幸せと、後ろめたさと

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「俺、来週桜見に行くけれど、一緒に行く?」 先輩に誘われた。 はたから見れば、付き合う前の男女かもしれない。 でも、私の左薬指には、きらりと光る銀色の輪っか。 「え!?いいんですか?」 他に誰か誘いますか? そう、聞けば良かったかもしれない。 そう聞けなかったのは、心のどこかでたぶん、先輩が好きだったから。 先輩と仲良くなったのは、この、左薬指に輪っかが光った後だった。 最初は何人かでご飯に行くだけだった。それが、気がついたら、2人でランチに行くようになり、夜にラーメンに行くこともあった。 カラダの関係は全くなかった。本当にご飯に行くだけ。浮気ってどこからだろうなんて、浮気をしている人が言いそうな考えが頭に浮かびつつも、これは会社の人とご飯に行ってるだけと、自分に言い聞かせて正当化していた。 そして、その翌週には、先輩の車の助手席に乗っている私がいた。後部座席には誰にもいない。初めての2人きりでの遠出だった。 「わあ、綺麗」 先輩が連れてきてくれた場所の桜は満開だった。 「あの、写真撮ってもらってもいいですか?」 そんな中、私は知らないカップルに声をかけられる。 「もちろんです。…じゃあ撮りますね」 私はなぜか、旅行先でよく、写真を撮ってくださいと声をかけられる。 「よろしければ、お2人も撮りましょうか。」 そう言われて、一瞬先輩を見る。良かった、先輩にはこの声、聞こえてなさそう。 「あ、いえ。私たちは大丈夫です。」 私は、笑顔で断った。撮らなかったのは、やっぱりこのお出かけに、後ろめたさを感じているからかもしれない。 私たちは桜の写真を撮って、お昼ご飯を食べて、帰路に着いた。それはとても幸せな時間だった。 「今日は、ありがとうございました。綺麗でしたし、凄く楽しかったです。」 私は、先輩の車を降りる。 「俺も1人で行くより凄く楽しかった。また来年も行こうね。」 その約束に顔がにやけそうになるけれど、 「はい、ぜひよろしくお願いします。」 それを笑顔にかえて、先輩にそう言う。 「あ、おかえり。ご飯、できてるよ。」 その夜は、予め作り置きしてあったご飯をお皿に盛って、あたかも今日は家にいたかのように、夫の帰宅を待った。 「ありがとう。あ、なんかスマホ鳴ってるよ」 夫にそう言われ、スマホを見れば、先輩から今日のお礼と写真。 「誰からだったの?」 「ん?会社の先輩」 夫の問に、冷静に答えつつも、画面は夫に見えないようにさりげなく隠す。そして、夫がテレビに夢中になっている間に、返信をする。 これは、アウトかもしれないと後ろめたい気持ちが大きくなった。私は、以降、先輩との関わりを少しずつ減らすことにした。 …そしてその夏、夫の転勤が決まり、私は会社を辞め、遠くへ引っ越すこととなった。 結局、先輩との来年は、こなかった。 新しい土地に来て、初めての春。 家の周りの桜も満開になっていた。 会社を辞めてからは、先輩と連絡はとっていない。 先輩にとって私はなんだったんだろう、なんて思うけれど、そもそも私と先輩の間には何もあってはならなかったし、何もなかった。 桜を見ると、思い出す。 あの幸せと、あの後ろめたい気持ちを。 胸が苦しくなった。 ああ、早く、桜なんて散っちゃえばいいのに。
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