最後は笑って、

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 紗良は思わず尋ねる。どういうことですか、先生? 泉は少しだけ間を置いてから、小さな声で話し始めた。 「ここにいたら、歌が聞こえてきたんです」  始めは全く気にも留めていなかった。しかしある日、自分の好きな歌の旋律が耳に届いた時、泉は無意識に顔をあげた。初めて誰がうたっているのか気になった。メロディーに導かれるように階段を昇り、空き教室のドアの窓からそっと中の様子を窺った。泉はハッと目を丸める。そこにいたのは、いつも突然「好きです」と叫んでくる女子生徒。確か、谷口といったか……泉の思考回路はゆっくり止まっていった。視線はのびのびとうたう彼女にくぎ付けになる。廊下の窓からさしこむ夕日はまるでスポットライト。彼女だけが輝くように照らしている。  泉は見惚れていた。言葉を失くして、ただ視線が彼女の背中を見つめる内に、抱いたことのない感情が芽生え始めていた。  それは向けてはいけない相手への好意。 みずみずしい新芽のように柔らかく、両手で優しく包んで守ってあげないと吹き飛んでしまいそうなくらい儚い想い。  泉は気づかれないように空き教室を後にした。もし教師である自分が生徒である彼女に対して特別な感情を抱いていると知られたら、紗良だって白い目で見られて学校で過ごしづらくなる。だから、あえてそっけなく冷たいふりをし続けた。 「自制していたんです。誰にもバレないように」  泉の瞳に紗良の戸惑う表情が映りこむ。 「歌が聞こえてくるのは本当に楽しみでした。自分のためにうたってくれているんだと思うと嬉しくて」  紗良の歌声に耳をすますたびに、自分の中で芽生えた小さな芽がゆっくりと成長していくのを感じていた。彼が人知れずそんな気持ちをずっと守り続けていてくれたなんて、紗良は知らなかった。 「泉先生、それって」  紗良がその続きを聞きたくて尋ねた時、泉は「話し過ぎた」と言わんばかりに口を固く閉ざす。 「先生、教えてください。私の事、どう思っているのか」 「……また明日、卒業式が終わったあとに来てください」  いつものそっけない言葉。でも、紗良はその時になって初めて気づく。彼の目の下がほんのりと赤くなっていることに。 ***  卒業式が終わった後、紗良は友達が引き留める声も聞かずに語学準備室へ向かっていた。階段を昇って廊下を駆け抜けようとしたとき、その語学準備室から同じクラスの女の子が出てきた。力なくうなだれている。別れの寂しさでショックを受けている訳ではなさそう。紗良は走るのをやめてゆっくりと歩き、彼女と目を合わせずすれ違う。すすり泣く声が聞こえてくる。それが過ぎていくのを待ってから、紗良はドアをノックした。 「どうぞ」  泉の声が聞こえてから紗良はドアをゆっくりと開けた。相変わらず部屋の中は暗いけれど、何だかそれが気にならない。 「泉先生、さっきの子ってもしかして……」 「あぁ。今日で会うのが最後だからって」  彼女も泉に、今まで抱いていた淡い恋心を打ち明けたに違いない。紗良はうなだれていた姿を思い出す。もしかしたら、歌をうたわなかったら……あれは自分の姿だったんだ。背筋に小さな恐怖が伝う。 「谷口さん、スマホありますか?」  紗良がぞっと怯えていることに気づいていない泉がそう呼びかける。紗良は戸惑いながらブレザーのポケットからスマートフォンを取り出す。 「連絡先教えてください」 「え?」 「知らないとこれから不便でしょ? いろいろと」  ハッとして、紗良の手が小刻みに震えだし、スマホの画面に涙が落ちていく。今になってようやっと実感できる。彼が昨日話していた言葉の意味。 「私、卒業しても先生に会えるんですよね?」  ぽろぽろと落ちる涙をぬぐうように、泉が紗良の頬に触れた。 「もちろん」  見上げると、そこにあったのはいつか見た優しい笑顔。それが今、自分にだけ向いている。紗良も笑いたいのに、心と顔がちぐはぐでかみ合わない。 「今日は笑うって言っていたじゃないですか」 「それは……昨日は、フラれる前提でっ」  わずかに口角が持ち上がる。そうだ、今日は【最後の日】じゃなくて【はじまりの日】になるんだ。喜びが込みあがってきて、泉に飛びつきたくて仕方ない。紗良はその前に、言い忘れていた言葉があることを思い出していた。 「先生、好きです」  今度こそ、返してくれるに違いない。彼があの言葉を言ってくれたら、とびっきりの笑顔を見せよう。紗良はそう決めた。 「僕も、好きです」  
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