たかが甘さが八神を殺す

5/16
23人が本棚に入れています
本棚に追加
/16ページ
「嬉しいな。八神先生のマフィン、俺、一番好き。これだけは先生に『作ってくれ』って図々しく言い出した母さんに心から感謝してる」  しみじみと言う水無瀬に、八神は吹き出しそうになった。水無瀬の両親は昔から家事が大の苦手なのだ。それでも、小学生だった水無瀬が「甘い菓子」という概念すら知らないことを不憫に思い、なんとか近いものを体験させてあげたいと試行錯誤していたところを、たまたま家庭教師に来ていた八神が見つけて口を出した。  それ以来、何かにつけて菓子を作ってやるのが、八神と水無瀬の間のお決まりのやり取りなのだ。 「八神先生のお菓子はいつも甘い。本当においしい。世界で一番おいしいと思う」  「君だけだよ。そんなことを言うのは」  喜んでくれるのならば、わざわざ作ったかいがあったというものだ。苦笑しながら八神がそう言えば、「ほかの人にも作ってあげたことがあるんですか?」となぜか一段トーンの下がった声で、水無瀬が問う。心なしか唇を尖らせてさえいるように見えるのは気のせいだろうか。   「八神先生には、教え子がたくさんいますもんね」 「まさか! 学生に振る舞えるような腕じゃない。学生たちだって、いきなり上司が手作りの菓子を持って来たって気味悪がるだけだ。ラボに持って行くわけがないだろう?」 「じゃあ、俺だけですね?」  水無瀬がマフィンの最後のかけらを口に放り込む。水無瀬にしては行儀の悪い仕草に目を惹かれながら、「ああ」と八神は頷いた。水無瀬の整った唇が弧を描く。「よかった」と呟く声を聞きながら、八神は水無瀬の家の前まで車を走らせた。  水無瀬の実家は、昔から変わらない奥まった場所にある。高級感というよりは温かみと歴史を感じさせる家のつくりは、水無瀬の父の趣味で建てられた、別荘のようなものなのだと聞いたことがある。いつものように家に招き入れられながら、八神は車のキーをポケットに押し込んだ。 「いつもすまないな。お邪魔しちゃって」 「こちらこそいつも迎えに来てもらってありがとうございます。八神先生に会うために帰国しているようなものですから、一緒に食事ができて嬉しいです!」 「君はいつでもおおげさだ」 「心からの気持ちですよ。両親も八神先生と話すの、楽しみにしていますし……、あ」  水無瀬がスマホに目を落とす。「すみません」と一言断って、水無瀬は通話を始めた。口調からすると、相手は母親だろう。電話を切ると同時に眉尻を下げた水無瀬が、困ったように八神を見る。 「すみません、先生。出先でちょっとトラブルがあったみたいで、両親が帰ってくるの、明日になるそうです」 「ああ、構わないよ。そういえばご両親は、今はどちらにいるんだ?」  仕事でも海外を飛び回り、旅行も趣味だという水無瀬夫妻は、そもそも日本にいるのかどうかすら分からない。「今は香港らしいです」と答えた水無瀬は、そうと決まればとでもいうようにきびきびとキッチンに向かう。腕まくりをした水無瀬の背に、慌てて八神は声を掛けた。 「ご両親が帰ってこないなら、出直すよ」 「いいえ。先生さえよければ、一緒に夜ご飯、食べて欲しいです。実は俺、最近料理も始めたんですよ」  告げられた言葉に目を丸くする。料理も何も、水無瀬には味覚がないではないか。驚きが顔に出ていたのか、照れくさそうに水無瀬はエプロンの紐をきつく結ぶ。 「研究の一環と……、あとは、先生に食べてほしくて。あの、だから……下手かもしれないけど、よかったら、試してみてもらえませんか」    加える試薬の等量が決まっているという点では実験と変わりませんから、そうおかしなものはできないと思います。そんな不安を煽る水無瀬の言葉を笑いつつ、そういうことならと八神はソファに座り込んだ。  機械のように規則正しく響く調理音を聞いていると、気分が落ち着いてくる。鼻腔をくすぐる香ばしいにおいに腹が鳴り、いつの間にか八神は、自分が自室にいるのと同じくらいリラックスしていることに気が付いた。水無瀬と顔を合わせると思うと、朝はあんなにも気が重かったというのに、人間というのは現金なものだ。たかが食欲ひとつで心がほぐされてしまうのだから。
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!