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「とにかく、降りろ。話にならん」
金原と名乗った青年は、龍の、からかいめいた言葉に肩を怒らせながら櫻子の手を取った。
「あれ、人前で、手繋ぎですかい。いやいや、お熱いことで」
「うるさいぞ」
碧い瞳は、櫻子を通り越し、軽口をたたく龍を睨み付ける。
「あ、あの……、お、降りますから、手を……」
恐る恐る、櫻子は口を挟む。
龍の言う通り、手を握られ、恥ずかしかった事もある。しかし、それは、自分が、とろとろしているからだ、ということも、理解出来ていた。
金原商店の社長だろう青年は、櫻子の動きが鈍いと業を煮やして、手を握り、車から降ろそうとしているのだ。
ここは、早く降りなければ。そうでなくても、先ほどから、怒鳴ってばかりいる。機嫌は、かなり悪い。
案の定、金原は、その端正な顔を歪め、不機嫌そうに櫻子を見ると、手を離した。
が。
すぐに、体を車内へ乗り入れて来て、櫻子をすくうように、持ち上げた。
「頭を下げろ。ぶつけるぞ」
冷たく言うと、その華奢な腕は、櫻子を軽々抱き上げ、まるで、車内から鞄か何か、荷物を取り出すかの様に、淡々と櫻子を運び出す。
「え、えっと……」
ドアを開けていた、運転手が、口ごもっている。
「いや、こりゃ、目の毒だ。おんぶに、抱っこときたもんだ。なあ、運転手の兄さんよ」
龍に言われ、運転手は、へっ、と裏返った声をあげ、櫻子達から、さっと目を反らす。
「あ、あ、あの」
抱き上げられた櫻子は、降ろしてくれと言いたかったが、恥ずかしさから、口が上手く回らなかった。
「騒ぐな、動くな、持ち上げにくくなる。俺の首に腕を回して掴まっておけ」
と、言われても、櫻子は、気が動転し、何もできない。
身を固めたまま、金原の腕の中に収まっているのが精一杯で、これは、何なのか、何の為に、若い男に体を委ねているのかと、顔は火照り、胸はドキドキ高鳴っている。
「だから!もっと、俺の体に身を寄せろ!このままだと、お前を落としてしまうだろうがっ!」
一方の、金原は、抱き上げ難いと、文句を言った。
「あー、運転手さんよ、俺は、おんぶで、いいや。男通しで、抱っこは、ないだろ?」
龍が、運転手をからかっている。
「うるさいぞ、龍、さっさと、降りて、玄関開けろ!」
まったく、あいつは、と、金原が、息をつく。
瞬間、吐かれた息が、ふわりと、櫻子の額に降りかかった。
「ひっ」
「だから、掴まれと言っているだらう。分からんのか!」
体が揺れて、落ちそうになったと、勘違いしてか、金原は不機嫌に叫ぶ。
「なんで、裸足なんだ。それで屋敷に上がりこまれたら、内が汚れる」
「……すみません」
愚痴る金原へ、櫻子は、呟いていた。
謝っておけば、何事も丸くおさまる。柳原の家で、自然と身に付いた櫻子の癖だった。
と──。
ぐらりと揺れた。
「体を離すな!」
櫻子が、金原の胸元で、ペコリと頭を下げた為に、抱き上げている側の金原は、バランスを崩して
前へ倒れかかったのだ。
きゃっ、と、声をあげて、櫻子は、とっさに、金原へしがみつく。
なんとか、堪えた金原は、
「それでいい」
と、ひとこと言うと、櫻子を抱き上げたまま、すたすたと、玄関へ向かった。
見かけの華奢な姿とは裏腹に、櫻子を軽々と抱き上げ歩む金原の姿に、男の力、というものを感じつつも、何故か、櫻子は落ち着いた。
若い男と、二人きりになったこともなく、ましてや、その腕に抱かれ、胸にしがみついている状態であるにも関わらず……。
これは、そうしろと、言われたから、体を寄せているのだ。落ちたくないからなのだ。
確かに、そうなのだけれど。
初めて感じる感覚の、不思議な気持ちが、櫻子の中に沸き起こっていた。
これは、なんなのだろう。
何が起こっているのだろう。
そうだ。金原が、言っていたではないか。裸足で、上がり込まれると、屋敷の内が汚れてしまうと。
確かに、櫻子の足の裏は汚れているだろう。いくらか、地面を歩いている。言われた様に、そのまま、上がりこむと、汚してしまう。
ただ、それだけ。それだけのこと。
でも……。
どうして、自分に言い訳しているのだろうと、櫻子は、惑った。
つっと、仰ぎ見た先には、あの碧い瞳があった。
昔、母親が生きていた頃、一緒によく遊んだ、おはじきのように、清んでいる。
日が当たると、キラキラと輝いた、あの懐かしい色合いに良く似ていた。
「人の顔をジロジロ見るな」
すぐ間近で囁くように、金原に言われ、櫻子の顔は、さらに火照った。
心の内を見透かされたのではと、恥ずかしくなり、思わずぎゅっと目を閉じる。
すると、仄かな石鹸のような香りに気が付いた。
少しだけ甘い香りが、金原の胸元から漂っている。
落ち着くと思ったのは、煙草や、整髪料のような、強い物ではなく、柔らかなこの香りのせいに違いない。
借金の形に、無理矢理、人を連れてくるような人間に、安堵するなど、ある訳がない。
櫻子は、自分に言い聞かせ続けた。
この男は、鬼と呼ばれている男。
幾度も怒鳴り付けられているではないか。
そして、自分を抱き上げて、いる。
何故?
汚れるからと、言われたが、そんなに汚れるものだろうか?
そうだ、屋敷に上がる前に、足を拭えば良いだけなのに。
どうして?
疑問に襲われている櫻子の背後では、車のエンジン音が流れ、龍の賑やかな声がしている。
柳原の家では、嫌悪すら覚えたものが、同じもののはずなのに、ここでは何も感じない。
いったい、何故だろう。
答えが出ないもどかしさから逃げようと、櫻子は、再び、ぎゅっと目を閉じた。
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