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その頃……。
「お、おい、ちょっ、ちょっと、待ってくれ!マサ!」
「何、言ってるんです!龍の兄貴!築地は、もう、そこですぜっ!」
「わ、わかってるけどなあっ!」
龍は、もう限界だと、ふうふう息を切らしていた。
その先には、ヤスヨから受け取った櫻子の弁当包みを握る、龍が連れてきた若い衆──マサが、いる。
八代から、櫻子の通う女学校を教わり、二人して、弁当を届けているのだ。
「おめぇ、本当に走るのが早いなぁ……」
龍がごちた。
しかし、人足姿の若い男と、頬に傷のある、渡世人風の男の掛け合いは、往来の通行人の好奇の目を引くようで、絡まれてはと思ってか、皆、ちらりと目をやり、足早に通り過ぎて行く。
そんな周囲の様子に気がついた龍は、息を切らしながらも、マサへ近づくと、拳を降りおろした。
「龍の兄貴!何すんですかっ!」
マサが、龍に頭を殴られ文句を言った。
「あのなぁ、マサよ。往来走りながら、金原商店の奥様の一大事だなんだと、叫ぶのはよせっ!」
「ったって、弁当冷めちまうでしょうが!」
「……マサ。弁当は、冷めても、いや、むしろ、冷ますもんなんだ……」
マサの言葉にこりゃあ、駄目だと龍は、肩をすくめる。
「……というか、とにかくだ、往来で、叫ぶってことは、櫻子ちゃんの迷惑になるんだよっ!」
「へっ?!そりゃー、余計一大事じゃねぇですか!それに、立ち話なんぞしていたら、昼に間に合わなくなりますぜ!」
マサが駆け出そうとする。
「だからっ!昼までは、まだ時間あるだろっ!お天道様を見てみろよ!まだ、てっぺんに昇ってねぇだろうよ!」
何を言っても、どこかおかしな事を言うマサに、龍も、苛つき怒鳴りつけようとしたところ……。
「どうした、龍?」
と、聞き覚えのある声がした。
虎が引く人力車に、金原が乗っていた。
「おお!社長!ちょうどよかった!」
櫻子を送った金原と、偶然、かち合ったようで、怪訝な顔で、人力車から、龍とマサのやり取りを見ていた。
「……何を騒いでいる」
「これは!金原の社長さん!かくかくしかじかでっ!一大事なんですよ!」
マサも、金原に気がついたようで、ここぞとばかりに捲し立てた。
「……何を言ってるのか、さっぱりなんだが、龍、結局、なんなんだ?!」
一大事、一大事と、騒ぐマサを押さえつけながら、龍は、金原へ、事情を説明した。
「なっ!?何!!一大事じゃないかっ!!龍!!何故、早く言わない!」
人力車から、身を乗り出して、金原は興奮しきり、弁当を寄越せと、怒鳴り散らした。
マサが差し出す弁当を半ば奪うように受け取った金原は、虎へ、急げと言いつける。
虎も、合点!と、勢い付いて、ぐるりと廻って、人力車の方向を変えると、そのまま、全速力で駆け出した。
「はあ、虎のやつ、すげぇ、勢いだなぁ。まあ、俺らが行くよりも、社長の方が、櫻子ちゃんも喜ぶか」
これまた、一大事だ、どいてくれ!と叫びながら走り去っていく一行を、龍は、笑いながら見送っている。
「龍の兄貴?」
マサが、不思議そうに龍を伺った。
「いや、マサ、だからなぁ、わかんねぇかぁ?俺達の出番じゃねぇだろ?!」
「え?わかんねぇーなぁ。俺、必死で走ったんですよ?」
「いや、だから……まあ、それは、帰りながら話すとして。ほれ、行くぞ!」
来た道を戻る龍の後を、マサは、わかんねぇー、わかんねぇーと、呟きながら追って行った。
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