其れは、西の宮廷にて。

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 自然に付け足された其の言葉へ、一匡は一瞬固まり、其の妻である灯(アカリ)も掴んだ沢庵を箸より滑り落としてしまう。 「な……わ、私が都へだとっ……えっ、何で……!?」  やっと絞り出せた声で弟へ問うと。 「宮廷楽士に枠がある様で。兄上以外に適任は居らぬと思いまして」 「きゅ、宮廷楽士とな……?!」  信じられない処で降って湧いた大出世への道標に、一匡は顎が外れんばかりに口を開けて。  一匡は、家を背負う第一子でありながら己が勉学や武道に凡庸である事を理解していた。取り敢えずは此の片田舎で宮仕え。只其処でも、幼い頃より誰かと競う事を好まぬ人の良さは出世の枷に。おっとりした其の気性は、西の民ではあるまいなと、仲間内でからかわれたり。事実、一匡は東の男には珍しく、歌や楽の才が非凡である。しかしながら、此処地方では時代が進んだ今でも、『昔ながらの東』の姿を重んじる傾向が強い。故に、才とは認められる事無く来た。  だが。 「現在の楽士長が御高齢で在られ、其の引き継ぎを探して居たとの事で。兄上の実力や知識の広さを紹介した処、帝が是非顔合わせをと」  何の運なのか、そう言う事で。一匡は、此の事態への驚愕と期待が入り交じりながらも、己を理解して出世の道を開いてくれた弟へ胸を熱くした。 「一切……お前って奴は……っ」  涙汲み、鼻を啜り出した兄と。 「何て事でしょう……一切殿、何と御礼を申し上げるべきか……っ」  同じく、義姉迄が。夫婦揃うてと、一切は苦笑い。 「兄上も義姉上も、反応が大袈裟ですね。兄上は父上と同じく、私の学びに力を下さった。其れに比べれば、ほんの小さなお返しです」  そう答えながら、兄の喜ぶ姿へ満足気な笑み。再び食に手を動かし、暫く食事に集中して居た面々。其れが一先ず落ち着いた頃合い。膳も片され、其々の手元へ食後の茶が置かれる。其れを啜り喉を潤した母、祭(マツリ)が、湯飲みの茶へ視線を落として。
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