉を、水無瀬の母はおっとりと受け止め、微笑んだ。  体質に合わせて国を選べる。才能を伸ばせる場所を選べる。当たり前のように子どもを最優先に考えてくれる親がいて、それを可能にできるだけの経済力さえある。なんて羨ましくて、妬ましいことだろう。   『……きっとそれがいいと思います。私にできることはすべてサポートします。ですから、どうか、ご検討ください』    水無瀬楽に罪はない。けれど彼の存在そのものが、それ以来ずっと、八神を苦しめ続けている。 「水無瀬くんは、一時に空港……駅に着くのは、二時半くらいか」    ひとりごとを言いながら、腕まくりをする。水無瀬が帰国してくるときくらいしか使わない調理器具を台に並べて、八神は手順通りに粉と砂糖を混ぜていく。凝ったものは作れないけれど、こんなものでも水無瀬にとっては何より甘いご馳走だ。 (かわいそうに)     暗い微笑みを唇の端に浮かべて、八神は指先に包丁を当てる。  一滴。二滴。  赤黒い血が、黄色い生地に落ちて滲む様を、八神はじっと眺めていた。
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