2168人が本棚に入れています
本棚に追加
「ああ、櫻子さん、気にしないでおくれ。キクの適当な話だから」
「そうそう!あたしが、勝手に喋ってるだけだから!」
だだの、よもやま話だと、言い訳するヤスヨとキクのお陰で、櫻子の戸惑っていた頭の中は整理された。
義母、勝代は、冨田の社長と繋がっていて、屋敷を手放すことを、二人して企てた。そして、もっとも、見たくない櫻子のことも、冨田へ押し付けた。
それが、真相なのだろう。父、圭助は、勝代の言いなりだ。借金を精算する為にとでも言えば、同意するはず。
勝代が、珠子に言っていた様に、商売を広げるつもりでいるのかもしれない。そこに、借金があっては、新たな資金繰りに支障をきたすだろう。
商い事の為に、屋敷を手放し、そして、皆で、本宅へ移る。
ならば……。
どうして、櫻子だけ、冨田の世話にならなければならないのだろうか。
答えはわかっている。しかし、それだけは認めたくないと、櫻子の思考は、堂々巡りから抜け出せない。
そこへ、圭助の、抗い声が響いた
。
お勝手の外で、男達は、何か話し込んでいたようなのだが、冨田の機嫌を取り続けていたはずの、圭助が、食ってかかっていた。
「屋敷を取り壊すとは、どういうことです!」
「柳原さん。こちらが、どうしようと、あなたには、関係ないことでしょう?これだけの敷地ですよ。分割して、家を建てれば、倍儲かる。違いますかね?そもそも、広すぎるんだ。これじゃ、商家にもならない。かといって、単純に住むには、とにかく広すぎる」
広いがゆえに、使い勝手の悪い屋敷となっている。このままの仕様では、買い手も見つからないだろう。と、富田は、淡々と述べていた。
「親方、植木をなんとかしてくれないかい?更地にするにも、これだけ造りこんだ庭があっちゃー、とにかく、邪魔だ」
「植わっている物、全て、ということですかい?」
親方は、困惑気味に問うている。
外から聞こえて来た話に、ヤスヨもキクも、そして、櫻子も、黙りこくってしまった。
皆、屋敷は残ると、思い込んでいた。冨田が、別宅として維持していくか、誰かに、転売して、住み主が変わるだけと思っていた。
そこへ、取り壊す。更地にする。と……。
冨田は、土地として、転売するつもりなのだ。
「やだ、それじゃあ、ますます、行き場所がないじゃないか」
キクが、顔を曇らせる。
ヤスヨも、黙ったままだった。
櫻子はというと、父の剣幕に、少しばかり、期待を寄せていた。
父、圭助も、思い入れのある屋敷を残しておきたいと思っている。だから、荒れているのだろう。
もしかしたら、この勢いで、話は立ち消えになるかもしれない。
櫻子のことも……。
「ちょいと!!!」
今度は、表方から、勝代の声が、響いて来た。
「ヤスさん、ありゃー、珠子さんの、おやつの催促だよ!」
「あー、なんだい、どこもかしこも、騒がしい!キク、水屋から、カステラ出しな」
ヤスヨもキクも、さっと、女中の顔に戻った。
「櫻子さん、お紅茶入れておくれ」
ヤスヨは、お勝手の外から聞こえ続けている、圭助と冨田の言い争いなど、おかまいなしで、テキパキと指示をだした。
「ヤスさん、あの調子だ、酒の用意は、いらないだろう?」
水屋からカステラを取り出しながら、キクは、次の仕事の指示を待つ。
「そうだね。冨田の社長は、このまま帰っちまうかもしれないしねぇ。居残ったとしても、社長の事だ、料理だけ口にして帰るだろう」
酒は言いつけられた時でいいだろうと、ヤスヨは言うと、食器を仕舞ってある戸棚から、小さなブリキ缶を取り度して、櫻子を呼んだ。
「あたしらは、お紅茶なんてもの、入れられないから、頼むよ」
珠子が嗜む、紅茶の茶葉が入った缶をヤスヨが櫻子へ、手渡そうとした、その時、
「ちょいと!!!あんた!!!何、勝手にあがりこんでるんだいっ!!!」
誰かを怒鳴りつける、勝代の声がした。
続いて、
「な、なにするんだい!!!は、離しな!離せっ!!なんだいっっ!!!人を呼ぶよっ!!!」
と、焦りきる、勝代の悲鳴に近い声が続いた。
「ヤスさん!表側、おかしいよ!」
「わかってる!」
ただ事ではない、何かが、表側で起こっている。
ヤスヨは、顔をひきつらせ、茶葉が入った缶を持ったまま、土間に降りると、お勝手へ駆け寄った。
「旦那様!!!表へ、玄関の方へ回ってくださいまし!奥様が、誰かと揉めているようです!」
圭助と冨田が、ヤスヨを見た。
「なんだね、勝代かい?あいつのことだ、押し売りでも、おいはらってんじゃないのか?」
くくく、と、富田は肩を揺らして、笑っていたが、次の瞬間、その動きが止まった。
「や、やめておくれーーーー!!」
ぎゃーと、大きな悲鳴があがった。
「……だ、誰か!!!」
ひぃと、息も絶え絶えで、勝代が、助けを求めている。
「こりゃあ、いけねぇ!」
親方が、走る。
その勢いに、圭助も、はっとして、後を追った。
「い、いったい、な、なんだ!」
冨田は、しどろもどろで、立ちすくんでいる。
「社長さん!あんたも、助っ人でお行きなさいよ!」
「ワシがか!」
何が起こっているのか、わからないのにと、冨田は、表側、玄関へ回るのを渋った。
「ちょっと待ってください!支払い期限は、明日のはずでしょ!乱暴はよしてください!」
圭助が、叫んでいる。
「おや、なんだ、取立てが来たのか。社長さん、早く行かないと、先に屋敷を取られますよ」
玄関から聞こえて来た、圭助の声から、ヤスヨは、察したようで、冨田を煽る。
「なっ!!こりゃ、いかん!」
冨田も、事情が読めたようで、顔をひきつらせながら、慌てて、玄関へ向かった。
「はあ、なにが、なんだか。それにしても、表から、ここまで、聞こえるって、どんだけ、声を張り上げてんだい」
キクが、拍子抜けしたとばかりに、呟いた。
「……キク、呑気な事言ってる場合かい。あの様子。ただの、取立てじゃないよ」
台所へ戻って来たヤスヨは、言うと、櫻子へ、ブリキ缶を手渡し、
「ああ、もう一人、騒がしいのがいますからねぇ。お願いしますよ」
と、紅茶をいれるよう命じた。
最初のコメントを投稿しよう!