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「旦那、人聞きの悪いこと言わないでくれますかぃ?」
男は、冨田の言葉に、立ち止まった。引きずられる様、後ろに続いていた櫻子は、男が立ち止まった為に、前のめりになって、たたらを踏んだ。
そんな、櫻子のことなど気に止める風でもなく、男は、冨田含め、皆をジロリと睨み付け、「誤解してもらっちゃー困るぜ」と、啖呵を切った。
「借りた金が返せねぇなら、形を取るのが、世の常。あんたらだって、逆の立場なら、大きな顔して、取り立てるだろうがっ!」
もっともと言えばもっともな言い分を、男は怒鳴り散らす。
その勢いに、皆は、ますます、小さくなった。
迫力に負けたのか、真を突いた言葉に負けたのか、冨田は、口惜しそうに、櫻子を見た。
そして、まだ、男へ食ってかかった。
「だ、だがな、あんた!この娘は、ワシの方が先だぞ!」
「手付金、ですかい?全く、呆れた話だ」
し、しかしと、粘る冨田など目もくれず、男は追い討ちをかけるよう、圭助へ、言う。
「柳原さん、借金の形は、この娘さんで、うちは、かまいませんよ」
声をかけられた圭助は、ひっ、と、小さく叫びながら、同時に、何か、言いたげに顔をあげた。
「……な、なんなの…これ」
珠子が、震えながら、ポツリと言う。
瞬間、男に、じろりと睨まれ珠子は、すぐに大人しくなった。そして、側に付き添っているヤスヨに、ぐいっと、手を引かれ、そのまま奥へ、珠子の部屋へと連れていかれた。
「……だから、何もできないもんは、しゃしゃり出てくるなって……」
去った二人に、キクが、ボソリと言う。
が、今度は、キクが男に睨まれ、敵意はないとばかりに、ふるふると、キクは首を振った。
「全く、冗談じゃない。柳原さん、あんた、娘を使って、こちらの旦那の気を引こうと?それで、屋敷の売値に色を付けたところで、うちで、こさえた借金なんぞ、返せないでしょうに。それを、今日一日で、屋敷と娘だけで、どう、手を打つつもりだったんです?」
「そ、それは、ひとまず、屋敷を手放せば……」
圭助は、悲壮な声を喉から絞り出す。
「うちが、取り立てに来た時は、屋敷を手放したのなんだのと言って、こちらの旦那に、後始末をふるつもりだったんでしょう?」
男は、呆れたように、圭助を見た。一方、冨田は、大きく目を見開き、圭助へ怒りをぶつけた。
「柳原さん!あんた!ワシに、金原商店の相手をさせるつもりだったのかっ!!冗談じゃないっ!あんな、非情な高利貸し、あんな、鬼がいる所になんぞ、関われるもんかっ!!知らんぞ!!ワシは、手を引かせてもらう!!」
人を馬鹿にしてと、怒鳴り散らしながら、冨田は、男も櫻子のことも、目に入らぬかのようで、ドスドス大きく足音を立てながら、玄関の戸口へ向かって行った。
「なんてことだ!やってられるかっ!」
脱ぎ捨てていた、雪駄を履きながら、捨て台詞のような悪態をついた冨田が、外を見て叫ぶ。
「な、なんと!タクシーじゃないか!取り立てた金で、こんなもの使いやがって!」
冨田は、肩を怒らせ、乗って来た人力に、忌々しげに乗り込むと、逃げるように帰っていった。
「と、冨田社長!」
圭助が、引き止めようと、必死に叫ぶ。
「全く、騒がしい旦那衆だねぇ。さっ、行くぜ。タクシーの運転手を待たせてもいけねぇからな」
と、男は、再び、櫻子を引きずるように、玄関へ向け歩みだした。
──大正元年、数寄屋橋にタクシーというものが登場して余年。それは徐々に広がりつつあった。が、まだまだ、車自体が珍しいご時世。タクシーは、当然高額な乗り物だった。
そんなものに、乗ってくるとは、この男は、金原商店とは、いったい、どれ程の商いを行っているのだろう。
驚きのあまり、またもや、櫻子は、男のなすがままになってしまっていた。
大人しくついて行く、櫻子へ、身内は誰一人声をかけることもない。もちろん、男を止める事もない。
だが……。
「お嬢さん!」
唯一、櫻子へ声をかけてくれる人がいた。
腰をさすりながら、恐らく、男ともみ合って、打ち付けたのだろう。顔を引きつらせた、親方が櫻子を、戸口の脇で見つめている。
「おっと、もう、邪魔はさせないぜ。こっちも急いでいるんだ」
男は親方を封じ込めるように言うと、やおら、振り返り、
「じゃ、柳原さん!借金の形に、娘さんを連れていくよ。恨まれちゃこちらも、たまらねぇからねぇ、屋敷は、そちらのものだ。そして、この娘さんは、うちの社長の、嫁にする。どうだい?あんたは、残りの利息だけを払えばいい。かなりの好条件だろ?」
うすら笑みを浮かべて、男は、長口上よろしく、圭助へ言った。
「なんだって!お嬢さんを、嫁に?!借金の形に?!」
どんな裏があるのかと、親方が、食ってかかるが、すぐさま、勝代が、合いの手のごとく、今度は、作り笑いすら浮かべて、
「まあー、そうゆうことでしたか。なんですかこちらは、大きな勘違いをしてましたよ。金原さんの所なら、櫻子さんも、安泰ですわねぇ」
そして、変わらず床に転がりこんでいる、圭助へ視線を移し、
「そうでしょ?旦那様?」
と、冷たく言い放った。
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