たかが甘さが八神を殺す

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 水無瀬は遠くからでもひと目で分かる、人目を惹く男だ。  アメリカ生まれの祖母の血を濃く継いでいるのか、色素の薄い髪が特徴的だった。車を止めて、着いたと短く連絡を入れる。スマホを取り出し、次いで顔を上げた水無瀬が軽く辺りを見渡した。  車の隣に立つ八神を見つけた途端、水無瀬のアンドロイドのように冷たく整った顔が、ふわりと綻ぶ。 「八神先生!」  遠くから声を上げたかと思うと、水無瀬はほとんど走るように八神のもとにやってくる。栗色の髪も相まって、ゴールデンレトリバーが駆け寄ってくる姿を水無瀬の後ろに幻視するほどだった。当たり前のように広げられた腕を、苦笑いしながら受け入れる。  仕事柄、八神が海外からの客をもてなす機会は多い。だからこういう文化にも慣れていた。  水無瀬から香る柑橘系の爽やかな香水の匂いと、ほどよい力加減のハグを受け止めながら、アメリカで育つと皆背は高く筋肉質に育つものなのだろうか、と馬鹿なことを思う。会うたび水無瀬が育っている気がするが、さすがに二十五ともなれば成長期はとっくに終わっているはずなので、八神の気のせいだろう。 「先生。ああ、先生の匂いだ。会いたかった」 「大げさだな。でもたしかに久しぶりだ、水無瀬くん。元気そうでよかった。長旅お疲れさま」  半年ぶりだろうか。水無瀬一家は家族仲がいいからか、水無瀬は数か月おきに日本に帰ってくることが多かった。それを思えば、今回は普段より期間が空いた方だろう。ひとしきり再会を喜びあったあとで、八神は水無瀬の荷物を車に乗せる。 「すみません。いつもいつも迎えに来てもらっちゃって」 「構わない。水無瀬さんたちにはお世話になってるからな。それに、教え子の顔を見られるのは嬉しいよ。……聞いたぞ。フォークの飢餓抑制剤の開発。賞をもらったんだろう? おめでとう。教授に上がる日も近いな」 「そんな、俺なんて、まだまだです!」    じくりと胸が痛んだ。若干二十五の若さでありながら、この分野ではおそらく今最も高名な研究者だろう水無瀬は、いつだって謙虚な態度を崩さない。 「少しくらい天狗になったっていいだろうに。水無瀬くんは変わらないな。君のこの研究は、今苦しんでいるたくさんのフォークたちを、きっと救うよ。誇るべきだ」 「俺の仕事が何かの役に立つなら、それだけでいいんです。科学は人の幸せのためにあるものだって……人より優れた力は、周りの人のために使うべきだって……、そう八神先生が教えてくれたことを守れているのなら、それだけで十分です」    高潔なことだと内心で嘲笑する。水無瀬には、子どもがそのまま大人になったかのような無垢なところがあった。それが環境に恵まれたがゆえのものなのか、それすらも本人の資質なのかは分からないが、時折ひどく腹が立つ。   「……君は本当に変わらない。ほんの少しの間でも君の先生でいられたことが誇らしいよ。ないに等しいような短い間だけれどね」 「俺の先生は八神先生だけです。今も昔も。あなたより素晴らしい方には出会ったことがありません。知識も、考え方も、人格も」    運転しながら何気なく零した言葉は、思いのほか強い口調で否定された。驚いて一瞬だけ助手席に顔を向ければ、水無瀬はひどく真剣な顔をしているものだから、少し困った。 「嬉しいけれど、私は水無瀬くんが思ってくれるほど立派な人間じゃない。君が私の中身を覗いたらがっかりするだろうな」 「ありえません。先週出ていた先生の論文も、面白かったです。ケーキの遺伝子には共通点があるというのは数年前から報告されていましたけど、発現にはフォークの存在が影響するというのは、興味深いです。あれ、マウスのxx遺伝子を潰したってことですけど、もうひとつの方は検討されたんですか?」 「ああ、それは実は……」    研究の話にうつると、止まらなくなった。水無瀬と話すのはいつだって楽しい。同分野だけあって知識も豊富だし、八神自身が疑問に思って調べた部分を、水無瀬はまるで八神の思考をなぞるように尋ねては楽しんでくれる。打てば響くような反応が心地よかった。  研究の話をしているとき、水無瀬と八神は年齢も国も超えた師弟であり、誰より親しい友人でもあり、同じ問題に取り組むチームメイトにもなれるのだ。  けれど、同時にひどく憎らしい。   「あ、でも。ちょっと思ったんですけど、先月Natureで報告されてた理論、あるじゃないですか。ジョンズホプキンスのチームの。あれを八神先生の研究に応用すれば、フォークの衝動の方に手をつけるんじゃなくて、むしろ疑似的に味覚を満たすことができるんじゃないでしょうか」 「……っ、そうだな。水無瀬くんはいつも本質を見る。君のその発想力にはいつも驚かされるよ」  十も年下の男だ。分かっているのに、嫉妬が胸をちくちくと刺す。内側の醜い部分を間違っても見せないようにと笑顔を作りながら、八神はなんてことのないふりをして紙袋を手に取った。 「そうだ、腹は減っていないか? よければ食べてくれ」 「わっ! マフィン! まだあったかい。八神先生が作ったやつ?」  水無瀬が声を弾ませる。とってつけたような敬語を忘れた、昔のような口調が微笑ましかった。頷けば、水無瀬はにこにことしながらマフィンを手に取る。待つのも惜しいのか、早々にマフィンにかぶりつき、水無瀬はとろけるように「甘い」と笑った。
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