夜の言葉たち

1/1
前へ
/1ページ
次へ
3月中頃の夜道、花粉症になって涙が出てきた時、初めて「泣く」というのがなんなのかがわかった気がした。 そんな馬鹿な、って人は思うかもしれない。でも私は今まで悲しくて涙を流したことしかなかったから、なんの感情もなく身体の防衛作用として涙が出た時、それが「泣く」こととは違うということをまざまざと実感した。 どこかの哲学者が「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」と言ってたけれど、それはきっと嘘だ。悲しくなくたって、涙は出るんだから。 でもじゃあなんで、私はとても悲しいことがあるたびに泣いていたんだろう。 小さい時にお母さんと大喧嘩した昔の家のリビングで、初めてできた恋人に振られたあの寒い夜の帰り道で、飼っていた猫が冷たくなっていた動物病院の診察台の隣で、なんで私はあんなに泣いていたんだろう。 花粉症はお薬を飲んで目薬をさせば涙が出るのは軽減されるのに、どうして悲しいときは泣いてもご飯を食べていても無理に気を紛らわそうとしていてもボロボロと水滴が目からこぼれ落ちるのだろう。 答えはわからないし、お医者さんや心理士の人にいろんな難しい言葉を使って説明されてもきっと「それで?」って言って私が本当に知りたいことを教えてくれるわけではないんだろう。 突然目の前から眩しい光が迫ってきたから、思わず顔を上げたら対向車がハイビームをたいたまま走っていて、目が一瞬だけ見えなくなった。 嘘でしょ、こんな街灯の多い街中で。 目の痒さと目の見えない不自由さで怒りがマックスに達したけれど、もうその車は過ぎ去ってしまって、結局私の「涙」と「悲しみ」の関係性について考察を中断したことに対するクレームを入れることができなかった。 目を強制的に瞬きして、周りが見えるか確認する。一級河川Z川にかかるY大橋、その橋の上にひかれた二車線道路、対岸にあるたくさんのアパートやマンションにポツポツと点る灯、それから、私。 側から見たらこんな夜中に一人で散歩しているなんて世間の「エモい」という枠組みに捉えられてしまうんだろうな。 確かに、ちょっとエモいかもしれない。でも「エモい」という言葉は仲間内でいうから「エモい」のであって、これを誰かと共有しなかったら、それは誰にも定義することなんてできない、誰にも奪えない、私だけの「時間」なんだ。 この「時間」だけは、誰にも回収されたくない。 大体もし本当にこの空間がエモかったらそもそも花粉症じゃないだろうし、ポケットからティッシュを取り出して鼻をかむこともないだろうし、ましてやそのティッシュをポケットに入れるのは忍びないから手に握っておくなんてシチュエーションに絶対ならないと思う。 人間、普通に生きていれば「エモい」なんて瞬間はこないんだ。 「エモい」と言うのはきっと全てが完璧に整えられた環境があって初めて実現するに違いない。 でも結局完璧なんてないから、人はどこまでも「エモい」を夢見て、それを実現しようとして、結局は陽炎のようにそれを掴むことなんてできないに違いない。 なんか今、すごくそれっぽいことを言っている気がする。 そしたら今度はそんな思想家ちっくになっている私の後ろから、深夜のテンションで馬鹿騒ぎしている大学生らしき連中が通りすがりに窓を開けて爆音のEDMを鳴らしながら「ウェーイ!」とか言いながら過ぎ去って私のこの自分の一人の時間をぶっ壊していった。 は?それの何が面白いの? しばらくしたら爆音は過ぎ去っていったけど、私の怒りが過ぎ去ることはなかった。 今頭の中でそれっぽいことが生まれようとしていたのに、あいつらのしょーもないノリのせいで、一人の人間の大切な時間が奪われました。あーあ、お前らのせいです。 再び巻き上げられた花粉のせいで鼻を噛み、ポイ捨てしたい気持ちをぐっと堪えてまた手で握る。 毎朝ここは多くの子どもたちが通学路として使用する場所なのだから、一大人としてそんな情けないことはしたくない。それにもしかしたら向こう岸のマンションの誰かが私のことを見ているかもしれないんだ、下手なことはできない。 そうしてハッと気づく。今目の前に光るたくさんの灯の数だけみんなまだ起きているんだと。だからこの「一人」の時間も、結局は私の思い込みに過ぎないんだってことも。 私は初めから、「エモい」を否定しながら自分から「エモく」なろうとしていたんだ。 だからハイビームの対向車に目眩しされた時も、悪ノリ大学生に考える邪魔をされた時も、この時間と空間を邪魔されたから怒ってたんじゃなくて、ただ「エモい」世界を自分で作ろうとして邪魔されたから怒っていただけなんじゃないか。 世界はいつだって私のためだけの場所であったことなんてないのに。 でもそれは悲しいことなんだろうか。 私がきている服も、対岸に建つたくさんのアパートやマンションも、さっきの対向車や悪ノリ大学生も、この忌々しい花粉を出し続けるスギも、真上を歩いている川を、考えて時に使う言葉も、全然私以外の人が関わっていて、それは私とは全然面識のない人たちなんだけど、今この瞬間を、今私が歩いているこの世界を作っている人たちなんだ。 私と一緒に、この世界を作っている人たちなんだ。 だから全部私の思い通りになんて行くはずがない。スギも、車も、考えることも、全部全部。 だからやっぱり「エモい」なんて嘘なんだ。それは一人ぼっちの寂しい世界。 そんな世界、手招きされたっていきたくない。 花粉症のティッシュを手の内にいっぱい握って、前からタバコ吸ってるウンチャンが見えるトラックが近づいてきて、アパートのベランダでカップルが大げんかしてるのが心なしか聞こえる気がするけど、どこかそよ風が心地よくて、夜の散歩が楽しい、この時間が私は心から好きだと今なら言える気がする。 エモくなくたっていい、ここは私だけの世界じゃないから。 思い通りになんて行かないだろうけど、だからこそいろんな出会いや偶然があるから。 だから、歌を歌いながら歩いていくんだ、ラタタタタタ〜って。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加