1章女王編・上

90/97
34人が本棚に入れています
本棚に追加
/294ページ
   先の見えないトンネル・2  午後の授業を終え、日和は一人帰路につく。  向かう先は柳が丘。  日和は魂が抜けたように虚ろな顔で、やはり置野家に向かうことはできなかった。  その後ろ姿に狐面を付けた少女が声をかける。 「なぁんだ。ちゃんと殆ど一人で過ごせるんじゃない。一体何のための監視対象なの? ま、妖が出るのは今からの時間が多いからね。楽しみにしてるよ」  狐の面をしたままで表情は分からなくても、くすりと笑う声はとても愉悦に浸っているようで。  足は止まったが返事のない日和に首を傾げながらも、命は言葉を続けた。 「黄昏時、黄昏泣き、夕方は人間の心が不安定になり、妖が生まれる絶好の時間。君が監視対象だというのなら、妖を生み出す可能性もあるかとも思ったんだけど……どう? それも違うの?」  日和は振り向き、最早心もない黒ずんだ茶色の目を向ける。 「私は……」  日和が小さく口を開き、言葉を零す。   しかし()()姿()に命は急いで指で風を切り、姿を消した。  まさに一瞬の出来事。  命に振り向いた日和の背後に、ゆらりと巨体が揺らめいた。  牛の様に立派な角を持った頭、ふさふさとした熊の様な胴体、尾はひょろ長く二つの動物が混ざり合った不気味な姿をした妖が、上体を起こし前足を振り上げる。  刹那、日和の体は軽々しく吹っ飛び、辺りの民家の塀に叩きつけられた。  命がいた場所は体格の大きな妖の前足が振り下ろされる。 「うぁっ……ぶな!!」  姿が消えたまま後ろに飛び退いていた命はゆらりと姿を現す。  狐面に与えられた幻術、認識阻害。  パーカーの袖が少し削れ、妖の爪が命の体ぎりぎりを(かす)めていった。  一方で塀に打ち当たった日和は動くことなく、ただ霞んだ視界で黒い影のように大きな妖をじっと見ていた。  その目はまるで死を望むかのように。  日和の視線に気付いた妖はぐるりと体の向きを変え、日和に向けて突進する。  そして人のように歪に発達した前足を使い、乱暴かつ獰猛な動きで日和の体を掴み、持ち上げた。 「うっ……ぐ……」  強く締めつけられる日和は大きく声を上げる事はなく、苦しそうな表情を浮かべ、足はびくびくと細く痙攣する。  体の限界だ。  このままではすぐに圧死するだろう。 「あ、あっ……?」 「――射る」  現状を理解できなくなった狐面の横を、風切り音と影が駆け抜ける。 「――日和……っ!」  二つの声が響いた。  日和を掴んでいた妖の腕には水の矢が刺さり大きく弾け、胴体には石の槍が下から上へずん、と重々しく衝き上げる。  吹き飛んだ腕と共に日和の体が空を彷徨う。  駆け抜け、地面を叩き槍を出した竜牙の勢いはそのままに、落ちる日和の体を受け止めた。 「よりにもよって日和に手を出すなんて、最ッ低! 爆ぜろ!!」  両手に炎を携えた波音は勢いよく地面を蹴り上げ、巨体に業火の打撃を3発食らわせる。  ついでと言わんばかりに竜牙が空けた胴体の穴に向けて火薬を投げた。  火薬はパチパチと線香花火のような小さい音を立てると波音の言う通りに黒煙を上げながら爆発する。  そしてその体は四散、さらに細かく霧散して消えた。 「日和……大丈夫か、日和!」 「ぐっ……!……怪我は消えた、しかし……」  竜牙は日和の体を抱え声をかけるが、返事はない。  竜牙と共に日和の様子を見る玲は咲栂に変わって癒しの水をかける。  しかし体の傷は癒えても目覚める気配は一向にない。  咲栂は日和の目に伝った乾きかけた涙を拭い、竜牙を見る。 「……一度休ませた方がいいかもしれぬな。竜牙、頼めるか?」 「ああ……」  竜牙は頷き、日和を抱えたまま急ぎで場を後にした。 「さて、失礼するわよ」  波音は遠くからその様子を見ると、腰を抜かしているのか動かない狐面に向き直り、その面を剥ぐ。  面の下から覗いたのは櫨倉命、クラスメイトの姿だった。 「ヘぇ、貴女狐面だったの。随分と烏滸(おこ)がましい事してくれるのね」  波音は怒っていた。  今にも殴りかかりたい気持ちだが、きっと親友はそれを望まないだろう。 「なんで……どうして……! わからない、わからない……!」  命は波音を見ること無く、霧散した妖の場所を見て混迷の表情を浮かべている。 「私からすれば、あんたの行動の方が分からないわ」  その姿を見て波音は苛立ちを吐き捨てた。  命はぎょろりと波音に目を向け、野獣の咆哮のように攻撃的な顔で叫ぶ。 「だってそうだろう、術士様はこの地に住まう者達の為に戦っているのだ! それなのに何故わざわざ一人の一般市民の為に動く!? あの女も何なんだ! 術士様に近付く不届き者の癖に……好意で近付いたのでないのなら妖の(たぐい)かと思ったのに……!」 「あんた、最っ低ね……性根腐ってんじゃないの…?」 「傾倒するのも大概にしてくれないかな。流石に日和ちゃんをあの姿に戻してしまった事は僕も看過できない。その物言いは彼女に失礼だよ」  波音と換装を解いて隣に戻った玲は憤懣(ふんまん)の限界だった。  それでも手を出さないのは、日和の心配と事の重大さを師隼に纏めてもらう為だ。  波音は憎しみたっぷりに命を睨み付け、言葉を吐き捨てる。 「明日を覚悟しておくことね。私は絶対に貴女を許そうなんて思わないわ」
/294ページ

最初のコメントを投稿しよう!