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「珠子、とにかく、部屋へお行き。いつまで、女学校帰りの格好でいるの。さっさと、着替えなさい。ああ、おやつを、運ばせるから、くれぐれも、お父様の邪魔をしないでおくれね」
勝代の娘かわいさからの猫なで声に、珠子は応じる様、にこりと笑い、
「はい、お義姉様と社長さんのお邪魔はしないわ」
と、楽しげに言い放った。
ヤスヨとキクは、顔を見合わせている。親が親なら子も子だよと、こっそり言って……。
櫻子は、珠子の大人びた、からかいに、目を見張った。
年若い娘である珠子が、冨田との事情を、明け透けに言った事に驚きを隠せなかったが、櫻子よりも、世に通じているという所に、悔しさを感じた。
自分の行く末を、珠子が、全て語ってくれたのが、一番耐えられなかった。
櫻子は、珠子を避けるよう、静かに俯いた。
ここで、櫻子が、なにか言ってしまえば、冨田とのことが、現実になってしまうのではないか。自分が黙っていれば、もしかすると、進められている事は、立ち消え、無かったことになるのではないかと、雲を掴むような希望を抱いていたのもある。が、珠子の、堂々とした、物怖じしない態度と、自分を比べ卑屈になってしまったのもあった。
姉妹であるはずが、何もかも、違っていた。
美人番付に選ばれる妹、かたや、くたびれた前掛けで、嫌悪で染まっ手を、ぬぐっている姉。
羨ましいを越え、憎らしかった。
あなたは、関係ないでしょう!黙っていなさい!
と、ハッキリ言い返せれば、どれほど、すっきりするだろう。
櫻子が、胸の内でしか、感情を表せない、何があっても、胸に秘めるしかないと、珠子は、わかってか、挑発する様な言葉ばかりを選んでくる。
同時に、からかわれているだけ、と、思い込もうとしている自身に、櫻子は、苛立っていた。
(でも……。どうすれば、いいの……。)
子供の頃から染み付いている、言いつけを守るという服従から、逃げるすぺを知らない櫻子には、今、沸き起こっている気持ちを、どう、処理すれば良いのか、分からなかった。
目頭が熱くなるのを感じ、皆に、バレないよう、櫻子は、さらに、俯いた。
冨田に、握られた手は、ぎゅっと、前掛けを掴んでいる。
ふと、親方の言葉が、思い起こされた。
──お嬢さん、何かあったら、お逃げなさい。
親方が、言いたかったのは、この事だったのか……。
ポタリと、大粒の涙が、手の甲へ落ちた。
そんな、苦しさに負けた、櫻子のことなど、勝代も、珠子も、気に止めることなく、
「ヤスヨ!珠子のおやつを用意しておくれ。金成堂の、カステラがあっただろう?お紅茶も忘れるんじゃないよ」
などと、珠子の、おやつを心配していた。
「まあ!金成堂のカステラがあるの!」
珠子は、嬉しそうに勝代を見ている。
本来は、和菓子店である、小店の金成堂が、ほんの気まぐれで、カステラを作って売り出した所、富裕層の間で、大人気となった。
砂糖の代わりに、軽井沢の高原から取り寄せた、蜂蜜を使うというこだわりが、評判になったのだ。
そこへ、東宮様の好物だと、嘘か誠かの噂が流れ、お茶受けには金成堂のカステラと、憧れの菓子になってしまった。
そんな、人気の商品だけに、当然
すぐ、売り切れる。
キクが、早朝から、各御屋敷から遣わされる女中達に、先をこされまいと、麻布にある店へ出向いて買ってくるのだった。
「じゃ、お願いね!」
珠子は、これでもかと、顔をほころばせ、女学生の御印、矢絣の着物の袖を翻し、バタバタと、廊下を駆けて行った。
「まったく、騒がしいこと」
勝代は飽きれながら、我が子の後ろ姿に目をやった。
しかし、小言を言ってはいるが、どこか、朗らかだった。
美人番付の予選に登ったのが、よほど嬉しいのだろう。
「じゃあ、ヤスヨ、頼んだわ」
客間に先に行っていると、勝代は、向かったが、去り際には、お茶を運べと、櫻子へ、命じるのを忘れなかった。
「あー、やれやれ、静かになった」
キクが、息をつく。
ヤスヨも、チッと、大きく舌打ちし、櫻子を見た。
「……櫻子さん、あんたも、災難だね。こりゃ、勝代の仕込み通りって、やつだ。あいつ、冨田の社長と、組んでたんだねぇ」
「ヤスさん!やっぱり、そう思うかい?!」
そう言えば、と、どこか遠い目をして、キクが、語りだした。
勝代が芸者時代、冨田は、贔屓の客だった。置家でも持つかと、パトロンになると言いだしたり……。てっきり、勝代は、冨田の妾になるものだと、皆思っていた。
そこへ、圭助の後妻の話が飛び込んで来る。
そこそこ、顔なじみではあったが、圭助は、ほとんどが、寄り合だのの、何かの集まりの席で勝代を呼ぶ、と、いうよりも、一緒の宴にいる、程度の仲だった。
「いやー、たまげたね、旦那様の後妻話が出た時は。いつの間にって、感じだったよ」
と、キクは、ここぞとはかりに、まくし立てた。
「でね、ここだけの話だよ」
急に真顔になったキクは、声を潜めて、話の続きがあると言い出した。
「……たまたま、聞いちまったんだよ。勝代が、大店なら、どこがいいかって、冨田の社長に尋ねているのを」
「ちょっと、キク。それは、つまり、勝代は、冨田の社長に言われて、ここにやって来たって、こと……なのかい?」
キクの語りに、ヤスヨも、いつになく、慎重になっている。
「あー、そこは、わからないけれど、二人は、何か、怪しいね。あたしさぁ、時々、勝代、いや、奥様から、整髪料の香りが、漂っているのを嗅いだ事があるんだ」
「キク!それって、まさか」
「ヤスさん、そのまさか、だと思うんだ。奥様は、冨田の社長と会っていた」
「……で、屋敷を……ってことなのかい?」
ヤスヨは、言うと、首を傾げる。
「でも、それは、誰が得するんだい?広い屋敷から、口煩い親戚筋が出入りする、本宅へ移るって、どう考えても、ここに、いる方が気楽だろ?」
「だよねぇ。でも、この話、なんかあると、思うんだよ、ヤスさん。だってさぁ、櫻子さんの事、冨田の社長の中では、出来上がってただろ?」
これ!と、ヤスヨは、キクを叱りつけ、キクは、あっと、声をあげて、肩をすくめた。
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