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「あ、あの、ヤスヨさん」
ブリキ缶を受け取った櫻子は、恐る恐る、口を開いた。
勝代の悲鳴が、まだ、続いている。そして、誰かが、投げ飛ばされたのか、玄関のガラス戸が、ガタガタ鳴った。
これは、何なのか。この状態で、ヤスヨとキクは、どうして平然としておられるのか。
困惑している、櫻子へ、ヤスヨが言った。
「何か騒動が、起こってんですよ?そんな所へ、ひょっこり顔を出したりしたら、こっちまで、怪我しちまう。こうゆう時は、隠れているのが、一番なんですよ、櫻子さん」
ヤスヨの言葉には説得力というべきものがあったが、やはり、櫻子は、落ち着かない。
助けを呼ぶ勝代の声が、だんだん、悲痛なものになって来ている。
「ここは、ワシのものじゃ!」
冨田の叫びまで、聞こえた。
「……ワシのものじゃって……」
キクが、カステラ片手に、笑いをこらえている。
「あー、キク、落とすんじゃないよ」
ハイハイと、答えながら、キクは、土間へ降りると、カステラを切り分け始めた。
表の騒ぎとは、裏腹に、ヤスヨもキクも、落ちつき払って、作業に徹していた。
「あ、あの、やっぱり、様子を見に行った方が……」
櫻子が呟いたとたん、
「きゃあーー!お母様!」
珠子の悲鳴が聞こえた。
ヤスヨが、チッと舌打ちし、キクも、作業を止めると慌てて、板土間に上がろうとする。
勢い、切り分けていた、カステラが、まな板から転げ落ち、キクは、ぐしゃりと踏みつけた。
しかし、ヤスヨもキクも、そんなことはおかまいなしで、血相を変えて表側、玄関へ向かった。
「櫻子さん!来るんじゃないよ!あんたは、そこにいなっ!」
櫻子は、ヤスヨの勢いに押され、頷いた。
「まったく!なにもできやしないもんが、しゃしゃり出て!!じっとしておれないのかぃ!」
キクが言い捨てた愚痴りが、足音と共に流れる。
櫻子は、ただ、呆然としていた。
訳がわからないなりにも、誰かが、借金の取立てに来て、暴れているのではと、感じとっていたが、立て続けに流れてくる悲鳴が恐ろしくて、ブリキ缶を持ったまま、立っていることしかできなかった。
「櫻子さん!」
バタバタと大きな足音をたてて、転がりそうになりながら、キクが、戻ってきた。
「に、逃げな!!」
ふうふう息を切らしながら、キクは、櫻子へ、切羽詰まった面持ちで言い放つ。
「キクさん?」
「あ、あいつ、この家の娘を出せって、ありゃ、本気だ!」
「え、でも、私、どこへ……」
「納屋にでも隠れるか、いや、いっそ、裏木戸から外へ逃げるか。いや、外に仲間がいるかもしれない!」
ああ、と、呻くキクの姿に、櫻子も、自分は逃げなければならないのだと、焦るが、いったい、どうして。
「キクさん、何があったんですか?」
「姐さん、教えてやんなよ」
櫻子の質問に、男の声が答えた。
入り口に、渋色の着流し姿の大柄な男が立っている。
左頬に、傷があった。
櫻子は、息を飲む。同時に、キクも、ひい、と、声をあげてその場に、転がった。
「ありゃ、腰がぬけたか?」
ハハハと、男はキクの姿に大笑いしている。
「あ、あなた、さっきの……」
櫻子の震え声に、男は、すぐに笑いを止めた。
「ほぉ、覚えてくれてたかい……」
男は、櫻子が、外で掃き掃除をしていた時に、声をかけてきた、えたいのしれない者だった。頬の傷が、櫻子の記憶に、しっかり残っていた。
「娘は、関係ない!返済期日は、明日じゃないかっ!」
「柳原さん、明日だなんだ、いってますがねぇ、明日ならば、今日、準備できているんじゃないんですかい?」
乱入してきた男を追ってやって来た緊張からか、恐怖からか、すっかり人相が変わってしまった圭助は、すがるように、男を見ていたが、たちまち、言葉に詰まり、黙りこむ。
「ったく、さっきから、何度同じことを言わなきゃいけねぇんだ!借りたもの返せと、言うのがいけねえんですかい!」
腹立たしそうに言う男に、手首を摩りながらやってきた、勝代が、
「冨田の社長!なんとか、してくださいよ!」
と、鼻息荒く言って、振り返る。
顔を真っ赤にした、憤る冨田がいた。
「あんた!ここは、ワシが、買い取ることになってんだ!さっきっから、何度言わせれば!!」
「もう、やだ!!」
ヤスヨに付き添われている珠子が、叫んだ。
「ヤスヨ!珠子を部屋へ連れてお行き!」
勝代が叫ぶ。
廊下には、乗り込んで来た男を玄関から追ってきた者達の怒号が渦巻いている。
叫び声がぶつかり合い、騒がしいを越えていた。
「おい、部屋へ連れて行くなんざ、冗談じゃねぇぜ」
男が、珠子の方を見たとたん、圭助が、わあっと声をあげながら男の胸元に掴みかかる。
が、即、その細い手首は掴まれて、圭助は投げ飛ばされた。
ドスンと廊下へ転がり込む圭助へ、思わず櫻子は叫んだ。
「お父様!」
すると、男は、目を細め櫻子をじっと見る。
「へえ、女中じゃなかったのか。こりゃー、おもしれぇ。こっちで、手を打つか!」
「ちょっと、待った!ここのものは、ワシのものだぞ!!その娘も、そうだ!」
冨田が、更に憤りながら、言う。
「へぇ、借金の形か。それじゃ、ますます、話は早い」
言うが早いか、男は、台所へ踏み込んで、櫻子の手首を掴んだ。
「さあ、一緒に来てもらおう。あんた、親に売られたんだ。恨むなら親を恨みな」
いきなり、男から浴びせかけられた言葉に、櫻子は、固まりきった。
売られたとは、どうゆうことなのだろう。
いや、冨田へ、差し出されるはずではなかったのか?だが、それも、結局は……同じことでは……。
「や、柳原さん!これは、いったい!ワシの立場はどうなる!明日が返済期日だと?!いったい、全体、どうゆことだ!」
騙したのかと、今度は、冨田が荒れ始めた。
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