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私は桜が嫌いだ。
だって、あの薄紅色の花弁がひらりと舞うたび、怒りと吐き気が込み上げて我慢ならないのだもの。
あの日、この場所で埋められたあの犬は、私から千秋の心さえも連れて逃げた。私の手の届かない場所を見つめる千秋は、もう昔の神様なんかじゃない。
あれからいくつもの季節が巡って、サクラのいない日々に痩せ衰えた千秋は、私が押さないと動くことすらままならない車椅子に乗って春の風に髪先を揺らす。
──そう……千秋は、私無しではもう生きてはいけないの。
ふわふわとした柔らかい黒髪はそのままなのに、暖かい茶色の瞳、笑うと頬のあたりにできる可愛らしい皺なんて、もう何年も見ていない。
「ねぇ千秋兄ぃ、私、桜が嫌いよ?」
反応はない。
ただそこには、息をするだけの人形が座っている。
「千秋兄ぃもそうだよね?」
焦点の定まらない千秋の瞳から、一筋の雫が伝う。心は取り逃しても、千秋の体は私の手中にある。
──そう、それだけで十分なの。
私はこの上ない微笑みを千秋に向けると、春風のように柔らかく私の唇を千秋の唇に重ねた。
─fin─
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