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車は、のろのろ進んでいる。
物珍しさから、囃し立てる子供たちの声、物売りの掛け声、人々が行き交う雑踏の音が、車内に流れ込んで来る。そんな、様々な外の賑やかな気配にも、櫻子は手放しで喜ぶことはできなかった。
じっと、うつむき座る櫻子に反して、隣に座る男は、時折、珍しそうに、窓から外を覗いていた。
そして、車の速度が上がる。
「あぁ、やっと、郊外へ出たか」
街中は、車道はあるが、路面電車に、人力車に、はたまた、道を横切る人々にと、気の抜けない状態で、運転もままならない。自然、速度は遅くなる。
そんな、分かりきった事を、嗚咽で肩を揺らしている櫻子へ、男は、くどくど説明してくれた。
「まあ、その、なんだ……」
なかなか、泣き止まない櫻子の機嫌をとるごとで、男は喋っていたようだが、言葉が無くなったのか、気まずそうに黙ると、今度は懐をまさぐり、何かを取り出した。
「好きかどうかわかんねぇけど、食べなよ」
ポンと、櫻子の膝に投げ落とされたのは、小さな紙箱だった。
「……キャラメル……」
呟く櫻子に、男は、大袈裟に喜んだ。
「おお、そうさ。ちょっと前まで、キャラメルっていやー、バラ売りだったろう?それが、いつの間にか、箱売りになっていやがった。一粒5厘だったのが、20粒入りで10 銭だとよ。いや、たまげたねぇ」
あぁ、時代は変わるもんだと、男は、感心している。
「なあ、食べようぜ。まだ、ちいとばかし、乗ってなきゃいけねぇからなぁ」
物欲しそうに、男は言う。
「……キャラメル……お好きなんですか?」
たどたどしく答える櫻子へ、男は、さも嬉しげにキャラメル入りの紙箱を手に取ると、一粒取り戻し、口へ放り込んだ。
「おおー、染みるねぇ。甘さがたまんねえや」
大袈裟に唸り、男は、櫻子へキャラメルの紙箱を渡した。
「あんたの分だ。何が、いいかわからなかったもんだから、キャラメルにしたんだけどよぉ、気に入らなかったかい?」
男が、喋るたび、キャラメルの甘い香りが、車内にふんわり漂う。
得たいの知れない男に連れていかれているのだと、分かっていても、つい、顔がほころんでしまう香りだった。
「……気は、落ち着いたかい?」
男が、優しく櫻子へ声をかけた。
気遣ってくれている。と、櫻子にも十分に分かる柔らか口調は、心からの物であると、なぜか、素直に思えた。
甘い香りのせいなのか?
いや……。
柳原の屋敷で見せた、面持ちと、今の男の物は、まるで違っているからだ。それは、キャラメルの甘さにとろけきっているかのように、柔かなものだった。
「……お好きなんですね……甘いもの」
「あ?いや、まあ、なんつーか、久しぶりに、口にしたら、旨かった!」
ははは、と、笑いながら、男は顔いっぱに笑顔を広げる。
「おお、そうだ、俺は、龍。清、じゃなかった、社長の鞄持ちってとこだ。よろしくな、奥様」
「……奥様……」
男は、にこりと笑い、やはり、さっきとは、別人のように、櫻子へ接してくる。
「まあ、屋敷では、怖がらせちまって、申し訳ない。この通りだ」
櫻子へ、男は、いきなり、頭を下げた。
何がなんだか、わからなかった。
取り立てに来た男は、凄みを効かせていたはずなのに、龍、と名乗り、頭を下げている。ついでに、キャラメルまで、持ち出してきて……。
そして、櫻子のことを、奥様と呼んだ。
「あ、あの!!私、本当に、お嫁に行くのですか!」
瞬間、冨田の顔が浮かんだ櫻子は、思わず叫んでいた。
嫁入りするなら、色々と段取りや、準備がある。
それこそ、嫁入り道具を揃えなければならないのに、櫻子は、手首を捕まれ引っ張ってこられた。おまけに、裸足。
どう考えても、嫁入り、つまり、結婚とは程遠い状態なのに、龍という男は、なんの迷いもなく、奥様と読んだ。
と、いうことは。
嫁入りだ、結婚だと、うまいことを言って、実は、冨田同様、櫻子を妾にしようとしているのではないだろうか。
何しろ、この龍という男も、冨田と、櫻子を取りあったのだ。
もしかして……。
このまま、この男、龍の妾にされてしまうのでは……。
いや、金原商店の社長、清の、とか口走っていた。
でも……。
社長と名のる程なら、すでに、結婚ぐらいしているはずだ。
では……。
やはり、妾、なのか。
忘れてはならない。物腰柔らかに、さらに、頭まで下げているが、この龍という男は、取り立てに来た人間。取り立て屋なのだ。柳原の屋敷でもそうだったが、何事にも、物怖じすることなく、まくし立てていた。
優しく笑っているからと、彼の言うことを、鵜のみにしていいのだろうか。
櫻子は、混乱しつくしていた。
そんな、異変を読み取ったのか、龍は、頭をあげると、ふっと、小さなため息を吐き、
「まあなぁ、取り立てに来た、ましてや、こんな、頬に傷がある男があれこれ言っても、不安になるだけだよなぁ」
と、寂しげに目を細める。
「だが、経緯は、おかしな事になっているけど、安心してくれ、信じてくれ」
櫻子は、黙りこむ。
いくら、信じろと言われても、これは、余りにもおかしい。
「あー、やっぱり、無理か。だよなぁ。あんな、手荒な事しでかして、信じろも何も……」
はあーと、今度は大きなため息をついた。
たちまち、キャラメルの甘い香りが流れ出る。
場違いとも言える香りに、櫻子は、目眩を覚えた。
今更、何が正義かなどはどうでもよい。自分はどうなるのか、それだけが知りたかった。
「おっ、見えて来た」
その一声と共に、車が、減速した。
どうやら、目的地に到着したようだ。
「ん?食べねえなら、俺が貰っとくよ。久しぶりに口にしたら、旨いな、キャラメルって……」
そんな、どうでもいいことを真顔で言って、龍という男はカラカラ笑った。
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