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形がわりの花嫁
勝代に問われた圭助は、宙を見て、ああ、と、気のない返事をした。
「それじゃあ、話はついたで、よろしいですね?柳原さん。こっちは、車を待たせてる。急ぎますんで、細かなことは、また日を改めて」
本当に、男は急いでいるようで、まくし立てる様に言葉を発すると、草履を履いて、さっさと玄関を出ようとする。
「あっ……」
引きずられていた、櫻子は、玄関框から、勢い落ちそうになり、初めて、裸足だと気がついた。
なんとか、転ばず降りた先、踏みしめる敷石の感触がひんやりする。
「……げ、下駄」
何を言っているのだろうと、櫻子は思った。
履き物が無い事より、もっと、言わなければならない事があるはずなのに。口が、勝手に動いていた。
皆、それぞれ勝手な事を口走っているが、結局、何のために、どこへ、そして、どうなるのか、さっぱり、わからないのに。
この状態を、止めてくれるはずの父、圭助まで、櫻子を見捨てている。そこが、なによりも、受け入れがたい事であり、櫻子には、一番、わからない事、でもあった。
「そうか、あんたの履き物は、表にはないのか……しかたねぇ、ほれ、あそこの車まで、辛抱しな」
門の外に、確かに車が停まっている。
ここ目黒の地は、元は武家屋敷が建ち並んでいた場所。その流れから、今では、瀟洒な屋敷が集まる一等地になっている。
住人は、当然、上流階級の者達で、中には、自家用車を持っている屋敷もあった。
そんな環境の為に、ちょっとした裏方の買い物に出かける道々、車、という物とすれ違う事は、櫻子にもあった。ただ、それに乗ることになろうとは、そして、自分の屋敷から連れていかれる足に、車が使われるなど、思ってもいなかった。
たちまち、櫻子の気は動転し、もはや、男の言いなりで、裸足だからということも、飛び去りかけている。
「ふぉーど、とかいう西洋の会社が作ったもんだとよ。あんな箱みたいな乗り物が、人を乗せて道を走るとはなぁ」
男も、車に、慣れてないようで、呑気に感心している。
「さあ、乗った乗った」
ぐっと、櫻子は引っ張られ、その体は、男の前へ押し出された。
玄関を出て、前庭の飛び石の上に立っている。これを、あと二つ踏み越えれば、もう、門を出てしまう。
櫻子達を迎えようと、運転手が扉を開けて、車の脇に待機していた。
ぱっくり口を開け、車は、櫻子を飲み込混もうとしているように見えた。そして、飲み込まれたら、乗ってしまえば、櫻子は連れていかれる。
柳原の家が作った借金の形として……。
ガタガタと、櫻子の足が小刻みに震えた。膝が笑う、とは、このことなのか。決して、笑えない話なのに。先の見えない恐怖に震えながらも、櫻子は、そんな、悠長なことを思う。
同時に、人生とは、あっけなく他人の力によって、ねじ伏せられてしまうのだと、痛感していた。
「あー、車は、別に恐ろしいもんじゃねえよ。安心しな」
震える櫻子を見てか、男は見当違いのことを言い、その小さな背をそっと押した。
気がつけば、門の所まで来ている。これを、越えれば、もう……。
「お嬢さん!」
親方が、必死の形相で駆け寄って来た。
そのしわがれた声に、櫻子は、瞬間、我を取り戻す。
「お、親方!た、助けて!だ、誰か!」
叫ばなければならない言葉を思い出したかのように、櫻子は、喉を振り絞り、親方へ向けて手を伸ばした。
親方も、櫻子へ答えるよう、連れ戻そうと手を伸ばす。荒れた細い指先と、節くれだった指先が、触れあったとたん、男が間に入って来た。
「邪魔しないでくれねぇかい?」
射るような視線を親方へ向けると、男は、櫻子の体を包み込むように、華奢な肩を掴み、
「……どうだい、皆、はしゃいでいるぜ、あんたも、大人しくしな」
と、顎をしゃくって、開け放たれた玄関を示した。
言うように、勝代の声が流れている。
さあ、祝いだ、と。
珠子が、番付の予選二位になったのだ。膳があるからちょうど良い、と。
たちまち、親方は、崩れ混み地面に膝をつき、涙した。少しあせた半纏の袖で、肩を怒らせながら、涙をぬぐっている。
櫻子も、すすり泣いた。
涙は、ほとばしるばりだった。
「ああ、まったく、なんてこった」
誰に言うわけでもなく、男は呟くき、車へ乗るよう櫻子を促した。
「あー、俺が泣かしたんじゃないぜ」
と、男は、ドアの脇に立つ運転手へ向かって、ごちた。
運転手は、渋い顔をしつつも、櫻子と男が、乗り込むのを待っている。
さあ、という掛け声と共に、再び、櫻子の背が、そっと押された。
もう、後はない、先もないんだと、流れる涙に教えられたかのように、よろよろと、櫻子は、なされるまま、車に乗り込んだ。
「まあ、心配すんなって、悪いようにはしないから」
なっ?と、男が、何か確かめるよう、櫻子へ声をかけながら、乗り込んで来る。
その計ったような、猫なで声に、櫻子は、冨田の言葉を思い出していた。
──女衒の常套句か──
もう、諦めなくてはならないのだろうか。
そうすることしか、出来ない自分が無性に情けなくなり、さらに体を振るわせ、泣きじゃくる。
そんな、櫻子の様子など、知らぬ存ぜぬで、車のドアはバタンと閉められ、運転手は、定められた位置へ戻った。
それを見て、男は、行ってくれと、淡々と言う。
ブルブルと、耳障りなエンジンの音がする。
聞こえるものは、どこか、勝代の高笑いに似ていた。
櫻子は、沸き起こってきた悔しさとも、憎悪とも言えない、手に余る感情から逃げようと、傷んだ前掛けを、ぎゅっと握りしめる。
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