最後は笑って、

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 授業そっちのけで悩み続けていた時、耳に飛び込んできたのは生物の先生のたわいもない雑談だった。この先生は泉と正反対で、しょっちゅう授業を脱線する。 「ザトウクジラって、みんな知ってる?」  紗良は首を横に振った。クラスのほとんどは紗良と同じか、首を傾げている。先生は黒板に大きなクジラの絵を描いていく。 「大体15mくらいになるクジラで、仲間とコミュニケーションを取る時や求愛行動をするときは歌をうたうって言われていたんだけど……最新の研究だと、求愛行動の時にうたわなくなってきたらしいんだよね」  紗良は心の中で「フーン」と相槌を打つ。 「求愛の仕方が歌からオス同士の喧嘩に変わってしまったんだって。喧嘩の強いオスがモテるらしいよ、先生は歌でいいと思うんだよなぁ」  その言葉に無意識に頷く。いいじゃん、歌で――そう考えた瞬間、目の前にかかっていた靄がパッと晴れていくような、頭の中が澄み渡っていくような感覚が紗良を満たした。  そうだよ、歌でいいじゃん! 心臓がドキドキと強く高鳴る。どうして今まで思いつかなかったんだろう? 自分の得意な事でアピールしたら、振り向いてもらえるかも!  紗良はその日のうちに、うたう場所を探し始めた。教室やグラウンドでうたっても、きっと彼には届かない。でも、紗良は知っている。泉は学校にいる間は語学準備室で過ごしていることを。語学準備室の周りで適した場所はないかと探していると、そこの真上が空き教室であることを突き止めた。紗良は窓を開けて、胸いっぱいに息を吸う。そして自分の想いを、歌に乗せて届け始めた。  始めの頃は、自分が好きな歌。しかし泉が全く反応してくれないから、今度は流行っている恋愛ソング。それも違う気がして、次は紗良のパパがカラオケに行った時にいつもうたう少し古めの歌。 「……名案だと思ったんだけどなー」  空き教室で紗良は途方に暮れる。ここでうたい始めてしばらく経ったけれど、泉の態度は全く変わらない。彼に自分を好きになってもらうなんて、夢のまた夢なのかもしれない。好きという気持ちが細くなって、途切れそうになっていく。  もう一度だけでいいから、あの笑った顔が見たい。それだけでも叶えたい。紗良が願った瞬間、脳裏にとある曲が過る。気づけば紗良は、その歌をうたい始めていた。彼が好きだと言っていたあの歌。どうか風に乗って、彼の耳まで届いて欲しい。  そんな願いを乗せて、卒業までにきっと何十回とうたったに違いない。紗良は目を開ける。同じ数だけ彼に好きだと告げていたけれど、紗良の求愛行動はもうおしまい。卒業と共に幕を閉じると決めていた。紗良は涙を拭い顔をあげる。 「卒業式が、明日が先生に会う最後の日だから。最後は泣かないで、笑ってお別れしたかったんです。だから、今日でおしまい」  最後に「失礼しました」と頭を下げて、語学準備室のドアを開けようとドアノブをひく。けれど……ドアはほんの少ししか動かなかった。どうしたんだろう? と紗良が思った瞬間、背後に人が立つ気配を感じ取った。この部屋にいるのは紗良以外では一人しかいない。紗良が見上げると、骨ばった大きな手が、開かないようにドアを押さえつけている。 「言うだけ言って、返事は聞かないつもりですか?」  その声は何だか怒っているかのように聞こえ、冷たく部屋の中に響いていく。紗良は恐る恐る振り返って泉を見た。薄暗くてよく見えなかった表情が目の前にある。そこには怒りではなく、寂しさのようなものがあった。 「だって、泉先生はいつも断るじゃないですか」  返事はいつも決まって「NO」。そっけなく、紗良を見ようとしない。今更聞く必要なんてない。紗良はそう思っていた。でも、今日の泉は少し違うように見える。戸惑う紗良に、泉は驚きの言葉をかけた。 「……今まですみませんでした」  その謝罪だけでもびっくりなのに、泉が続ける言葉にもっと仰天することになる。 「男の教師が特定の女子生徒に対して特別な感情を抱いているなんて知られたら、都合が悪いじゃないですか」 「え?」
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